2025年1月12日日曜日

ルカ3.1-18「悔い改めの実を結びなさい」メッセージ

 ルカ3.1-18 「悔い改めの実を結びなさい」


「悔い改めなさい」てメッセージはそんなに人気があるわけじゃありません。なんだか「謝れ謝れ」って言われているようで苦しいって思う人も、「また罪の話か…」とうんざりする人もいるかもしれません。


でも、僕らが集まって、今聞きたいのは人の言葉ではありません。あのメッセージが良かったとか、こっちのメッセージが聞きやすいとかじゃなくて神の言葉を聞きたいです。

虚しく消えていく流行の言葉ではなくてこの世界を創り支配している神の言葉を聞きたいんです。神の言葉以上のものはありません。神様がそうおっしゃったら、僕らはひれ伏してそれを聞くしかありません


(2)

アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。


今日の説教は「悔い改めなさい」です。神様がヨハネを通して、時代を超えて、今も僕らにそうおっしゃっているからです


方向を変えなさいです。罪をやめなさいです。それは上から謝れって威張ってるのじゃなくて、そこに命があるから、救われるから、癒しがあるからです。神様の癒しの方法は悔い改めです。

悔い改めの先には赦しがあり、命があり、喜びがあり、癒しがあります。悔い改めなしに福音だ、良い知らせだ、というのはごまかしです。人間の罪こそが全ての不幸の原因です。


死にたくてどうしようもない人がそれを忘れたくて、癒されたくて、オーバードーズとか、違法薬物とかお酒とか、一時的に楽になれる感じを求めます。でも、一時的です。その後はもっと苦しみ自己嫌悪に陥りそれは体も心も蝕みます。


悔い改めることを教えないキリスト教はそれと似ています。本当の原因に向き合わないまま、うわべだけ、ひとときいい感じだけを与えようとするのと同じです

聖書ははっきり何度も言います。「(神は)すべての人に悔い改めを命じておられます。 」(使徒17:30)だから神の言葉である聖書をそのまま伝える説教者は、この神様の命令をそのまま説教する必要があります。イエス様も「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」とおっしゃっています。(ルカ5.32)


ガンを切除するのと同じように、放置していたら、体を蝕み心を蝕んでいくのが罪です。切って捨てて離れることことは、もう一度神様からのいのちと喜びが体中に満ち溢れて、永遠の命が与えられることです。「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになった」(使徒11:18)悔い改めはいのちを回復させます。もし、悔い改めを伝えないなら、いのちの祝福を語ってないのと同じです。


もしかしたら、「悔い改め」とか「罪」にまったく触れずに、ただクリスチャン、とラベルを貼るだけの人もいるかもしれません。そういう人たちの生活は以前と全然変わらりません。その人はずっとその罪の影響で平安を失い、祝福を失い続けるでしょう。


今日の中心人物は、バプテスマを授けていたヨハネです。

旧約聖書イザヤ書は、ヨハネのことを、「荒野で叫ぶものの声」と言います。


(3節-4節)

ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。


ヨハネは悔い改めなさい、叫ぶけど、これはいのちのため、良い知らせのための叫びです。


●嘘の教えに立ち向かうヨハネ


「ヨルダン川周辺のすべての地域」(3)とあります。僕も、ヨハネがバプテスマをしていたと言われるこの地域に僕も行きました。移動はバス。しかもクーラーのついたバスです。バスの中はいいんだけど、バスから降りてからが大変です。駐車場から、ヨルダン川のほとりまで少し歩くのですが、4月でも暑くて、ガイドさんが何度も「水を持参してくださいね、こまめに水分補給してください」と言います。本当に乾いた土地です。バスの降り口に冷蔵庫があって、水のペットボトルがたくさん入ってて、「これをもっててください」って言うんです。


ヨハネの時代、クーラー付きのバスはなかったし、ペットボトルの水もなかったと思います。こんな荒野で、田舎で、いつもは誰もいないはずのヨルダン川のほとりに、何故か何百人か、もしかすると何千人もの人が歩いて集まってきます。炎天下、何キロも。危険です。ハァハァ言いながら、それでもヨハネのところに集まってきているを想像してください。人々は全国から集まってきます。


その人々に相手にヨハネは叫びます。彼は「こんな田舎まで、ヨルダン川のほとりまでよく来てくださいました」と言わなかったし「歓迎します」とは言わなかったし「愛する兄弟姉妹」も言いません。ヨハネは叫んで言っています。


