民数記8.9-18
牧師や宣教師は特別な人で、ウチらは一般人、というのは誤解です。礼拝とか宣教とかは専門家だけがやる、というのも誤解です。だかといって「やりたい人誰でもオッケー!」でもありません。聖書は奉仕者に「手を置く」ように言います。「手を置く」のは一体化とか、相手と自分を重ねることを表すしぐさです。
イスラエル人の中からレビ人だけが選ばれて奉仕者として任命するときに、全会衆が「手を置く」ように言われました。(9)「これは私です」「私がするべきことを彼らがします」という表現です。
(9-11節)
あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエルの全会衆を集め、
レビ人を主の前に進ませる。イスラエルの子らは手をレビ人の上に置く。
アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。
会見の天幕の奉仕は、本来は全家庭がすべきことでした。神様は「長子の代わりにレビ人を取った。」とおっしゃいます。(18)「手を置く」ことは無責任に「任せた。あとよろしくー」ではなく、「自分達がすることです」という表明です。全イスラエルは任命した後もずっとレビ人たちを支え続けます。
(16-18)
彼らはイスラエルの子らのうちから正式にわたしに与えられたものだからである。すべてのイスラエルの子らのうちで、最初に胎を開いた、すべての長子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。
イスラエルの子らのうちでは、人でも家畜でも、すべての長子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての長子を打った日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。
わたしは、イスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりにレビ人を取った。
任命されるレビ人にも聖さが求められます。(6-8節)また、準備期間や気力体力や経験も必要です。それで、彼らの人生で一番いい時期に奉仕するように言われました。
(24-26節)
これはレビ人に関わることである。二十五歳以上の者は、会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。
しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務に当たるのを助けることはできるが、自分で奉仕をしてはならない。
さらに、レビ人自身も「手を置く」ことをしました。彼らは牛の頭に手を置きます。牛に対して「これは私です」「私が負うべきものを、これが負います」という表現です。焼かれて献げられる牛と自分を重ねます。また、罪のために殺される牛と自分を重ねます。手を置いた牛は殺され、ささげられます。本来レビ人は死ななければならないものでした。
(12節)
レビ人は、雄牛の頭に手を置く。そこであなたは一頭を罪のきよめのささげ物として、また一頭を全焼のささげ物として主に献げ、レビ人のために宥めを行う。
同じように、私たちがイエス様を信じてバプテスマを受けることはイエス様との一体化です。
僕らが神の怒りを受け、呪われるべきだったのに、イエス様がその罪を背負って十字架で呪われました。イエス様の十字架の処刑は自分の姿です。バプテスマはイエス様と自分を重ね合わせ、自分も処刑されたことの表明です。
(ローマ6.3-4)
キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
教会は牧師を任命するとか、宣教師を送り出すとか、その時に「手を置く」ことをします。「これは私たちです」「私たちは一体です」という表明です。任命される人、送り出す人、支える人が自分のこととするのが「手を置く」ことです。これは「誰と運命を共有するか」を選ぶことでもあります。だから「誰にも性急に按手をしてはいけません」(1テモテ5.22)と言います。
「手を置く」ことは、その人のだけの献身ではありません。教会全体の献身です。「この人と一緒に歩み、奉仕し、支え続けます」という覚悟の表明です。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(1コリント12.26-27)
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