ルカ9.21-25 自分を捨てる祝福
●メッセージの要約
祈りがきかれることや、願いが叶うとか、うまく行くことを期待します。もちろん、祈りは聞かれるし
理屈を超えた喜びと平安はいつも与えられます。
でも、その前には必ず苦しみや試練を通り、自分の願いを手放したり、イエス様と一緒に苦しみにあったりもします。それでも、イエス様に従うことがどんなに大きな栄光と報いにつながるか聖書は教えています。
逆に、もし、私はイエス様には従わないし、自分の思い通りやりたいようにだけします、けど、願いだけは叶えてね、私のお手伝いだけはしてね、という人は、「ついて来たい」とは思ってない人です。イエス様は「わたしについて来たい」人に言われました。
(ルカの福音書 9章23節)
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
今日の箇所は「ついて行きたいと思う人」限定で言われている言葉です。
まず、ついて行きたい人は自分を捨ててください。
自分がああしたいこうなりたい、は一旦捨ててください、とイエス様はおっしゃいます。自分を捨てるということは、死に向かっていく死刑囚のようです。もう、自分の人生はほぼ終わってる、ということです。
大事なのは文脈です。イエス様は自分がこれから苦しみ殺されるけど、その後に復活することを直前に説明してくださっています。
(22節)
そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。
イエス様は実際にその当時の権力者から苦しめられ、捨てられ、殺されました。
でも、大事なのは後半です。「三日目によみがえらなければならない」です。イエス様は復活して生きています。今、全ての栄光と力を持っています。ただかわいそうな人ではありません。
同じように、僕らもイエス様に従うときには苦しみも受けます。人から捨てられ拒絶される時もありますでも、その先にはイエス様と同じように復活して、栄光を受けると聖書は言います。
この苦しみと復活を聖書は初穂と言います。
(1コリント 15:20)
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
最初の実りです。最初に稲穂が実と、次々と同じように実ります。そのように、イエスさま復活して栄光を持っておられます。そのように、多くの人たちがそれに倣って苦しみの後で復活して栄光が与えられます。そのように、イエス様に従うときには、自分を失い、苦しみも通った先に栄光と永遠の命をいただきます。
なるべくラクして生きたい僕らは、苦しみはいらないから、栄光だけください、とか、十字架はいらないから復活だけください、と思います。でも、この世だけの命や成功、富とか名声とか権力を手に入れようとする人はそれを失います。でも、永遠の命のためにこの世のいのちを失う人はそれを手に入れます。
(24-25節)
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
この世のことの方がイエス様より大事で、自分の願い優先、自分の計画優先、自分の心配事優先、そうやって自分を救おうとする人は、逆にそれを失ってしまう、とおっしゃいました。
今日のメッセージは次の3つの点をお話しします。
1、この世のいのちにこだわることの虚しさ
2、自分を捨てることの祝福
3、イエス様と一緒に苦しむことの尊さ
1、自分のいのちにこだわることの虚しさ
自分のいのち、この世のいのちとは、
自分の満足、この世のお金、評判、権力、そのようなものです。それを握り締めていく人は、キリのように消えていくと聖書は言います。過ぎ去っていく虚しいものです。
(ヤコブの手紙 4章13~14節)
「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。
あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。
(ヨハネの手紙 第一 2章16~17節)
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。
世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。
もしこの世の欲を全部満足させ、暮らし向きは最高であったとしても、永遠の命を失い、永遠に地獄に落とされるなら何の意味もないと聖書は言います。
(25)人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
神様よりも、この世の満足を選んで、永遠に幸せになった人はいないと聖書は言います。
(ヤコブの手紙 5章1~3節)
金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。
あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、
あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。
お金が悪いとは聖書は言ってないけども、でもお金のためにイエス様を軽んじるなら、お金のために他の人を傷つけ苦しめていったのなら、それは何の価値もないどころか、自分を永遠に苦しめることになると聖書は言います。
あなたは死なないと悪魔は嘘をつくんです。だから悪魔に従って、神様から離れて自分で良いと思うことをしてごらん、と誘惑します。悪魔に騙された人たちは皆死んでいき、苦しみ続けます。
賢い人だったとか、財産を残したとか、あれが良かった。これが良かった言われても、永遠の火で苦しみ続けるなら何にもなりません。
●自分を捨てることの祝福
信じたばかりの赤ちゃんクリスチャンはまだ自覚がないかもしれないけど、大人のクリスチャンになる途中で、ある時、自分の欲とか自分のプライドとかお金とか時間を手放す時が来ます。それは自分自分をイエス様に明け渡す時です。自分を捨てる献身の日です。
自然界も同じです。タネは死ぬことで実を結びます。自分の命を手放して、神様にゆだねていくときに、豊かな実を結んでいきます。イエス様は麦に例えて言われました。
(ヨハネの福音書 12章24~25節)
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
もし、タネが、嫌だ、落ちたくない、ここがいい、ってずっと稲穂にしがみついていたら、その麦は新しく実を結ぶことはないです。
自分の思い通り、自分の計画、自分の計算、自分の心配を上にしていたら、いつまでも自分一人ぼっちです。でも自分を手放したときにイエス様の命が溢れ豊かに実を結びます。自分を捨てるのは豊かに実を結ぶためです。
クリスチャンっていうのは神様の子どもになり、神様とつながった人です。木と枝のように、かしらと体のようにです。だからイエス様の御言葉に聞いて従う人たちです。
自分を捨ててキリストに従っていくときに邪魔する人は誰でしょう。みなさんにとって妨害する人は誰でしょう。いろんな場合があるけど、多くの場合は、自分です。自分の欲がイエス様に従わせないようにしたり、心配がイエス様より大きかったり、自分のプライドが邪魔したりする時もあります。
ある絵本が、そのことをよく表していました。
※絵本 「ファーマーさんは見捨てない」河合ノア
