2026年3月22日日曜日

ローマ5.1-11 苦難を通してのみ体験できる神の愛 礼拝メッセージ

 ローマ5.1-11 苦難を通してのみ体験できる神の愛 礼拝メッセージ


●あなたはまっさらな人と見なされています。


自分を責める人は多いようです。みなさんはどうでしょうか。

「お前はあんな失敗もした、こんな恥ずかしいこともした」と。心の中でそう思ってしまう人もいるし、誰かから言われることもあると思います。僕らは同じように他人を責めます。

「あの人はこうだった、ああだからダメなんだ。あの人はおかしい」と。

自分を責めるのは辛いし、責められるのも苦しいです。他人を責めるのも幸せではありません。

ところが、今日の箇所では神様が僕らに間逆のことを言ってくれてます。


1節

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。


義と認められるとは…まっさらな、一度も罪をしたことのない人のように扱われること。「無罪」と呼んでくださることです。


いくら「お前はあんな失敗もした、こんな恥ずかしいこともした」と思っても、「あの人はこうだった、ああだった」と思っても、イエス様は一度も罪をしたことのない人のように扱ってくださっています。神様はあなたのことを責めてないし、愛しているし、喜んでいます。誰があなたを責めても、神様はあなたは一回も悪いことをしてない、ってみなしてくださっています。


実際はやっててます。恥ずかしいものです。でも、神様は罪や恥がある人たちをわざわざ選び、義と認めてくださいます。


イエス様が無罪とみなしてくれるのは、神の怒りが身代わりにイエス様の上に注がれたからです。それがあの十字架です。いい人のためではないです。善良な人のためではないです。罪人のため、不信心な、神様を嫌うような人たちのためです。敵のためです。


(6-8節)

6,実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

7,正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

8,しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。


みなさんは、まっさらな、一回も悪いことをしたことがない人のようです。神様の目には罪がない、きれいな人、とみなしてくださってます。


じゃあ、みなさんが苦手な嫌いなあの人はどうですか?

その人が信仰を持っているなら、神様から見ると美しい、キレイな、まっさらなきよい人です。

この希望があるから、悲しみ苦しみがあっても押しつぶされないで自分も相手も赦し、愛し、忍耐することができます。苦しいけど、喜びがあります。そう書いてあります。


(2-3節)

2,このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

3,それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。


悪魔はこれとは逆で、過去の失敗や恥を数え上げるのが仕事です。悪魔のことはこう書かれています。


(黙示録12.10)

私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者…


悪魔は今日も責めます。「お前はダメなやつだ、あの時こんなことをした。」周りの人も責めるように誘惑します。「あいつはこんなひどいことをした。許すな。これは神の怒りだ、罰だ。懲らしめるのは正しい。やり返せ」と。悪魔のことばと、神様の福音は真逆です。


(1節)

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。


Q.質問です。

あなたが自分を責め、周りのクリスチャンを責めていることは何ですか?

そのことについて、神様はどのように言っておられるでしょう。


※神学校に行く直前、会社が忙しすぎました。毎日、特にTVCMの作曲の締切に追われてました。

あまりにも時間がなさすぎて、ある時、有名なアーチストの曲の一部をそのままサンプリングして提出しました。サンプリングというのは、録音して編集してバレないように自分の曲かのように他人の曲の素材、録音されたものを使う、というものです。つまり盗作です。

誰にも指摘されませんでしたが、心は責められました。

新道東のバス停の待合室で祈りました。

「神様、あの曲のサンプリング、パクリです。バレたら終わりです。神様、すみません。どうしましょう。」

祈りながら聖書を読みました。その日の箇所にこう書いてありました。

「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」(ヘブル10.17)

あなたの罪を思い出さない。ってそんなはずはないです。

「神様、これは罪です。盗み、盗作、です。」

祈ってまた読みました。

「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」

そんなやりとりを何度かして、僕は神様の言葉を受け入れました。

これを受け入れるのに少し時間がかかりました。

でも、何度読んでも、同じです。「罪を思い起こさない。」

「本当なんですね、僕の罪も不法も思い出さないって。ありがとうございます。」

神様の言葉を受け取って、すぐそ待合室にある緑の公衆電話で会社に電話しました。

社長に電話して、事情を話して謝りました。

社長は「放送される前に、公になる前に言ってくれてよかった」と言って対応してくれました。


イエス様を信じる人は義と認められています。


(1節)

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。


(9節)

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。


●さらにイエス様に似るために、苦難が与えられています。


まっさらにされた、で一丁あがり、終わり、ではありません。

僕らの人生は実生活は、本当にまっさらに近づくために、イエス様に似せられていきます。そのために必要なのは、苦難です。苦しみは、僕らがイエス様に似た、愛のある、栄光ある性格に変えられていくためのものです。


(2-3節)

2そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

3,それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

4,忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。


苦しみにあう時に、聖霊が注がれてる人と、そうでない人の反応は違います。

そのままだと苦しみは焦りを生み、神さまの苛立ち、反抗、疑い、不信仰、怒りを生むことがあります。その先は絶望です。

ある人は、ハリネズミのように自分も攻撃体勢にはいります。

ある人は、カメのように、自分の甲羅の中に入って相手と周りと関わらないようにするでしょう。

ちなみに僕はもともと甲羅型です。関わらないようにしがちです。

ところが、イエス様に赦され、イエス様に愛されて、義と認められていることを知った人には、甲羅型でもないし、ハリネズミ型でもない、イエス様型の対応に変えられていきます。


