2025年1月18日土曜日

ルカ5.17-26 求めなさい、そうすれば与えられます。 メッセージ

 ルカ5.17-26 求めなさい、そうすれば与えられます。


●求めなさい 探しなさい、叩きなさい


信仰は行動に出ます。どんな妨害、障害を乗り越えても、イエス様が必ず癒してくださる、って信じる人は行動します。


(マタイ7章7-8節)

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。


神様を信じて求めて、行動する時に、簡単に、とは書いてないです。ほとんどの場合、壁があり摩擦があります。でも摩擦は大事です。摩擦があるから滑らないで歩くことができます。摩擦があるから車は前に進みます。摩擦がないと今のツルツル道路だとどこに行くかわからず危険です。同じように信じて求めて行動するときには抵抗とか摩擦も必要です。摩擦や抵抗や壁があるからこそ本当に信じる方向に自分で選んで行動していくことができます。信じる人はリスクや壁があってもイエス様に向かって行動します。


今日の話は、4人の人が中風で動けない人を担架に乗せて、きっとイエス様なら癒してくださると信じて連れていった話です。中風とは、18節欄外に、「体が麻痺した状態の人」とあります。

動けない、話せない、何もできない人を4人は担架に乗せて運んできました。


イエス様ならきっと直してくれる、と信じました。これが彼らの信仰です。もちろん壁に当たります。まず、イエス様がいた家は満員で近づけない状況です。それでも彼らはイエス様に会える方法を求めて、信じて行動しました。彼らはどうしたでしょう?


(18-19)

18,すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。

19,しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。


この4人の人、どうするって話したと思います。

Aさんは、「いや、無理でしょ。帰ろう」「明日にしよう」って言ったかも知れません。Bさんは「いやでも待って、上からいけるかもしれない。」「屋上に行ってどうすんの?」「この家、屋上の屋根、穴を開けれるから、そっからつり落ろして見るのどうかな?」「そんなの危ないって」「でもそれしかない」そう言う攻防があったと思います。4人の間でも抵抗や摩擦はあったと思います。Cさん「イエス様って死んだ人でも蘇えらせるらしいよ」最終的には、信じてやろうということになり屋上に行きました。


相当時間もかかったし、途中家主から怒られたかもしれないし、下でイエス様の話を聞いていた人たちには迷惑行為です。イエス様はどうしたか?「彼らの信仰を」見たとあります。

この行動は、人には異常に見えるけど、イエス様が見たのは彼らがイエス様を信じるゆえの行動です。信仰は行動に現れます。


(20)イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。


メッセージの今日の大事なポイントは求めなさい 探しなさい、叩きなさい、です。

文句は言われたくないし、怒られたくないし、安全圏の中にいたいのが僕らです。リスクを背負ってまでイエス様を求めないのが僕らです。神様より大事なのが、安全とかリスク回避です。快適さを失うくらないなら、イエス様のところに行かない。安全性はイエス様より大事。イエス様はその次です。


反対に、イエス様を信じて求める人は、叩く人、探す人はリスクよりもイエス様。その信仰は行動に出ます。他人の屋根を勝手に工事をして穴を開けたらダメに決まってます。後で大変な補償問題になることになるのはわかってます。だから動かず麻痺した人を放って置くのか、それとも、リスクを受ける傷やストレスを捧げものとして、イエス様を信じ従うのか、今日、僕らは問われています。もし、この4人が行動しなかったら彼は癒されなかったし、救われませんでした。

信じて従い行動する時、予想以上の祝福が待っています。彼らが願った以上のことを与えてくだいます。信じて、行動に移することはどんなささげものよりも天で喜ばれています。


(20)イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。


皆さんに質問です。今日、イエス様を信じ求めて行動すべきことがありますか?


何か神様からするように押し出されている。何か変えなければ、行動しなければ、と神様から押し出されていることはありますか?このまま楽なところにいるだけで何も信仰を表していない、って感じていることはありますか?その行動はおかしいと思われるし批判されるでしょう。でも、罪人を病人をイエス様のところに連れて行きたい、と願うのは御霊の願い、イエス様の願いです。


彼は癒され、イエス様の言った通り、寝床を持って立ち上がり賛美しました。そして周りの人々も皆、賛美しました。


僕らの祈りや求めはぼんやりしすぎることがあります。神様、家族を祝福してください、それだけで終わることが多いかもしれません。


本当は何を求めているのか、その友達が、家族が本気で救われてほしいと思っているのか?と聞かれたらどう答えますか?イエス様はその人を癒し、永遠の命を与えてくれると信じてますか?と聞かれたらなんて答えますか?


僕らはあまり、具体的に求めず、祈ろうとしてないかもしれません。

神様の祝福がありますようにとか、まあ普通のことは祈ります。でも、本当に答えを期待して、信じて、そうなるために行動してるわけではありません。イエス様は言われます。あなたは本当に求めているのか?行動するつもりがあるのか?


