ヘブル9.6-26 ゆったりゴスペルメッセージ
誰も天に行ったことないけど、そこは聖なる場所です。何の災いも悲しみも叫びも罪も死もない世界です。もし、あなたが今日死んで神様の前に連れていかれるとします。神様とお会いし、こう言われます。「ここは罪も汚れもない世界です。ここに入れるのは罪のない人、聖なる人だけです。あなたはこの世界に入れますか?」さて、皆さん何て答えますか?
普通なら「私は無理です。汚れています。」と答えると思います。
これは空想ではなくリアルな話です。皆さんはいつか神様の前に立つ日が来ます。誰も天の国を見たことがないけど、神様はそれがわかるように模型を与えてくれました。その模型を聖書は「天にあるものの写し」と言います。
その模型で天に迎えられる方法も教えてくださっています。
(6-7節)
さて、これらの物が以上のように整えられたうえで、祭司たちはいつも第一の幕屋に入って、礼拝を行います。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。
具体的なことは旧約聖書のレビ記に書かれています。祭司は動物の頭に手を置きます。手を置くことは一体化を表します。まるで罪人の自分自身かのように神様の前で殺します。神様の前で殺される動物は、その人自身とみなされます。頭に手を置くときにはその罪を告白します。生贄をささげる人は動物の頭に手を置き、自分の罪を告白し、自分の罪をこの動物に背負わせました。そして、まるでその人自身のようにこの動物は殺されます。
ユダヤの伝統的な屠殺方法は鋭利なナイフで頸動脈と気管を一気に切るそうです。死んでいく動物を見て、これが「私の罪の結果……」って痛感したと思います。痙攣して死んでいく動物の前で「俺のせいじゃない」「アイツが悪かった」「状況が悪かった」「仕方なかった」などと弁解はできません。それは神様に裁かれ殺される自分の姿です。
これが、聖なる天に迎えられる方法です。「天にあるものの写し」です。
(22-23)
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。
天の模型は動物の血できよめられました。
そして、本物である天の国は、もっと完璧な血によってきよめられる必要があります。それがイエス様の血です。
(13-14)
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
(24-26)
キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。
もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。
動物を殺していた幕屋や神殿での礼拝は天の模型でありコピーでしたが、今はその役目は終わりました。イエス様が地上に来て、最後のいけにえ、完璧ないけにえになってくださったからです。
天の国は聖なる人しか入れません。イエス様は僕らの罪のきよめのために血を流し、死んでくださいました。それによって僕らは「聖なるもの」とハッキリ宣言されています。「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(10章10節)
生涯を終えて、天で「ここに入れる人は罪のない聖なる人だけです。あなたはこの世界に入れますか?」と聞かれた時、ぜひ答えてください。
「はい。入れます。イエス様が罪を取り除くために私のために血を流し、全てを赦し、きよめてくださったからです。」
それが答えです。感謝しましょう。
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