ルカ8.40-56
僕らは、祈ったり求めたりするときに「御心にかなうなら」とかいろいろな理由をつけて、神様の力を弱めようとしたり、納得できる安全範囲に小さく考えようとしがちみたいです。信じることは、神様のみことばに完全に降参して、そのまま足したり引いたりしないで自分をゆだねきることです。
娘が死にかけていて、助けてください!とイエス様にお願いしたお父さんに連絡が来ました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」(49)ところがイエス様は言われます。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(50)死んだ連絡が来ても、イエス様は恐れないで信じるように言われます。ヤイロは信頼してイエス様を家にお連れします。
(52-53節)
人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
自分の理解の範囲を超えてくるイエス様は認めたくないし、信じられないのが人間です。人々がイエス様をあざ笑ったのも当然です。ところが、イエス様は僕らの決めつけを遥かに超えています。
(54-55節)
しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。
信仰とは、神様に降参し、献身的に行動することです。信じたことは行動に現れます。もう一人、信じて行動した病気の女性がいました。
(44節)
彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。
この女性は「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたようです。(マタイ9.21)そして、イエス様は彼女に言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ8.48)信じることは行動することです。「信じます」と言いながら、「どうせウチの娘は癒されない。」とか、「どうせ私の病気は治らない」といって何もしないのは矛盾しています。イエス様は言われます。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコの福音書 9章23節)神様の言葉に権威があります。その通りになります。僕らが調整して自分の納得できる範囲に収めようとする必要はありません。今日もイエス様のみことばをそのまま求め信じて従いましょう。その通りになります。それが信仰です。信じた通りになります。ハレルヤ!
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