1歴代21章1-18節 「あなたは何を数えているか」
お金を数えるの、好きですか?悪いことじゃないけど、神様が見ておられるのはその動機です。何のために数えているのか、です。神様は僕らの心を見ます。
ダビデが数えたのは人口でした。でも、これは単なる人数でなく、彼が自分の力を数えて誇ろうとしていたことでした。
でも神様が問題にされたのはダビデが何に安心し、何を誇っていたかです。
今日、神様は私たちにも問われます。
「あなたは何を数えているか。」
サタンは神様から引き離そうとします。神様以外で満足させようとさせ、誇らせようとします。
この時、サタンがダビデに人口調査をするようにそそのかしました。
ダビデが軍事力を頼り誇るようになるための調査です。
① 軍事力を誇り、裁きを受けたダビデ
② 神の憐れみに信頼し、赦されるダビデ
③ 私たちはキリストに信頼する
① 軍事力を誇り、裁きを受けたダビデ
1節によると、この人口調査はサタンの誘惑だったとハッキリ書いてあります。
(1-2)
さて、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。
ダビデはヨアブと民の長たちに言った。「さあ、ベエル・シェバからダンに至るまでのイスラエルを数え、私に報告しなさい。その人数を私が知るためだ。」
ベエルシェバとは南の端、ダンは北の端です。日本で言うなら「沖縄から北海道の端稚内まで、全ての人数を数えなさい」と言う命令です。
後でわかるのですが、ダビデが数えて求めたのは軍事力でした。
問題はダビデの心でした。ダビデは軍隊の規模に安心を求め始めていたのです。
(5節)
剣を使う者が百十万人、ユダには剣を使う者が四十七万人いた。
戦える兵士たちの数を数えさせたことがわかります。
並行箇所の2サムエル24章によると、この時にすでにダビデは自分の力を誇り、神様の怒りがすでにあったことがわかります。サタンが誘惑しましたが、その時ダビデにはすでにサタンの誘惑に流されていく高ぶりがありました。
(2サムエル24章1節)
さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。
ダビデは「俺の王国はどれだけ大きいんだろう。」「俺にはどれだけの兵士がいるんだろう。」と思っていたようです。
でも、この国はダビデの王国でなく神様の王国です。
ダビデは何ももたない小さな羊飼いだったはずです。いつのまにか偉くなってしまっていました。国の繁栄、強さ、大きさを自分のものとしていました。
20章を読むと、ダビデの軍隊が次々と勝利していく様子がわかります。連戦連勝です。20章2節は敵の王から奪い取った王冠を自分の頭に置いています。神様から与えられた勝利や成功の時こそ危険な時です。
・ヨアブの警告
側近のヨアブはそれに気づいていました。それで、この人口調査に反対します。
(3)
ヨアブは言った。「主が、御民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王よ。彼らはみな、わが主のもの、そのしもべではないでしょうか。なぜわが主は、このようなことをお求めになるのですか。なぜイスラエルに罪過をもたらされるのですか。」
そんな忠告があったにも関わらず、ダビデは激しく命令してこの調査をさせます。高ぶってる人の特徴は、人の忠告を聞かなくなることです。僕らも思い当たります。
(4)しかし、ヨアブへの王のことばは激しかった。ヨアブは出て行き、イスラエル中を行き巡り、エルサレムに帰って来た。
昔はダビデは謙遜でした。神様に真っ直ぐで純粋でした。
初めて敵の戦士、大男ゴリヤテと戦った時、彼が持っていたのは5つの石だけだった。
武装した大男でプロの戦士に対して、少年の羊飼いダビデは石だけで戦った。彼の戦いは装備ではなく、経験でもなく、神様の力だった。彼はただ神様だけ信頼していました。若い頃はそうでした。初めて戦った時のダビデのセリフです。
(1サムエル 17:45-47)
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。(…中略…)
剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」
神様は今も、イスラエルが軍事力に頼ることを望まれません。
でも変わります。成功するたび、勝利するたび、わからないように、少しずつ、少しずつ神様の栄光でなく、自分の能力とか権力に心が移って、そういうものに安心感を求め始めていました。
力を持ち、経験を持ち、成功を重ねたとき、順調な時こそ危険な時です。
※質問です。
今日、皆さんは何を頼りにしようとしていますか?
