2026年4月20日月曜日

ローマ16.1-20 キリストに結ばれた人は教会を愛します  礼拝メッセージ

 ローマ16.1-20

キリストに結ばれた人は教会を愛します


みなさんが教会に集まるとき、「みんなに会いたいな」って思う気持ちと、逆に、「できれば会いたくないな」「今日は避けたいな」って思う気持ちがあると思うんですが、どうでしょう。

顔合わせたらちょっと気まずい人とか、距離とりたくなる人とか。みなさん、いかがですか?私も経験があります。


でも今日の聖書箇所は、パウロが遠く離れたローマ教会の一人一人の名前を出して、「よろしく伝えてください」「愛してる」「覚えてる」って伝えている箇所です。しかも「早く会いたい」とさえ言ってます。

なんでそこまで教会の仲間が愛しくなり会いたくなるのか、大事にできるのか。今日はそれを一緒に見ていきたいと思います。

そして今日のメッセージが終わったときには、周りのクリスチャンの仲間が本当に愛しい、嬉しい、いてくれてありがとう、って喜びに満ちるように願っています。僕らにはできませんが、神様にはできます。


ローマ人への手紙は聖書全体の教えをまとめてぎゅっと16章にしたような手紙です。

神学用語で言うと、義と認められること、略して義認、聖くされること、略して聖化、やがて栄光を受けること、略して栄化、そのようなしっかりした教えがあって、その結論が今日の箇所ですが、なんと、学びのゴールは、具体的に一人一人を思い出して愛することです。

学びとか知識とか大切なんだけど、知識でマウント取るための学びではない。互いに愛し、仕え、喜び合うのが学びの目的だったことがわかります。


※北海道聖書学院の水草先生は、神学の本を出版しました。タイトルもいいです。「神を愛するための神学講座」神学校での学びのゴールはやっぱり神様を愛し、神様を愛すること、イエス様を愛することは、イエス様のからだと言われる教会の一人一人を愛することです。


これがローマ人への手紙の学びの結論です。

キリストに結ばれた者は、人を愛さずにいられななくなります。


●キリストに結ばれた人は教会を愛します。


神様を愛する事は教会を愛することです。

この手紙の中でこう書いてあります。


ローマ12章5章

大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。


イエス様を愛することは、イエス様に繋がる器官である教会の一人ひとりを愛し喜ぶことです。


今日の箇所は愛し方のお手本のようです。

パウロはまだ行ったことのないローマの教会なのに、一人ひとりのことを思い出しては祈っています。毎日です。思わない日はないといいます。


私は絶えずあなたがたのことを思い、

祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。"

ローマ人への手紙 1章9~10節


毎日祈ってます。感謝してます、会いたいと思っています。で、この後名前が次々出てきます。毎日思ってるから、スラスラと名前が出てきます。


16章は一人ひとりの名前を挙げて「よろしく伝えてください」です。何度も何度も出てきます。「よろしく」の意味は、「覚えているよ。祈ってるよ。愛してるよ、」という好意を伝えてください、と言う意味です。


よろしく。ってギリシャ語辞典によると

ἀσπάζομαι(アスパゾマイ)


愛情をもって迎える。心から挨拶す。親しみをもって抱きしめる。受け入れる


そして16章では27人の名前を挙げて、この人はこんなことをしてくれた、あんなことをしてくれた、と具体的に思い出して書き表しては感謝しています。


彼パウロが一人一人を喜び、愛し、受け入れている理由は、彼らがイエス様に結びついているからです。


よく読むと、何度も何度も「キリストイエスにあって」、「主にあって、」と続きます。新共同訳の前のバージョンは全部「主に結ばれて、キリストに結ばれて、」って翻訳してました。英語だとin Christ Jesus: イエス様の中で、水の中に入ってるスポンジのイメージです。その中に包まれてるその人と一体化してるって感じです。


2,どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し…


3,キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。


8,主にあって私の愛するアンプリアトによろしく。


10,キリストにあって認められているアペレによろしく。


12,主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。


13,主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。



みんな、神様の中につながってイエス様の中で、一緒に働くようになった愛する兄弟、姉妹。


9節

キリストにある私たちの同労者ウルバノと、私の愛するスタキスによろしく。


「この人好きじゃない」って思った時でも、その人は“キリストの中にいる人”です。つまり、その人をどう扱うかは、キリストをどう扱うかとほぼ同じです。


前後しますが、コリント教会にいたパウロが、フィベさん、と言う姉妹をローマに送ります。

彼女のことをこう書いて推薦します。


1,私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。

2,どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。


2節 聖徒にふさわしく。聖なる人、神様のものになった人です。イエス様のからだの器官の一部を迎えるように歓迎してください。助けが必要ならどんなこともしてあげてください。