(マタイ7章7-8節)

7,求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

8,だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。


僕らはみんな仲間とか家族とか友達とか隣人がいます。でもその中の1人について名前を挙げてこの人を救ってください。助けてください。癒してくださいと祈りましょう。祈ったら、どうしたらいいですか?と聞きましょう。祈りが確信になり、行動になるなら、もう聞かれています。


(1ヨハネ5章15節)

私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。


僕らは自分に聞いてみるべきです。本当に求めているのかどうか。本当に信じているのかどうかと。自分に聞いたら、意外と本音では求めてないことがあるかもしれません。

もし、本当に求めるなら与えられます。本当に叩くなら、探すなら見つかります。その祈りや願いが、神様の御心からずれていたら修正されます。


自分の思い通りじゃなくて神様が思う通りに委ねるのが1番だ、と習いました。牧師が言ってました。

自分の願いの通りにならなくても神様が最善をするのだから委ねましょう。って。


でも、委ねるのと、願いもしないのは違います。信じるといいながら行動しないのも違います。

委ねるます、というのと、諦めてます、とは全然違います。


僕もたくさんそうずるい言い方してきました。

執事会で、神様の教会だから神様が決めてくれます、どっちになっても委ねます。これは、良さそうに見えるけど、本音は怠慢、めんどくさい、と言う傲慢さです。不誠実です。考えることとか行動することが面倒くさいのを、口では委ねますとか、どちらになってもいいですと言います。

本当に委ねる祈りは、ちゃんと、こうしたいです、嫌です。苦しいです、って言うことです。イエス様がお手本です。


イエス様はゲッセマネの園で、本音で祈りました。本音で、この苦しみを私から遠ざけてくださいと。嫌です。十字架は嫌です。この苦しみ、杯を遠ざけてください。でも、時間をかけて祈るうちに聖霊によって修正されました。神様、私の思いではなく、あなたの御心の思い通りにしてください。つまり十字架の苦しみを受けます、祈りが変わったんです。これが委ねる祈りです。


リスクや戦いを恐れて何も祈らないのは、怠慢か、傲慢です。

自分の心が祈りによって変えられることを恐れているなら、頑固です。本当の謙遜とは、祈る中で自分を捨てていくこと、変えられていくことです。そいて、神様の願いを知り、それに信頼して妨害があっても行動することです。イエス様がお手本です。イエス様の御霊が僕らの中に生きておられます。


お祈りには2つの部分があります。1番人間の部分です。それは求めることです。信頼することです。行動することです。1番神様が与えて下さるということです。この2つがセットになるのです。一番人間がすべきことを求めること、信頼して行動することです。


神様の力や可能性を引き下げることを神様は許しません。同時に、約束の物を受けるに必要なのは信仰と忍耐です。妨害も障害もあります。でも、信じて行動する時に開かれます、見つかります、与えられます、とイエス様が宣言しておられます。地上でその祝福を見なかったとしても、神様は必ず答えてくださいます。


●もっと良いもの。=罪の赦しの重要性


ところで、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われたのは意外だと思いませんか?

彼らが求めたのはたぶん「身体を治して!」ってことだったはずです。

4人の友達は、ここまでして、体が病気が癒される、と期待してきました。イエス様が何を言ってくれるか注目したはずです。そしたら最初の言葉が「友よ、あなたの罪は赦された」でした。ちょっとガッカリしてたかもしれません。そういう霊的なことスピリチュアルなことじゃなくて、今動けない人癒して欲しいのにと思うでしょう。でも、イエスは大事なことから順番に行ったんです。本当に1番大切なことって何?


イエス様の答えは、罪が赦されて、神様に受け入れられ、神様のこどもとなり、永遠の命を得ることです。どんな人にとっても1番大事です。


もし、体が健康になっても罪があり、人を恨み、神を憎み、自己中心であり続け、高ぶり続け人をさばき、神を憎むなら、健康になっても、すぐにまた不満が出てくるでしょう。その罪のせいで地獄で永遠に苦しむなら意味がないです。体が不自由であっても、罪がなくなり、不満や恨みや憎しみから解放されて、神様に完全に受けいらられ、永遠に祝福される方がいいです。


イエス様が癒したのは、神様と正しい関係を持つことです。赦されたもの、罪がきよめられた人として、感謝して神様に愛されて生きることです。それ以上に必要なものはありません。


もう他人を恨まず憎まず生きることができます。罪はあなたを苦しめます。人を恨み神を憎み続けるなら、自分で毒を飲み続けているのと同じです。罪は心を破壊し健康を壊し、神様との関係を壊し、罪は人間関係を壊します。そして、最後には永遠の闇に落とされ永遠に苦しむでしょう。イエス様ははず、1番大事なことを与えてくれました。「友よ、あなたの罪は赦された」