自分の将来のため、自分の安全のため、家族のために。何を数えていますか?
何に信頼を置いて安心しようとしていますか?
お金を数えることも、安全安心のために準備することも罪ではないけど、でも、神様が見ておられるのは心です。神様以外のことを第一とし、神様以外のものが偶像になっていくことがあります。
神様は妬む神様です。神様の妬みや怒りは正しくきよいものです。
僕らが神様以外を愛し、求め、誇り、信頼することを妬む方です。
ダビデの人口調査は神様の目には悪いことでした。
(7)
この命令は神の目に悪しきことであった。神はイスラエルを打たれた。
「打たれた」とあるけど、ただ、この時点ではどうやって打たれたのかはまだ書かれていません。
まず全体の話を要約して、その後で詳しく説明しています。
② 神の憐れみに信頼し、赦されるダビデ
ダビデは何度も罪を犯す人でした。
人妻と関係を持って、その人の夫を上手に殺したこともあります。今回も国の力をまるで自分のもののように誇り始めています。
だのに、旧約聖書も、新約聖書もダビデのことを「みこころにかなう人」「主の目にかなうことをおこなった」と言います。どうしてでしょう?
彼は、失敗しなかったのではなく、罪を犯すけど、そのたびに神様のところに戻る人です。ダビデは自分の罪を認める人でした。この後、彼は悔い改め、自分の罪を告白します。
(8)
ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。どうか、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」
この祈りは僕らのお手本です。
神様が願っておられるのは、完璧な人ではなく、自分が神様からずれていることを認める人です。「神の心にかなう人」とは、行いよりも神様への心の向きを表しています。
罪を指摘されても言い訳して「俺は正しい、悪くない」と言いがちです。僕はいつも妻にそう言います。
そうやって自分を守ろうとします。
でも、神様が願っているのは、自分を固くし、ガードする人とは逆の人です。砕かれた人です。
(詩篇34篇18節)
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
霊の砕かれた者を救われる。
皆さんが何かで失敗し罪を犯し、自分にガッカリし、砕かれ、ひざまずくなら、神様は近くにおられます。
私は正しい、悪くない、という人ではありません。
みこころにかなう人とは、ダビデのようにガッカリして罪を認め、悔い改める人です。心の貧しい人は幸いです。
神様は傲慢さを教え、指摘てくださいます。
神様よりも自分を誇ったり、神様より他のものを愛し頼ろうとすることを指摘してくれます。偶像のように自分を誇ろうとしていることに気づかせてくださいます。皆さんも経験があると思います。
その時に大事なのは、ちゃんとそれを認めて言葉にすることです。
(8)ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。どうか、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」
※証
神様はタイで私にも示してくださいました。
教会の成長や献身者を、いつの間にか神様の働きではなく自分の成果のように考えていた高ぶりです。
口では全部神様のめぐみ、と言うけど、頑張って教えて教会を成長させようとか、献身者を育ててやろう、というのは傲慢です。そのような高ぶりがあることに気がつかされました。
ダビデは成功するうちに人口をまるで自分の力のように数えました。それは主の目に悪でした。
僕も教会の成長を数え献身する人たちを数えていました。それは主の目には悪です。
教会を成長させるのは神様の恵みです。
東栄教会が、そして牧師である自分が今までやってきたやり方も、これからの計画も、全部手放します、僕の思い通りでなくしてください。神様の思いのままにしてください、と祈りました。
今も祈らされています。