主人公はプライドが高い「じゃがいも娘」です。彼女は「世界で一番おいしいお料理になる」と張り切っていました。「ポテトだけを使った料理」にこだわります。
レストランの棚に君臨しているんですが、仲間の野菜が誘ってきます。一緒にカレーライスになろう、シチューになろう、サラダになろうなどと仲間の食材から誘われます。でもすべて断ります。
あるとき生姜爺さんから「早くしないと大変なことになるぞ」と言われても耳を貸しません。
ところが、あれやだこれやだ、言ってる間に鏡を見たら、頭から緑の芽がニョキニョキ生えてきていて、しかも、シワシワになってきてました。自分の姿を見て、じゃがいも娘はとてもショックを受けます。
もうどんな料理にも使ってもらえません。逆にみんなから馬鹿にされ、けむたがれ、棚から落とされて、外に転がって行き、後悔します。「カレーライスになっておけばよかった、シチューやサラダだってよかった」
そして、彼女は外に出されて、1年間土の中で眠ります。そしたら、なんと、シワシワのじゃがいも娘から沢山の子どもたちが生まれていた、くっついていたという絵本のお話です。
(ヨハネの福音書 12章24~25節)
"まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。"
(24節)
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
死んだ人は罪とか自分の欲に対して、自分が握りしめていた高ぶりとか心配事とか、そういうことに対して死んだのです。死んだ人はプライドからも肉欲からも心配事からも自由になってます。
しかも、死んで終わりではなくて、イエス様があたてくださる新しい命や愛と力が地上で生きていても現れるようになります。
だから、イエス様を信じて、あのイエス様と一緒に死んだと思いなさい。自分を捨てるときに、あなたの中にいるイエス様が生きているのです。あなたの内側にいるのはイエスキリストの命ですといいます。
(ガラテヤ人への手紙 2章19~20節)
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
(ローマ人への手紙 6章4~5節)
"私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。"
そう思い続けなさいと聖書はいいます。毎日、自分を捨てて、毎日日々自分の十字架を負って、自分はキリストとともに死んだと思って生きなさい。今生きているのは内側にいてくださるキリストだと言いながら私に従って来なさい。
●イエス様と一緒の苦しみ
(ローマ人への手紙 8章17~18節)
"私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。"
イエス様のなさる事は教会がします。教会はキリストの体です。そしてすべての人を天国に招くために、福音を伝えます。そこには労苦があります。ラクではありません。その苦しみを誰が引き受けるか?それは教会が引き受ける苦しみです。
(コロサイ人への手紙 1章24節)
"今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。"
イエス様のあの処刑の苦しみがちょっと足りなかったと言うことではありません
僕らにも委ねられた苦しみの分がある、ってことです。「キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところ」と言います。福音を伝えるときに必ず苦しみに会います。攻撃に合うのは、敵である悪魔が福音を伝え広まることを恐れているからです。
そして、教会は新しい信仰の赤ちゃんを育てます。
神様の子供が生まれてそれで終わりではないんです。その人が大人になるまで成人するまで育てるのが教会です。子供が大人になるまで育てるケアをするっていうのはほんとに苦労します。僕は会社員時代、子どもを家で育てるよりも、会社の方がずっと楽だと思いました。24時間労働です。同じように、神様の子どもがうまれ、成人するまで教会は労苦しながら育てます。
(コロサイ人への手紙 1章28~29節)
"私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。
このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。"
パウロは「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」と言います。キリストの力によってです。自分の頑張りではないです。でも、自分も一緒に労苦しながら奮闘します。イエス様がしてくださる事と、私たちがやる事は1つです
生まれたばかりの赤ちゃんが働くのではなくて、先にクリスチャンになった大人のクリスチャンが労苦して、成人になるまで新しい人を育てます。何度もガッカリする場面があり、イライラしたり傷つけられたりしながらです。イエス様と一緒に、イエス様の力によってです。
(ピリピ人への手紙 1章29節)
"あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。"
イエス様に従うための苦しみを聖書は何度も教えていますが、それは神様の前ではどんな金より高価だし、賞賛と栄光と誉をいただけるものです。
(ペテロの手紙 第一1章7節)
試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
やがて、天国でイエス様と一緒に栄光を受けます。喜びに向かう道です。どんな苦しみがあっても、死んでも天国で栄光が与えられます。
●阿部先生に相談
阿部先生にある時相談しました。
自分に与えられている音楽の賜物を使って献身したい。そしたら阿部先生は「あれしたいこれしたい、というのは献身ではありません。献身とは自分を手放すことです。王様に死ねと言われれば死ぬことです。」と言ってました。
阿部先生がそう言ったのはイエス様がそうおっしゃっているからです。
(ルカの福音書 9章23~25節)
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
自分の欲とか自分の願いとかお金とか時間とか夢とかを手放す時が来ます。それは自分は死んだ者と決心する時です。自分をイエス様に明け渡す時です。それはイエス様と一緒に苦しみ、失う体験でもあります。
また、ある神学生が阿部先生に卒業後の進路を相談したそうです。ある教会で、こういう働きをしたいです。答えは同じでした。「何をしたい、こうしたい、っていうのは献身ではありません。どこでも、主が遣わされたところで奉仕するのが献身です。」
(ルカ18章29-30節)
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、
必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」
その人は命を得ます。何倍も受けます。だから、希望持って行きましょう。大丈夫です。苦しみはありますが、その先には何倍もの祝福と命がまってます。
※考えてみましょう
あなたにとって自分を捨ててイエス様に従うべきことはなんでしょう。具体的に一つあげてみましょう。
どうしてそんなことができるのか考えてみましょう。
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