(7-8)

7,ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。

8,それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。


彼が叫んだのは拒絶です。「まむしの子孫たち!」は普通に理解して「悪魔の子孫たち!」という叫びです。悪魔は初めから人を殺すものであり、人を騙すものです。人を苦しめ、神様と人間が分断するように上手に教えるものです


当時、この地域にある毒蛇は、それに噛み付かれると致命傷をだったそうです。そのように、人を傷つけ、殺すような悪魔の子どもたち、と叫びます。あなたの口には毒があると聖書は言います。


「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」(ローマ人への手紙 3章13節)


まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか!

誰が教えたのか、誰がそんなこと言ったのか?と叫びます。ヨルダン川で洗礼を受ければ救われるなんて誰が教えたのか?自分らはアブラハムの子孫だから大丈夫なんて誰か言ったのか?と責めます。それは救われるための警告です。


教会のメッセージは神の愛だけが強調されがちです。でも聖書は神の怒りも地獄の苦しみも強調しています。聖書が教えていることは、神様の裁きと怒りです。だから僕らは救われる必要があるんです。そのままでは永遠に苦しみに落とされるからです。だから悔い改めなさい。悔い改めの実を結びなさいとヨハネは叫びます。


どうして僕らは聖書を歪めて裁きや怒りを言わなくなっちゃったんでしょうか。ヨハネは裁きが永遠の地獄があるから、そこから全力で逃れなさいと警告しています。


(7-8)

「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。


時代を超えてヨハネは僕らにも叫びます。教会が「いいんだよ、そのままで大丈夫だよ」と言うなら悪魔の子です。


(8-9)

『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」


永遠の地獄行きの人かどうか、どうやったら判別できるでしょう。

火に投げ込まれる人は、『われわれの父はアブラハムだ』という人たちでした。自分はユダヤ人だから救われる、アブラハムの子孫だから祝福される、と思っていました。でも、そんなのは通用しません。

もしかすると、遠くまで来て、ヨルダン川で洗礼を受けたらそれでオッケー、と思っていたかもしれません。ヨハネは誰がそんなことを教えたのか!と叫び「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と言います。本当に罪を捨てて神様に立ち返ったならば、必ずその生活に現れるから、行動に出るから変わるから、その実を結びなさい、です。


当時のユダヤ教の「肉的な宗教」は絶頂期にありました。パリサイ人たちは街中で偉そうに振る舞い、外面的な儀式に満足していました。でも、霊的にはほとんど死んでた状態でした。 「儀式主義」に依存していた人たちへの強烈なメッセージです。


ヨハネによる水のバプテスマは、肉的な自分の栄光やプライドを破壊するシンボルでした。見せかけだけの信仰を全部取り去らないと、本物の救いはないことをヨハネを教えていました、


皆さんに質問です。皆さんの人生には悔い改めの実がありますか?


教会に来て洗礼を受けたから、それでOKと誰が教えたのか!「主よ、主よ」と賛美してるから救われるって誰が教えたのか!ヨハネは時代を超えて僕らにも叫んでいます。悔い改めの実を見せなさい。

罪を嫌い捨てていくその生活の変化を見せなさい。とヨハネは叫んでいます。


もし、口だけの人なら、いくら教会で賛美して神様と言っても、神様の裁きの日、私はあなたたちを知らないと言われます。


(マタイ7:21)

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。


神に立ち返った人は内側から変えられるはずです。どんな頑固な人も作り替えられます。


(8節後半)

神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子ら(祝福された人たち)を起こすことができるのです。


神様は地のチリから人間を作りました。神様にはできます。チリに命を吹き込むことができます。ならば、石をアブラハムの子孫、つまり祝福の子どもたちたちを作ることができます。どんな頑固で固いの人たちが神様に息を吹き入れられて、祝福の子供に変えられることができます。私には無理ですが、神様にはできます。


●イエス様をお迎えし満たされるため


(4-6)

4,これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。

5,すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。

6,こうして、すべての者が神の救いを見る。』」


古代世界では王様がどこかを訪問するとき、その道は整えられ通が飾られ赤い絨毯を敷かれ、楽団が来て、その王様の到着を告げる演奏をして迎えるのが習慣でした

王様にとってふさわしくないものは何一つない道が作られます。ゴミが1つも落ちてない王様にふさわしい美しい道を作ります。そこに王様が来られ、その街に入りその街を支配し、その街は王様に祝福されていくんです。