イエス様が来たのは、悔い改めさせて救うためです。新しい命を与えるためです。

ところで、中風の人は寝たきりで、罪があります、神様ごめんなさいと言えなかったし、悔い改めます、としゃべることができなかったのに、どうしてこの人は赦されたのでしょう。


この人の心で何が起こったのか。聖書は何も書いていませんが、イエス様は全てがわかったとあります。21節にイエス様は心の中の考えを見抜いている、と言われます。例えばパリサイ人たちが心で文句を言っているのも聞いています。イエス様は、心の中で言ったことを全部知っています。僕らの心の中を全部知っています。


寝たきりでしゃべれない病人が、心の中で何を言っているのかわかりました。私の罪を赦してくださいって思いました。なぜそれがわかるか、罪が赦され神様に受け入れられたことを、このあと感謝し賛美しているからです。


もし俺は悪くないし、許される必要ないし、赦しなんていらないし、こんな病気にしたのは神が悪い、と心の中で言ってたら赦さされず癒されなかったでしょう。この人、赦されて癒やされて神様を賛美したのです。


(25)

すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。


彼も心の中で求めていたことがわかります。求めなさい、そうすれば与えられます。


良いもの食べて、素晴らしい健康を手に入れたとしても、神様に裁かれて地獄行きなら意味がないです。神様に赦され、受け入れられ、永遠に神様の子どもとして生きることが人間に一番必要なことです。

彼は賛美して喜んで帰りました。


●神様以外にはできない


さて、それを見ていたパリサイ人たちは文句を言いました。心の中だけで。


(21-23節)

21,ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」

22,イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。

23,『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。


言うだけならどっちが簡単でしょう。どっちもすごすぎて普通の人には無理です。人を赦すことができるのは、被害者か、神様です。また、病気の人に「起きて歩け」とも言えません。どちらも言えません。


神様しか言えないことをイエス様は言いました。罪の赦しを宣言しました。それを聞いた彼らは「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」と言いました。確かにその通りです。なぜなら神様以外に罪の赦しはできないからです。


(23)

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。


口だけで赦したと言っても、本当に赦されたのか、誰も証明できません。イエス様はまず、神様しか宣言できない「赦し」を宣言し、それを証明するために「癒し」を宣言されました。目的が書かれています。


(24-25節)

24,しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」

25,すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。


●この後の十字架


イエス様はこの後十字架で処刑を受けます。イエスが来たのは、口先だけの赦しはなくて、その罪を引き受けて、身代わりに呪われるためです。血を流すことがなければ、罪の許しがないと聖書は言います

あの死刑によって、あなたの罪は消え去ったと宣言してくださいました。これはイエス様がその罪を引き受け、呪われ、殺されることを意味します。


声をしっかりしなさい、安心しなさい、あなたの罪全部許された、僕らにも言われています。聖書はそのメッセージを伝えています。みなさんの罪は今ありません。罪ゼロ個です。キリストが全部引き受けてくださいました。


イエス様以外には、あの十字架による他は、赦しは宣言できません。


●適用


考えてみましょう

1あなたが本当に祈り求めていることは何ですか?

2そのために行動し始めることは何ですか?

3あなたにとってはがすべき屋根はありますか?


彼らの信仰は行動に現れました。動けない人がイエス様に赦され、癒やされ、永遠の命をもち、賛美が生まれました。


誰のために行動しますか?誰が癒されるためにあなたは時間を使い力を使い、リスクを負いますか?

屋根を剥がし、みんなから文句を言われても、イエス様のもとに連れて行きたい人は誰ですか。それとも

それともリスクは負わず、危険は侵さず、自分の安全圏の中だけで過ごしますか?


全ての人に福音を伝えなさい、と言います。福音を伝えるにはリスクがあります。妨害があります。でも、それこそが神様への信仰の表れ、捧げ物です。


誰のためにリスクを負って、犠牲を払ってイエス様のところに連れて行きますか?

あなたが行動するときに、あなたが屋根を剥がして、イエス様のところに誰かを連れていく時に、赦しが与えられ、賛美が沸き起こり、喜びが湧き上がります。求めなさい、そうすれば与えられます。それは行動することです。


トラクト配布をすると喜びが湧き上がります。良かったら集会に来ませんか、ってラインすると喜びがあります。イエス様のことをインスタにあげると喜びがあります。教会の集会をインスタで宣伝すると喜びがあります。それを読んでイエス様のところに連れて来られる人が起こされるかもしれないからです。もちろんリスクもあります。傷つけられたり、がっかりすることが起こり、お金がかかり力も時間もかかるかもしれません。でも、それ以上の天の喜びが地上にも注がれます。天の賛美が地上でも与えられます。

中風の人も、周りの人も賛美しました。感謝しました。

求め、祈り、行動する時にそこに神様の栄光が現れます。ハレルヤ!


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