パウロの町の近くのケンクレアにある家の教会の奉仕者フィべさんがローマにいきます。推薦します。


フィベさんだけが立派な聖なる人でなく、これは東栄教会の一人一人も神様に選ばれ、赦され、きよめられた聖なる人です。キリストと結ばれた、包まれた、一つなった人です。だから歓迎してください。迎えてください、愛してください。受け入れてください。必要ならどんなことでもしてあげてください。

とパウロが僕らにも呼びかけているかのようです。


僕らが教会の仲間を愛する理由はイエス様がその人の中に生きておられるからです。小さな一人にしたことはイエス様にしたことです、聖書にそう書いてあります。


フィベさんは多くの兄弟姉妹を愛し助けてきました。パウロも助けられました。彼女の愛は、イエス様の愛の表れでした。


2

彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。


フィベさんが頑張ったのでなく、彼女はイエス様につながる枝だし、器官でした。だから多くの人たちを助けました。

そのように、あなたがも受け入れ助けてください、ってお願いしています。


キリストに結ばれた人は教会を愛します。



●教会を愛することは、イエス様と一緒に苦しみも受けることです


一緒に苦労したプリスカとアクラご夫妻もキリストに繋がった仲間です。彼らもパウロを助けてくれました。


3,キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。

4,二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。


自分の命の危険を犯してまで、パウロを守ってくれたことがあるご夫妻です。

パウロは彼らに感謝しているけど、やっぱりその先にいらっしゃるイエス様に感謝してるんです

教会の仲間がしてくれたことを言い表すことは、イエス様への賛美につながるんです。


4節

彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。


プリスキラさんありがとう、アキラさんありがとう。と同時に、神様がこの人たちを用いてくれてありがとうございます。人への愛や感謝と神様への愛や感謝がつながっています。


サックス吹くと目立ってしまって、賛美なのに、遠藤さん上手、ってなるのがイヤ。っていうかモヤモヤしちゃうんだよね、ある時みちや先生に言いました。

そしたら、いやいや遠藤先生見てるけど、遠藤先生を用いてくださる神様を見て感謝してますよ。遠藤先生よかったよ、というのは、神様への感謝ですよ。遠藤先生が用いられるのは神様にとっても喜びですよ。

みたいなこと言われて納得したのを覚えています。


パウロは兄弟姉妹のひとりひとりがしてくれたことをあげて、感謝しているようで、やっぱり神様に感謝しています。キリストに結ばれてそうしてくれた、と言っています。


主にあって助けてくれた、キリストにあって支援してくれた、キリストに結ばれて命をかけて助けてくれた、とです。

名前が出てくない人たちもたくさんいます。


5,また彼らの家の教会によろしく伝えてください。

キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。


おそらくプリスキラとアキラはの自宅が教会です。当時はそれが一般的でした。パウロはよろしく、とも言うけど、愛している、とも言います。


そこにエパイネトさんがいました。コリント教会で最初にイエス様を信じた人です。信じた人は、イエス様のものになります。だから「キリストにささげられた」第一号です。「アジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。」

エパイネトさんを愛することは、イエス様を愛することです。この人に挨拶し喜ぶことは、イエス様に挨拶するのとまるで同じかのように書いています。


6節7節は、キリストと一緒にすごく苦労した人たちのことをを思い出して挨拶し愛を伝えています。


6あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。

7,私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく。


マリアは非常に苦労した人です。具体的にはどんな苦しみだったのか書いてないです。でも、教会のために、イエス様のために犠牲を払った。理由はやっぱりイエス様に繋がっているからです。そのマリアによろしく。「あの苦しみを覚えているよ。祈ってるよ。喜んでいるよ」そう伝えてください。という雰囲気です。