神様が、新しいことをされます。神様が人を育ててくださいます。
●罪の結果はある。
どんな罪も告白するなら赦されます。全ての悪からきよめられます。
聖書がそう言います。でも、高ぶりの罪の結果は残ります。
神様はガドに言います。
(9-12節)
9,主はダビデの先見者ガドに告げられた。
10,「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしがあなたに示す三つのことがある。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」
11,ガドはダビデのもとに行き、彼に言った。「主はこう言われる。『どれかを受け入れよ。
1、三年間の飢饉。
2、三か月間、敵に敗北し続けること。
3、三日間の主の剣。つまり疫病。
三択です。3だけ「主の剣」と言われています。ここで国中に病気が流行るのは直接的な神様の剣です。
13節でダビデは答えます。
(13)
ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。私を主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」
敵に攻撃されるのでなく、神様に攻撃されたいと願いました。神様にはあわれみがあるからです。
神様は疫病のことを剣、と言っています。結果として神様は3を与えます。
神様は憐れみ深い神様です。今日もそうです。
失敗するけど、それでも見放さないで今日まで一緒にいてくださった神様です。そして今回も憐れみ深い神様です。それでも神様の裁きで7万人が病気で死にました。
(14)
主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルのうち七万人が倒れた。
七万人、ものすごい人数です。わずか3日で7万人が命を落としました。厳しい、と思うけど、神様にとって罪はそれほどまでも大きく、そして破滅をもたらすものです。
聖書はここで、罪は決して個人的ではないことを示しています。
罪は全体に影響を与え壊していきます。
神様は罪を赦してくださいます。でも、罪の結果はあります。
神様の赦しは完全ですが、罪の結果を僕らは受けなければなりません。
僕らも今、罪の結果を経験しています。
人間関係がうまくいかないことも、戦争も、異常気象も、病気も、死ぬことも罪の結果です。罪の赦しはあるし、イエス様によってどんな罪も赦されます。でも、クリスチャンも例外でなく罪の中でもがいています。ダビデは悔い改めましたが、罪の結果として苦しみもまた受けることになります。すでに赦されています。でもいまだに解放されてはいません。
それでも、神様のあわれみはあります。
(15)
神はエルサレムを滅ぼそうと、御使いを遣わされた。主は御使いが滅ぼしているのを見て、わざわいを下すことを思い直し、滅ぼす御使いに言われた。「もう十分だ。手を引け。」主の使いは、エブス人オルナンの打ち場の傍らに立っていた。
ここでも、まず聖書は全体を要約して、そしてこの後詳しく説明します。
神様はみ使いを用いて、すでに7万人を殺されました。そして、今度はエルサレム全体を滅ぼそうとしていました。ダビデは怖くて平伏します。詳しくは16節から17節
(16)
ダビデが目を上げると、主の使いが地と天の間に立ち、抜き身の剣を手に持って、エルサレムの上に伸ばしているのを見た。ダビデと長老たちは粗布で身をおおい、ひれ伏した。
(17)
ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。あなたの民を疫病に渡さないでください。」
ダビデは人々をこれ以上苦しめないでくださいと祈ります。「罪を犯したのは私です。」
自分が苦しみます。自分が罪の結果を受けます。だから彼らを苦しめないでください、私が受けます。平伏して願います。
さて、ダビデが罪の責任をとって、代わりに人々が救われる、その願いは聞かれたでしょうか?