まず、「苦難が忍耐を生み出し」です。

忍耐は、イエス様の姿です。イエス様のご性格です。

聖書によると、聖霊による愛とは忍耐です、と書いてあります。(1コリント13章)

相手の罪を裁かず、攻撃せず、かと言って逃げもせず、祈りながら、向き合い忍耐する、これはイエス様がなさる方法です。そもそも、悩みがないと、苦しみがないと、イエス様と同じ愛の忍耐を生むことができません。何でも思い通りに順調に進んだら、忍耐や赦しを祈りを体験することができません。


聖書の知識があってもイエス様を体験しないと意味がありません。

自動車学校の学科試験受かることより、実際に運転する方が大事です。同じように聖書の知識より実践の方が大事です。神様の愛ゆえの忍耐、赦しを自分を実際にやってみて、敵を赦し、敵のために祈って、体験していくものです。苦しめば苦しむほど、祈りの生活が豊かになり、神と交わるようになります。


そして「忍耐が練られた品性を生み出し」とあります。

これはイエス様に似た品性です。

試練はイエス様と似た品性を生み出すためのものです。

イエス様は敵を赦し、愛し、忍耐し、敵のために祈る方です。敵のために自分の命さえも捨てて祈ってくださる方です。その品性を生み出すための忍耐です。そのゴールは「神の栄光にあずかる望み」です。

この希望があるので、僕らは忍耐することができます。ただのヤセガマンとは違います。


クリスチャンになったら人生が全部楽になるわけではなく、ちょうどよく神様が試練を用意してくださいます。人によって必要な試練は違いますが、用意された試練です。

イエス様と同じ品性を生み出し、やがて、イエス様と同じ栄光の姿に変えられる人生のスタートです。そのためのちょうど良い苦しみが一人一人に与えられています。


苦しいけど、喜びがあります。希望があります。このトレーニングをしたら、筋肉がつく、とか、ピアノの練習をしたら、だんだん上手くなるのと似ています。それは苦難と忍耐だけど、同時に希望と喜びがあります。向こうには栄光が見えています。


(2-4節)

2そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

3,それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

4,忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。


Q.あなたが今与えられている苦難は何ですか?


それはイエス様と似た品性を生み出し、与え、変えられていくためです。無罪とされただけでなく、イエス様と同じ栄光の姿に変えられていきます。


●できないことができる理由


特にひどい苦しみの中にある人に、忍耐とか、品性とか、希望とか、不可能じゃん、と言われそうです。でも希望を持つことができる理由があります。


(5節)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


理由はすでに聖霊が注がれているからです。

聖霊によって神様の愛は注がれています。神様の愛はほんわかしたピンクのハートみたいな感じではないです。罪人を忍耐し、罪人のために命を捨てる、犠牲そのものです。愛について6節以降に書かれています。


(6-8節)

6,実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

7,正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

8,しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。


敵のために命を捨てるほどのイエス様の愛が僕らにも注がれ、僕らからは出るはずのない忍耐と愛が罪人に向けられています。

神様の愛は遊女と交わって豚の中でボロボロになった放蕩息子を愛する愛です。そのために、身代わりに死んでくださる愛です。


(8節)

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。


神様の愛は罪人を探し、不信心、邪悪な者に向けられます。

医者は健康な人を癒すために来たわけじゃなく、病人を治すために来たように、イエス様は不健康な、罪人を招くために来られました。罪を犯した囚人を祝福するために来ました。乞食に栄光を与えるためにきました。そのために命を身代わりに十字架の上でささげるほどの愛です。


落ち込んでいて、苦しみに押しつぶされそうで、神に見捨てられたんじゃないかと思っている人がいたら、この言葉を思い巡らしましょう。


6節

キリストは、…不敬虔な者たちのために死んでくださいました。


ゆるせない人がいたら思い出しましょう。

教会の中心です。「不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

嫌な人を思い出した時、もう無理と思う時、思い出してください。

愛するのは自分の愛ではなく、神様の愛です。僕らの心にすでに注がれています。


こないだ見たテレビのドキュメントで、名古屋の橋の下に住んでいるホームレスの人たちの特集がありました。そこに週に一回、教会のボランティアが来て、炊き出しをして、イエス様の福音を教えいている番組でした。その活動をしている牧師がインタビューに答えて言いました。

「私はできませせん。私たちはこのホームレスの人たちを愛することはできません。でも、イエス様がやりなさい、っておっしゃってるからやってます。それだけです。」

その通りです。愛は僕らからは一滴も出てきません。でも、聖霊によって神様の愛が注がれています。


(5節)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


イエス様は愛の模範です。


(1ペテロ2.21-23)

21,このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。(…中略…)

23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。


イエス様の聖霊が注がれています。僕らはイエス様に似せて変えられている途中です。

ひどい人を愛してくださったイエス様と一緒に忍耐し、赦し、愛しましょう。

この希望は失望に終わることはありません。


Q.質問です。

あなたが自分を責め、周りのクリスチャンを責めていることは何ですか?

そのことについて、神様はどのように言っておられるでしょう。


あなたが今与えられている苦難は何ですか?


忍耐したり愛することができないはずなのに、それができる理由なんですか?


●あなたはまっさらな人と見なされています。

●さらにイエス様に似るために、苦難が与えられています。

●できないことができる理由

「聖霊によって、神様の愛が私たちの心に注がれているからです。」(5)

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