使徒3.1-16
キリストは今日もすべての権威を持っています。仕事のことも人間関係も体調不良も、天候も、誰も知らない心の奥にあることも、全部の権威がイエス様にあります。
ペテロとヨハネは乞食からお金を求められた時、全権を持っているイエス様の名前を信頼し、その力によってその人を歩かせました。
"彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。"
使徒の働き 3章3~7節
僕なら「癒されるように祈るねー」ぐらいで終わるかもしれません。でも聖霊に満たされている人は違います。聖霊に満たされる=キリストに満たされることです。
ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と、確信をもって命令します。これはペテロの自信ではなくて、イエス様が今、全ての権威を持って働いてくださることへの信頼です。「キリストの名によって」の意味は「キリストの権威とみこころの中で」ということです。
ペテロは絶対に「俺が治してあげる」とは言いません。ただ、イエス様の権威への確信に満ちた信仰が与えられていました。「私にあるもの(イエス様への絶対の信頼)をあげよう。」です。しかも、口だけでなくて、立ち上がる手伝いもしています。「絶対立ち上がる」と思っているからです。
"そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。"
使徒の働き 3章7~9節
これを見た人たちは驚き、やじ馬が集まりはじめます。
集まってくる人たちに向かって、ペテロは「イエス様の復活と権威」を語ります。聞いてる人たちはイスラエル人たちだし、神様を信じている人たちです。彼らは海が分かれたり、天からマナが降ったり、死人が生き返ったり、火が降ったり、病気が治ることを知ってはいました。
ところがその神様のことを「昔はスゴかった」みたいに、小さく見すぎていたようです。
神様の権威は今もイエス様にあります。イエス様は「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」とおっしゃいました。(マタイ28.18)
ペテロがすごいのではありません。この人を癒したのは神様の主権であり力です。
"これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。"
使徒の働き 3章12節
この乞食もイエス様の力を信じたようです。ペテロは彼にも信仰が与えられたと説明しています。
"このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
使徒の働き 3章16節
今日もイエス様に権威があります。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13.8)イエス様に全ての権威があり、イエス様以外に救われる権威はありません。
"この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」"
使徒の働き 4章12節
僕らは弱々しい祈りをしがちで、「どうせ無理だと思うけど…一応、祈ります」とか「もし癒されたらラッキーです。(でも無理っすよね)」などと思いがちです。が、御霊に満たされると確信が与えられます。
イエス様にすべての権威があります。不可能はありません。
御名によって祈るとは「神様の権威、御心、ご計画に自分を委ねる」ことです。
自分の思い通りになることではありません。自分を捨ててイエス様の権威の下にいるのが「イエス様の御名で祈る」ことです。
今日もイエスは復活して全てを支配しておられます。イエス様に信頼して祈りましょう。主に不可能なことはありません。ハレルヤ!
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