ヨハネが叫んでいたことは「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」ということです。これは、王様をお迎えするように、イエス様をお迎えするように、邪魔なゴミ、罪を捨てなさい、真っ直ぐになりなさい、神様を阻むプライドとか自慢みたいな山は低くされ、神様と断絶しているような谷は埋められるようにしなさい、です。罪は神様の道を遮断します。イエス様をお迎えできないようにしてしまいます。悔い改めることで、僕らはイエス様を迎え、イエス様の住まいとなり、聖霊に満たされ、その実を結び表します。


●神様の癒しのプロセス


イエス様は、医者である神様は、痛いけど確実な方法で癒してくださいます。表面だけを隠して治した気にさせたりしません。患部を隠して放置するようなことはしません。イエス様はみことばのメスで腐った患部を完全に取り除きます。


霊的な癒しのプロセスでも同じことです。神様は僕らが自分を正当化し誤魔化していること、まずは、みことばの光に照らされて、隠れている「汚れ」「罪」ををはっきり自覚させてくださいます。


「罪を指摘される」ってプロセスは決して楽しいものじゃないけど、本当の意味で癒され命を受け取る準備として必要不可欠なものです。自分には罪があり、自分には力がないと示されます。神様から罪を示されると、心からこう思います。「神様、罪人の私を憐れんでください!」


あんまり自分の罪深さについてわかんないままの人は、神様によって生活が「進化」するとか、バージョンアップするとか誤解しています。生活スタイルは変えないけど、神様は良いことだけをしてくださいよ、祝福してくださいよ、と思います。実は自分が王様、神様が下です。


ヨハネは誰がそんなことを教えたのか、と叫びます。


(7-8)

「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。


自分のプライド、愛のなさ、貪欲さ、不誠実さは徹底的にへし折られる必要があります。痛いけど、避けられないし、悔い改めて、その傲慢さを捨てて、全てが変わっていくのが本当の救いです。


偽の悔い改めというのもあるらしいです。


口だけは自分の罪が示されました、愚かなものだとわかりました、っていうけど、生活自体は変えるつもりも手放すつもりもない人です。教会では、私は小さきものです、悔い改めました、って言えばオッケーと学んだようです。いつまでも自分が中心です。


うわべだけ口だけの悔い改めをすると、自分を誤魔化し続ける必要が出てきます。神様からに溢れ出る喜びも平安がないのに、クリスチャンっぽく振る舞うのは疲れます。

偽善です。こうすべきだ、こうしなければとそれらしいことを言うし、もしかすると反対に熱心に奉仕するかもしれません。でも、それは悔い改めの実ではなくて、自己主張です。自分は正しい良いクリスチャンですよね、と認めてくださいよ、というアピールかもしれません。見てて痛々しいです。


●悔い改めの実際生活


人々は、それを聞いてどうなったでしょう。こんなところまで来て怒られ不愉快だって帰った人は1人もいません。いたかもしれないけど書かれていません。人々は心刺され、どうしたらいいか具体的なことを尋ねました。


(10-11)

10,群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」

11,ヨハネは答えた。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」


悔い改めの結果は隣人を愛することです。神様の愛がそのようにさせてくれます。本当に悔い改めた人はイエス様がその人の中に来て住んでくださいますから、イエス様の考えが出てきます。これが王様を自分に迎えることです。

「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。」僕らが思う下着ではなくて、服の下に着る、当時生活に必要なものだったそうです。必需品のことです。それを持ってない人が周りにいるから、持ってない人に分けなさい。


生きていけない、というものさえない人たちが周りにいるから、分けてあげなさい、とおっしゃいます。「食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」食べ物がなくて飢えている人たちに分けなさい、それが悔い改めの実です。

自分さえ良ければいいと思い、自分は美味しいものを食べ、飢えていく人たちを無視するのはやめなさい、ということです。


皆さんのお金の使い方はどうでしょうか。イエス様のお金の使い方と一致してるでしょうか。


貧しい人を助けてもキリがないと言う人がいます。岳ちゃんのタンザニアでの話を聞いても、博子さんの勇気の家に来る女の子たちの話を聞いても悲惨です。どこから手をつけたらいいかわかりません。

