レビ10.1-11
僕らは神様の考えより自分のやり方が好きなようです。だからこそイエスは「御心(神様のご計画や願い)が天で行われるように、地でも行われますように」祈りなさい、とおっしゃいます。僕らがすぐにズレていくからです。神様の聖さや力や愛や栄光が表されるのは人が自分を低くし、神様のことばに聞き従うときです。その時に人々は喜び叫び神様を礼拝します。(9.24)
"モーセはアロンに言った。「主がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」アロンは黙っていた。"
レビ記 10章3節
逆に言うと、神様に聞きもせず従いもしないなら、神様の栄光が現れることもありません。人を通さなくても、神様だけで充分素晴らしいことをなさいます。…が、神様は僕らを使い、僕らがが神様にくっついていることで栄光を表してくださいます。ちょうど、ぶどうが枝を通して実を実らせるのと同じです。僕らは枝、イエス様はぶどうの木です。(ヨハネ15.4-5)
大祭司アロンの2人の息子は祭司としてどのように礼拝するかを神様から聞いたはずでした。…ですが、すぐに自分の考えとやり方に変え、神様をナメてかかったようです。
"さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。
すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。"
レビ記 10章1~2節
祭司である2人の息子は神様から焼き殺されてしまいました。その理由は「主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた」からです。(1)
祭司が火の上で香を炊くのは神様への祈りを象徴しています。そしてその香は勝手な調合や手順を禁止されていました。「その割合で作る香を自分たちのために作ってはならない。(…中略…)これと似たものを作って、これを嗅ぐ者は、自分の民の間から断ち切られる。」とあります。(出エジプト記 30章35~38節)
そもそも、汚れた人間が聖なる神様に近づくなら殺されてしまいます。僕らが神様に近づくことができるのは、その前に身代わりの動物の血が流され、殺されているからです。いけにえの動物によって「すでに罪ゆえの処刑は終わった」とみなされます。それはイエス様の十字架を表しています。神様に近づく道はイエス様の十字架以外にはありません。(ヨハネ14.6)
彼らは神様を軽く見て、汚れたまま、畏れがないまま、従わないまま神様に近づいたようです。もしかすると酔っていた可能性もあります。後で次のように注意されています。
(9節)
「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。
当時、礼拝する場所は聖所と言われる場所でした。そこで身代わりの犠牲の動物が殺すことは、罪の結果は死であることを目の当たりにする厳粛なことでした。一番奥の部屋である至聖所は大祭司が血を携えて年に一度だけ入ることができる場所です。アロンの子たちはそこに軽く勝手に入ったようです。後で神様は言われます。
"アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。
主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。"
レビ記 16章1~2節
ナダブとアビフは「大丈夫っしょ」と神様を低く見ていたようです。
同じように僕らも神様より自分を上にしたがります。神様の聖さや力や愛や栄光が表されるのは、僕らが自分を低くして、自分を手放して神様のことばに聞き従うときです。神様は言われます『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』(3)
今日、もう一度流されたイエス様の犠牲の大きさを考えましょう。神様が受け入れてくださることの背後にはイエス様の十字架があることを考えましょう。あの方の苦しみと死は軽いものではありません。今日、もう一度イエス様がご自身を捧げてくださったことを考えましょう。神様より自分を上にしていたことを告白しましょう。自分を低くし、イエス様に聞き従うことによって神様は聖さと栄光を表してくださいます。(3)神様、今日あなたの栄光を表してください。僕らを従順なものとして用いてください。
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