ルカ7.1-10
あの有名な牧師に祈ってもらったら力が与えられ癒され解決する、って思いがちだし、熱心っぽい人に祈ってもらうと本当に力が与えられ癒しが与えられる体験をします。でも中心はその人でなくイエス様です。祈りのお手本は「ただ、(イエス様の)おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」です。(ルカ7.7)癒しのことばはイエス様にあります。祈ってくれた人が有名かどうかは関係ありません。というか、用いられている牧師ほど脱力系なのはよくある話です。用いられているのは彼の力ではないからです。大事なのはイエス様のことばへの信仰です。信仰とはイエス様のみことばへの信頼です。
からだの明かりは目です。(ルカ11.34)何を見るかで僕らの全身の明るさ暗さが決まります。同じように何を聞くかで僕ら全身の明るさが決まります。求めるべき、聞くべきは人のことばでなくイエス様のことばです。
イエス様のことばは必ず実現します。これはリアルな現実です。「光、あれ」とおっしゃると光ができ、「起き上がれ」と言われると死人さえ起き上がります。僕らが求めるべきはイエス様のことばです。あの方法この方法でなくイエス様のことばです。みことばは現実となります。
ある隊長はしもべを癒してほしいと願いました。彼が求めたのはイエス様に来てもらって手を置いてもらうことでなく、イエス様のみことばです。イエス様が一言おっしゃるとその通りになるからです。
"そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。"
(ルカの福音書 7章6~7節)
イエス様のことばさえあれば癒されるとこの隊長は信じました。なぜなら自分のことばさえ、軍隊では絶対だからです。
"と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」"
(ルカの福音書 7章8節)
イエス様が家まで来てくれなくても「治れ」と言われると治ります。イエス様はその信仰をすごく喜んでくださいました。
"イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。"
(ルカの福音書 7章9~10節)
祈る時に大事なことは僕らの願いや求めよりもイエス様のことばです。そして、イエス様が言われたことは既に受けたと信じてオッケーです。というより「すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と言われてます。(マルコ11.25)僕の願いが実現するのでなく、イエス様のことばがその通りになります。祈っていると僕らの祈りの側がイエス様のことばと一つになっていきます。
山に向かって『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。(マタイ21.21)これはスゴイ!ということではありません。イエス様がおっしゃったらその通りになることです。イエス様の願いは御霊の祈りです。そして、御霊は僕らの中におられます。イエス様の願いは僕らの祈りになっていきます。その時に山が動いても驚きではありません。イエス様が願った通りになるからです。
イエス様が病気を治してくれる、その言葉さえあればそのようになります。
僕らが祈る時、大事なのはイエス様の言葉を考えることです。イエス様がこの件についてなんておっしゃっているかを考えて求めることです。神様のことばを求めることと祈りや願いはセットです。祈りの中で神様のみことばが与えられたら、もうそれは実現します。
「あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11.24)
病気の癒し、トラブルや恐れ、壊れた人間関係、敵の攻撃、すべての解決はみことばにあります。イエス様が願い、おっしゃった通りになるように僕らは祈ります。イエスはみことばを信じる信仰の祈りを喜んでくださいます。僕らの祈り方のお手本は「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」です。(ルカ7.7)ハレルヤ!
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