マザーテレサは「何千万人もの人々が貧困と飢餓の中に苦しんでいるインドで、わずかな人たちだけを救っても意味がないのではないか」と批判されることもありました。そのような人たちに対して、マザーテレサはいつもこの言葉で答えていました。


「わたしたちのしていることは、

 大海の一滴に過ぎません。

 ですが、もしこれをするのをやめれば、

 大海は一滴分小さくなるでしょう。」


世界を変えるために巨大なことを成し遂げるのでなく、目の前の一人ひとりに尽くすこと、これが答えです。神様がヨハネを通して叫んでいる事はシンプルです。あなたが持っているものは持っていない人に与えなさい。


"喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。" コリント人への手紙 第二 8章12節 


理屈をつけないで、あなたが神様から預かってるものは、持っていない人に分けなさい。です。一番小さい人にしたのはイエス様にしたのです。皆さんはどうでしょうか。飢えている人に対する態度はどうでしょう。お金の使い方も、時間の使い方も、神様のお金、神様の時間です。主よ、主よ、と言って、神様から預かったお金を不正に管理し、自分の欲望のため使うなら、それは偽物です。


次もお金に関することです。


(12-13)

12,取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」

13,ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」


当時の取税人たちはローマ皇帝に収める金額以上のものを庶民から取り立てることができました。それで取税人は溜め込み、豪遊していました。ヨハネは彼らに裁きを宣言します。


(9)

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」


だから、彼らは言います。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」答えはシンプルです。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」


さっきは貧しい人に与えることでしたが、今度は不正な収入を得ないことです。収入も支出も、不正をやめてお金の扱いを誠実にすることです。皆さんのお金の扱いはどうでしょう。皆さんの収入は誠実でしょうか。お金は神様が預けてくれた神様のものです。罪はそれを不正に手に入れ、不正に使うことです。それでいて、主よ主よ、と言っても祝福があるはずがないです。


次もお金に関することです。


(14)

兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」


兵士たちは自分達の力や立場を使って、お金を奪ったり脅したりすることがあったようです。自分達の給料が不満だからです。


もっと欲しくて、それで不正をして奪ったり盗んだりしていました。それはお金が自分を幸せにし、この権力がいい思いをさせてくれると思っているからです。ヨハネは「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」と言います。


「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」


大事なことは神様から与えられている金額に満足することです。それによって聖霊に満たされているかどうか分かります。神様が一緒にいる人は安心感があって、誠実さがあって、そして全てが与えられます。


(ヘブル 13:5)

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」


(1テモテ 6:9-10)

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。


お金を愛することから、執着することから嫉妬、ねたみ、怒り、裏切り、 盗み、嘘など多くの悪が出てきます。僕もボーナス査定の時にいつも不満と怒りが出てきました。「これだけかよ!」と。お金を愛すると喜びも感謝もなくなり逆に悪い感情ばかりが出てきます。


悔い改めの実は、受けるのではなく与えることです。実際に貧しい人に分け与え、神様に献金をささげることによって、お金を愛する心とか、頑固さが解けていきます。


行動と心はセットです。実際に行動に移すときに、価値観が変わり、人に与えることが喜びになり、あらゆる悪や心配から解放されます。皆さんのお金に対する執着はどうでしょうか。


罪を指摘されるプロセスは決して楽しいものじゃないけど、本当の意味で癒され命を受け取る準備として必要です。


今日、自分が捨てるべき罪はなんでしょう。不誠実なお金の扱い、持ち物や時間や立場の不正な使い方はあるでしょうか。不正をしたまま誤魔化したまま祝福されることはありません。誰がそのままで、迫り来る怒りを逃れられる、って教えたのか、とヨハネは叫びます


(9)

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」


悔い改めにふさわしい実を結びなさい、と今日、聖書を通してヨハネが叫んでいます。口だけでなく行動しましょう。醜い偽りの生活を変えてもらいましょう。

死んでいくような流行の言葉や教えではなくてこの世界を創り支配いる神の言葉です。永遠の裁きとか、それとも永遠の祝福か、に人を分ける言葉です。


考えてみましょう。


あなたが悔い改めてイエス様に明け渡し、生活を変えてもらうべきことを具体的に示していただきましょう。


それをどのように行動で表すか、具体的に言いましょう。


黙祷しましょう。


0 件のコメント:

コメントを投稿