僕は23歳の時まで宗教大っ嫌い神様はいないと信じてました。むしろ嫌いだったし避けていました。
で、その頃、僕が音楽をやる目的はモテるため、カッコつけるため、有名になるため、お金持ちになるためでした。どうやったら音楽がお金になるか考えてました。
クリスチャンになってからは音楽をやる目的が変わりました。目的は神様が讃えられるためです。
今日もそう思っています。今日の賛美がメッセージがただ神様をほめ讃えますように。人に注目することで終わりませんように。
●喜ばれる賛美って?
うちの子たちが幼稚園くらいの時、「パパ誕生日おめでとう!ハッピーバースデートゥーユー♪」て、めちゃめちゃ嬉しかったですね。かわいかったし。その時に、音程とか悪いとか、ズレたとか、どうでもよかったです。ただ嬉しかった。子供たちが声を合わせて、パパありがとうって歌ってくれた。もうそれだけで十分です。
あるとき、思いつきで子供たちに歌わせて、おばあちゃんにありがとうの歌を歌わせたんですよ。こんな曲「のりこおばあちゃんいつもありがとー♪」「のりこおばあちゃん大好きだよー♪」
それ録音しておばあちゃんに送ったら、それ聞いて泣いたそうです。
子供たちが声合わせて心込めて、喜んで歌ってくれたら、もうそれで十分です。親にとっては最高のプレゼントです。そして、神様にとってもそうだと思います。どんな生贄よりも神様を賛美することは喜ばれる捧げものです。
(ヘブル人への手紙 13章15節)
"それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。"
神様の子どもたちが声を合わせ、心合わせて歌うのは神様にとっての喜びです。賛美は神様に愛を表すことです。歌がうまいかどうかは関係ないです。もしも、「めんどくせー」と思っていたらやらない方がいいと思います。がっかりです。賛美は歌う祈りです。
そして、イエス様は祈り方を教えてくださいました。
●御名が聖なるものとされる、って?
"ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。”
(マタイの福音書 6章9節)
この「御名」とは神様の存在とか神様の力とか神様の凄さとか、神様の愛とか、憐れみとか、ご臨在とか、とにかく神様の全てを表します。神様の全てがあがめられますように。神様の全てが聖なるものとされますように。
「聖なるものとされますように」
「聖なるもの」とは「神様のもの」という意味です。取り分けられた、とか、人間とは隔絶されている、汚れのない、と言う意味です。
聖なる書と書いて、聖書。神様の書、神様の言葉です。
聖なる歌と書いて、聖歌。神様の歌です。
聖なる霊と書いて聖霊。神様の霊です。聖なる、とは、神様だけのもの、と言う意味です。
だから「御名が聖なるものとされますように」とは神様の名が、その偉大な名前が、神様だけのものになりますように、って祈りです。これが賛美の目標です。
反対に言うと、神様だけの素晴らしさ、神様だけの栄光や力なのに、僕らは俺の凄さ、俺の素晴らしさ、自分の栄光にしたがる性質があります。良い点とったら俺の力、仕事ができるのは俺の努力、モテる服を着るのも自分の栄光。何か与えられた時に、神様に感謝するより自慢にしたがるのが僕らです。神様より自分を上に置きたい気持ちがあります。
神様の聖なる名を自分の名前とすり替えようとする性質が僕らにはあります。最初に人間が造られた時から、神様より自分が上、自分が神様になりたいってのが、罪です。神様より私って高ぶりが罪の基本、根っこです。
賛美はそれと真逆です。御名が聖なるものとされますように。神様だけの栄光となりますように。
僕じゃなくて、神様です。と宣言することです。
「御名が聖なるものとされますように」
遠藤のメッセージが良かったのでなく、神様が与えてくださったメッセージがよかった、って神様がたたえられますように。って神様がたたえられますように。御名が聖なるものとされますように。
今日も神様の力、存在、愛、恵、良いもの全部が神様のものとして誉められますように。
●祈れない人間
ところで、祈れない時ってあると思うし、歌いたくない日ってあると思います。
やっぱり根性では歌えません。頑張ってもエナジードリンク飲んでも賛美は無理です。
祈りも無理です。
福音書を調べたら、弟子たちたちが祈ったって箇所がなんと、ゼロです。
十字架の前の夜、ゲッセマネの園でも弟子たちは眠ってしまいました。
そんな弟子たちが、イエス様が復活して天に行かれた後、めっちゃ祈る人たちになりました。彼らは昼も夜も祈っていました。何が起こったのでしょう?
答えは、聖霊が与えられた、ってことです。
自分からは祈りもできなかった弟子です。でも、聖霊が与えられたら祈り、賛美し、感謝になりました。彼らに与えられた同じ聖霊が僕らにも与えられています。
●御霊によって歌うとは?