パウロ自身もものすごく苦しんだ人です。7節は一緒に逮捕された二人によろしく、といいます。


一緒にひどい目にあった仲間です。イエス様に結ばれてこの苦しみも与えられたことを覚えているよ、祈ってるよ、よろしく伝えてください。


12節も労苦した仲間の名前が出てきます。


12,主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。


◆祈ることで心が近くなります。


これでもか、というほどに一人一人、細かく、具体的にパウロは感謝しています。彼が手紙の最初に書いている通り、思い出さない日はないし、祈らない日はないようです。

毎日名前をあげて、感謝している様子が手紙に滲み出ています。


今パウロがいるコリントからローマまで直線でも1000キロ。札幌から東京。飛行機のない時代。馬か、ロバか、船。最低でも一か月はかかる距離です。


でも、心はすごく近かったことがわかります。

パウロが「私は絶えずあなたがたのことを思」って祈ってる、と言いますが、祈ってると遠く感じません。


※ある婦人がいまして、僕もお会いしたことがないんですが、僕のブログを毎日のように読んで、毎週配信される東栄の礼拝の動画をみて、東栄教会のことを祈ってくださってる方がいます。時々くださるメールに、本当に一人一人のことを覚えて、名前をあげて、まるで自分のことのように祈ってくださってることがわかります。献金も送ってくださっています。

その方に、岳さんのニュースレターも、市子さんのやつも、柚帆のことも、一空のことも知らせます。

隅から隅まで読んで祈ってくださってるのがわかります。

本当に頭が下がります。ウチの子どもたちの様子も知って祈ってくださってることがわかります。


祈ることは愛することそのものです。イエス様につながるもの同士ですが、祈ることによってもっと近くなります。祈ることは神様との霊的な交わりです。神様と近くなることは、神様につながる兄弟姉妹とも近くなることです。


祈ることは愛することそのもの


祈ってる人は、その人を無視できません。

祈ってる人は、その人を悪く言えません。


●具体的に愛を現しなさい


具体的に対面で会った時はどうしなさいと言ってるか?


16節

あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。


愛してるよっていうのが本当であるように、表すように口づけしなさい。当時の文化では当たり前でした。口づけは愛を表す挨拶でした。

イエス様を愛する事は兄弟姉妹を愛し受け入れ喜ぶことです。これ間違いないです。

そして、それを態度で行動で現しなさい、やりなさい、挨拶しなさい、と言います。


※漫才師の吉本興業の西川きよしさんが、相手に先に挨拶された負け。とお弟子さんたちに言っているそうです。

つまり自分からあいさつしろ、ってことです。本当に撮影現場のスタッフ全員に自分から挨拶するそうです。


「私は絶えずあなたがたのことを思い」祈り感謝してる、って書いてあります。日々の祈りと感謝が、対面であった時の愛と喜びに現れます。


あいさつしなさい、とイエス様が命令しています。新しい戒め、聖霊の教えは、互いに挨拶し、愛し、仕えることです。イエス様の側がヘリ下ってくださる方です。そのイエス様の御霊が僕らに住んでおられます。


まずは僕らが主に結ばれて、主に包まれて、御霊によって祈らせてもらうのがスタートです。祈りは対面で会った時の喜びに表れます。

声をかけるとか、握手とか神様の愛を表す方法を考えて、もう一回やりましょう。やらされるのではなくて、

まずはその人のために名前をあげて祈ることです。御霊が相手を喜んでいます。御霊はこちらから声をかけたいな、って思ってます。


●分裂を起こす人を警戒すること。


そして、最後は警告に続きます。


17,兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。

18,そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。


まずは自分が分裂を起こす人になってないかチェックしてみましょう。


分裂させ、神様から引き離そうとする人は、一見わからない場合が多いようです、本当は自分に仕え、自分の欲望び仕えていて、イエス様には仕えてないんだけど、でも、「滑らかなことば、へつらいのことば」を使うので、一見よさそうに見えるようです。


聖書は言います。


1ヨハネ4章20節

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。


神様を愛することと兄弟姉妹を愛することはセットです。

クリスチャン風なことをいうけど、やっていることが和解ではなく分裂、赦しでなく憎しみ、という人がいたら警戒しなさい、遠ざかりなさい、と言います。その人は偽りだ、と聖書は言います。


18,そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。


この教会のことを心配してるんだよね、と言いながら、人の悪口をやめない人。しかも、「滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。」上手に相手に気に入られるようにして兄弟姉妹に分裂をもたらそうとする人がいたら、離れなさい。

注意するとか、直してあげなくていいから、警戒して、離れなさいです。


「つまづき」をもたらす人、ってあります。

つまづきは障害物、罠。神様を愛し、人を愛さなくする障害物を持ち込む人を警戒しなさい、です。


イエス様に繋がっているあの人、この人、感謝だなあ、って思っている人に、あの人ここがダメ、あの人家でこんな態度らしいよ、って言われると、素直の人は、急にそうなんだ、と思って、一緒になって愛と尊敬を手放してしまいます。


