2025年6月11日水曜日

1列王6.11-13

 1列王6.11-13


神様って見えないのにどうして信じられるの?とか、キリスト教って「やらなきゃダメ」みたいな縛り多いじゃん、しんどそう…と思う人、結構いると思います。神様は見えません。見えないけど確かにいます。神様は「ことば」が「神の臨在のかたち」として現れる神様です。そして、神様のことばは聞こえる人と聞こえない人がいます。イエス様はおっしゃいました。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10章27節)


視力が悪い羊でも、羊飼いの言葉には反応し安心するように、僕らは神様の言葉には反応し従い安心します。それはしんどいことでも縛りでもなくて、むしろ安心と喜びです。神様の願いは、僕らと一緒にいて、僕らが守られ祝福されることです。それは僕らが神様の言葉を聞き、喜び、従うこととセットです。ソロモン王が神殿を建てた時にも神様は言われました。



"そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。

「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。

わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」"

列王記 第一 6章11~13節



言葉や教えが「ご臨在のかたち」である神様はイスラエルと一緒にいてくれたし、僕らと一緒におられます。それは、僕らが教えを喜び、従うこととセットです。新約聖書によると、僕らのこの体が神殿であり、僕らと神様は一緒に住んでいます。また教会はキリストの体であり、住まいだとも言います。

個人としても、教会としても神様が語りかけ教え続けてくれることが愛されている証拠だし、それを聞いて従うことは僕らが神様を愛しているしるしです。神様と共にいること、一緒に住んでくれることの喜びです。


僕らがもし、「神様の教えはイヤだ」「従いたくない」なら「神さまから離れたい」「一緒に住まないでほしい」「こっちが家出したい」のと同じです。神様は「ことば」や「教え」でご臨在を表す方だからです。



"イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。"

ヨハネの福音書 14章23節



聖書の言葉を聞き、求め、従うことは神様と親しくすることです。見えない神様はことばや教えで現れ、僕らと一緒に住み、祝福しようと願っておられます。それはしんどいことでも窮屈でもありません。今日も聞きましょう。従いましょう。そこに安心感があり、喜びがあり、祝福があります。ハレルヤ!

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