僕らの中から賛美は出ません。自分のプライドとか余計なものは出てくるけど、自分からは賛美は出ません。祈りも出ません。
でも僕の中にイエス様の御霊がいます。イエス様が住んでます。御霊が歌わせてくれます。御霊が祈らせてくれます。聖なる霊と書いて、聖霊です。神様の霊が僕らの中に住んでおられます。
僕が歌うんだけどでも御霊によって歌います。御霊が歌わせてくれるんです。御霊に満たされることによって賛美は与えられます。順番が大事です。
エペソ5章
18,御霊に満たされなさい。
19,詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
僕の好きなアーチストの名前は「ルアワーシップ」です。これはヘブル語のルア(息、御霊)+ワーシップです。息と御霊は同じ言葉「ルア」です。みことばと霊も息も同じ言葉です。。
息を吸うブレスを吸うように御霊を受けましょう。
空気を求めるように、酸素を吸うように御霊を求め、そして賛美の言葉を吐き出します。
御霊は神様の素晴らしさを見させてくれて感じさせてくれて、歌詞の意味がよくわかるのは聖霊が教えてくれるからです。聖霊はもう住んでいます。僕が歌ってんだけど、イエス様の御霊が歌ってます。僕の歌だけど、イエス様の歌。それが正解です。自分の力じゃなくて、イエス様によって、御霊によって賛美しましょう。
さっき、御名って神様の力とか臨在とか愛とか全部の意味って言いました。
世界中のクリスチャンが「イエス様の御名によって祈ります」って言います。つまり、僕の祈りだけど、でもイエス様の力、イエス様の存在、イエス様の凄さ、イエス様の全てによって祈ります。そういう意味です。
同じように、僕が賛美したり祈ったりしているのでなく、イエス様がその権威によって力によって歌わせてもらっています。
イエス様を信じる人はこのイエス様の霊が御霊が住んでいます。
●十字架のイエス様を歌う
天国の賛美の歌詞って黙示録に載ってます。
それは、イエス様最高!って感じでなく、屠られた子羊って歌ってます。
殺された、血を流された、子羊って歌ってます。
天国で賛美されているイエス様は、殺された、傷ついたイメージの子羊です。
僕らも教会の中心はこの十字架のイエス様です。あの流された血、犠牲、それを思い出して、僕の罪のためにあの人が呪われ、僕は許された、それを感謝するのが賛美だし、福音です。伝えるべきはこれです。十字架によってあなたも赦されたよ。これが福音です。
パウロとシラスはあるとき人々から憎まれ、鞭で打たれてイエス様と同じように血だらけになって、投獄されました。そのとき彼らは祈り歌うことができました。その歌はどんな歌か書いてないけど、自分達の置かれる状況はまるで、苦しみを受けてくれたイエス様と同じでした。
使徒16章
22 群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。
23 そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
24 この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。
25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
血だらけになりながら歌えました。賛美できました。祈れました。彼らの根性で歌ったのではないです。気合いで歌ったのではないです。イエス様と一緒に傷つけられ、イエス様もそこにいて、イエス様の御霊によって歌わせてもらえました。祈らせてもらえました。
彼らの心の中にはイエス様の姿がありました。イエス様が傷つき、僕らもイエス様に繋がってイエス様と同じ苦しみを受けている、って思ったはずです。今、イエス様も一緒です。
どんな歌詞だったか書いてません。でも静まり返った夜の牢屋の中で、彼ら傷だらけになりながら静かに歌っていました。二人の声は一つ、二人の心は一つでした。
自分も鞭で血だらけになって、イエス様が彼らの中にいて、十字架を思い出したのは間違いないです。
痛いとか、苦しいとか、よりも、イエス様はこうやって僕らを赦し、僕らのために犠牲を払ってくださったって思ったはずです。
イエス様が十字架で殺されて、僕らは赦され、きよめられ、地上では苦しみがあるけど、希望があるから神様に感謝しよう、って歌ったと思います。血だらけになって感謝の歌を歌ってる人、見たことがありません。周りの人たちは何を言っているのか、何を歌ってるのか、何を祈ってるのか耳をそばだてて聞いていました。
25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
そして、看守も聞いていました。これは歌うメッセージでした。
この後地震があって全員の鎖が外れて、牢屋が空いたんだけど、聞き入っていた囚人たち、誰も逃げません。ここに救いがある、ここに罪の赦しがあるってみんな思いました。このパウロ先生の言う歌ってるイエス様に従いたい、感謝したい、って思うようになっていたようです。
しかも、看守もこのイエス様を信じました。
囚人が逃げたら、逃した看守は死刑です。それでも、誰も逃げませんでした。
29 看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
30 そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
歌は祈りであり、同時にメッセージでもあります。
歌は福音を伝えます。痛みの中、苦しみの中でも、イエス様の十字架を思い出して歌うメッセージ。
僕らが歌う内容は、神様への祈りだけど、同時に自分にも周りにも神様の十字架の恵を伝え教えてくれます。歌は、周りに広がります。
詩篇96篇
1,新しい歌を主に歌え。全地よ主に歌え。
2,主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。
3,主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。
僕らからは出てこないけど、御霊が教えてくれる。御霊が十字架の恵を語ってくれる。これが賛美。
御霊が歌わせてくれて、祈らせてくれる。これが賛美。
人間的な力によらない。最初から最後まで御霊が歌わせてくれ、教えてくれます。歌は教えてくれます。
イエス様の力によって賛美しましょう。そしてこの救いをあらゆる人たちに伝えましょう。
賛美は祈りです。そして、賛美はメッセージです。ハレルヤ!
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