僕も影響受けます。あの子は感謝だなあ、あの人も変えられたなあ、って思ってるところに誰かが、あの人こうらしいよ、言われると、急に、ああそうなんだ、って思います。

急に気持ちが冷えてしまいます。


つまづきは、イエス様の赦しと愛よりも、人に目を向けさせることです。イエス様の十字架の犠牲と赦しよりも、人がいいか悪いか、行いで評価しようとします。それは福音から引き離すことです。


まずは自分の心と口をチェックしてみましょう。

この口が、イエス様に感謝口なのか、それとも毒を吐く口か。

この口は人の陰口で他人の信頼関係を壊す口なのか、それとも人と人を繋ぐ口なのか。


特に、親の発言は子供たちに影響を与えます。親が家で教会の人の悪口を言ってたら、子供たちは素直にそうなんだ、と思います。

お母さん、そんな教会やめたら?と思います。

まさに、親が子供たちにつまづきを与えています。


指導する立場の人の発言は責任重大です。神学校の授業の中で、あのグループはこういうところがダメ、あっちの教団教派はここがだめ、って聞かされると、純粋な学生たちは本当にそう思ってしまいます。

大人の発言は特に責任があります。その発言に御霊の実があるかどうか、愛と尊敬が平安があるかどうか、喜びがあるか。チェックする必要があります。


御霊を受けている人は、わかります。ああ、今の発言、神様からじゃなかったなとわかります。平安がないのでわかります。

謝りましょう。すぐ。謝りましょう。


イエス様は和解の王。イエス様は一致の王。イエス様は赦しの王。イエス様はへりくだりの王。イエス様は愛の王。平和の王

逆に、悪魔は分裂の王。憎しみの王。不安の王。破壊の王。どちらが勝つか、聖書に書いてあります。


20,平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。


悪魔は壊すのが仕事です。夫婦関係を壊し、親子関係を壊し、友人関係も、壊します。国と国が破壊し合います。そして、教会を壊します。


悪魔はイエス様の十字架を忘れさせます。あの血を流して犠牲を払って愛し赦してくださった話を忘れさせます。

悪魔はあなたは正しい、自分は正しい、と思わせます。

自分は正しいと思うと、イエス様が十字架にかかる必要がなくなります。


悪魔は、相手のダメなところ、相手の欠点、相手の受け入れられないところばかりを話します。表向きは「教会のこと心配してる」って言ってても、本音は自分が王様になり、自分の計画通り、思い通りになることです。


18,そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。


自分と違う意見はいいことです。違う意見を歓迎するのは謙遜だし、健康です。

だから教会はだからチームなんです。私と妻は全然性格が違うし視点も違います。でもだからこそ1つです。牧会チームも考えが違います。執事会も考えがみんな違います。

違う意見を言ってくれる人がいるから、バランスのとれた考えに補正してくれます。だから私たちいろんな人が必要です。考えの違う人が必要です。


まず自分から吟味してみましょう。考えの違う人をを愛しているか。尊敬しているか。自分が正しいのではなくて、ただ、イエス様が赦してきよめてくださった罪人です。


自分の欲望に仕えているか、はっきりわかる方法があります。


自分と違う意見を聞いた時に不愉快になり、相手をブロックするか。

それでわかります。傷ついたり、攻撃したりされたりするのはみんなあります。

でも、そこで愛と赦しを選択するか、相手を切るか、です。

悔い改めを選択するか、切り捨てるか、です。

もうあなたとは話しません、というのは、まさに自分の欲望に仕えています。


まず自分に聞いてみましょう。


◆まとめ

ローマ書は、“正しい教え”で終わらず、“愛し合いなさい”で終わります。


教会を愛することはイエス様を愛することです。

イエス様を愛することは、教会の一人一人を尊敬し愛し、喜び、祝福することです。

だから、やりましょう。祈って、名前を覚えて、愛を行動にしましょう。


特に愛せない人、顔合わせたらちょっと気まずい人とか、距離とりたくなる人のために祈りましょう。

祈って求めるなら、必ず与えられます。

自分の欲に支えるのではなく、神様に従うチャンスです。


祈りましょう。愛しましょう。祝福しましょう。


質問です


苦手な人、会いたくない人、はいますか?


歓迎できない理由はなんでしょう。


自分の欲に仕えているか、イエス様に仕えているか、自分に聞いてみましょう。

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