答えは「いいえ」です。ダビデは人々の身代わりになることはできませんでした。ダビデ自身が罪人だからです。
さて、ここから最後のポイントです。
聖書は身代わりになって罪と死から救ってくださるイエス様へと導いてくれます。
③ 私たちはキリストに信頼する
神様の答えです。
それで主の使いは先見者ガドを通してダビデに伝えます。
(18)
そこで、主の使いは、ダビデにこう伝えるようガドに言った。「ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主の祭壇を築かなければならない。」
神様の答えは、憐れみは、そこで、動物を殺して、身代わりの動物を殺してささげる祭壇を作りなさい、という意味です。
ダビデは「悪いのは私です。私が裁かれるようにしててください」と願いました。でも実際にはダビデは殺されませんでした。
代わりに羊がささげられて死に、牛がささげられて死にました。
(26-27節)
26,ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、主を呼んだ。主は、全焼のささげ物の祭壇の上に天から火を下し、彼に答えられた。
27,主が御使いに命じられたので、御使いは剣をさやに収めた。
身代わりの犠牲がささげられ、ダビデは救われ、エルサレムの人々も救われました。これがダビデの罪のための祭壇であり犠牲です。
この場所はオルナンの所有のうち場でした。
次の22章1節を見ると、そこは後に神殿が建てられることになります。
ダビデは言います。
(22章1節)
そこで、ダビデは言った。「これこそ神である主の宮だ。これこそイスラエルの全焼のささげ物の祭壇だ。」
場所が神殿がたてられました。ソロモンの時代に完成し、
その神殿の前で罪のための犠牲の牛や羊が殺されました。
やがて時代が過ぎ、そして同じ山の地域で、イエス様は最後の罪のためのいけにえとして十字架につけられました。
ダビデが平伏して「罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです。」と願ったけど、ダビデは民の代わりに死ぬことはできませんでした。実際に罪のために打たれて殺されたのはイエス様です。
その罪のための罰や呪いは、神様の怒りは、いけにえの羊や牛に転嫁されました。
その場所が神殿の場所になり、イエス様が最後のいけにえとして、十字架の上で「父よ彼らをお赦しください」と祈りながら殺されました。つまり、本当の罪の身代わりがイエス様でした。
イエス様ご自身が十字架にかかり、私たちの裁きを引き受けてくだささいました。
ダビデが願った「どうか私が打たれるようにしてください」を
イエス様は実際に成し遂げて、祈りながら死んでくださいました。
僕らは何を数え、何を誇りにしているでしょうか?
教会の中心は頑張りではありません。力ではありません。
献身者が多いとか、成長していることではありません。イエス様の十字架が中心です。
十字架以外に誇りはありません。僕らを救うのは軍事力ではなく、イエス様の十字架です。
罪の責任はあります。罪の刈り取りはあります。
僕らは本来、神様の裁きを受けるべき者でした。
それでも憐れみ深い神様は、その神様からの怒りと罰をイエス様に負わせ、僕らを解放してくださいます。
僕らが誇るのはただ、十字架に現れた神様の憐れみです。
あのイエス様が十字架の上で僕の代わりに恥をうけてくださり、苦しんでくださいました。
イエス様が代わりに捨てられました。
僕らが誇るのは自分の業績でもお金でもありません。
教会が成長していることでも、宣教師を送り出していることでもありません。
イエス様の命を捨てるほどの愛を誇ります。
ダビデは軍隊の数を数えました。私たちは神様以外のものを数えてしまいます。
ダビデを責めることはできない。私たちも同じです。
私たちは何を数えているでしょうか。
ある人は通帳の残高でしょうか。
ある人は学歴、地位、資格でしょうか。
そして、東栄教会が危ないのは、責任者である僕が危ないのは、教会がいろんな人を献身者として送り出してることを誇ること、信仰的に頑張ってることを数えることです。
僕らが数え、感謝すべき神様の恵です。
僕らを救うのは、私たちのために死んでくださったイエス・キリストです。
神様は今日、私たちに問いかけておられます。
「あなたは何を数えているか。」と。
(ガラテヤ6章14節)
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。
自分が数えているもの、握ってること、神様以外に求めていることがあるでしょうか。
もし、示されていたら手放しましょう。
教会の中心はキリストの十字架です。
僕らの傲慢さの身代わりに死んで赦してくださったイエス様です。
イエス様以外に、あの十字架の処刑以外に誇りはありません。
キリストだけを誇る者として、イエス様だけに感謝をささげて賛美をささげて歩みましょう。
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