2025年2月19日水曜日

レビ11章

 レビ11章


子どもは言います。「ねえ、アレ買ってー。みんな持ってるのに…」そして、親は答えます。「よそはよそ。ウチはウチ。」親は意地悪なのではなく、制限することが子どもにとって良いと思うゆえに許可しません。同じように、神様は食べ物に関する制限をイスラエルに与えました。よその国では食べているものですが、イスラエルでは禁止です。衛生的な理由も考えられますが、神様は何度も繰り返し「あなたがたには」汚れたものであるとっしゃいます。食材ごとによいかダメか言われた後で、必ず「あなたがたには」と続きます。イスラエルだけの特別ルールです。



"「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。

動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。

ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、次のものは食べてはならない。らくだ。これは反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

岩だぬき。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

野うさぎ。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

豚。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。

あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。"

レビ記 11章2~8節



異教徒と仲良くなると偶像崇拝に流されやすくなり、食べ物のルールが違うことが彼らを守りました。また、またこの規定は「イスラエルは特別な民」という自覚を与えたようです。例えば、ダニエルと仲間たちは、捕虜になってバビロンに連れていかれても、そこの食事は口にせず、神様が定めた食物のルールを守りました。それはどこにいても神様に選ばれた特別な民でいたいことの表れです。


"ダニエルは、王が食べるごちそうや王が飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定めた。そして、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願うことにした。"

ダニエル書 1章8節



神様は律法を守る人を喜び祝福されます。食べ物の規定を守るダニエルは捕虜になっても祝福されました。それは神様を愛するゆえの従順でした。食べ物のルールは彼らを愛し育て守り祝福するためのものでした。


イエス様の時代までこのルールは続きましたが、神様はこのルールを撤廃されました。神様はペテロに規定に反する汚れた食材を示し「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」と言われました。ペテロは「主よ、そんなことはできません。」と3度も断りますが、神様は「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」とおっしゃいました。(使徒の働き 10章11~15節)ペテロは、「今見た幻はいったいどういうことだろうか」と考えましたが、その意味は「どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないこと」でした。(使徒の働き 10章28節)つまり、この食物規定が撤廃されたことは外国人にも福音が開かれたことを意味していました。イエス様によって外国人との交わりを制限されることはなくなりました。どんな人でも、イエス様を信じるなら家族であり兄弟であり一つの体です。



"ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。"

ガラテヤ人への手紙 3章28~29節



今のクリスチャンには、食べ物のルールはありません。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」(テモテへの手紙 第一 4章4節)「あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。」(コリント人への手紙 第一 10章27節)とあります。


でも、もし誘惑となり神様から引き離す原因となるものなら捨てなさい、と聖書は言います。たとえ右目であっても、右手であってもです。(マタイによる福音書5章29節)食べ物が僕らを汚すのではなく、心にある罪が僕らが汚します。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコによる福音書7章20-23節)


神様の願いは僕らがきよくあることです。きよさとは神様と繋がり満たされていることです。ルールで制限されることが守りとなり助けとなることもあります。僕らは神様の民、愛される民、聖なる民です。神様の願いは僕らが聖なるものであることです。ハレルヤ!



"わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。あなたがたは、地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身を汚してはならない。

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」"

レビ記 11章44-45節

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