2022年12月19日月曜日

哀歌3.21-39

神様の懲らしめと怒りは僕らを滅ぼすためではなく、矯正するためのものです。やりたい放題の若者が神様から懲らしめを受け、苦難を通るのは良いことです。それによって神様を恐れ、神様の前に謙遜にさせられるからです。 (27-31) 人が、若いときに、くびきを負うのは良い。 それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。 口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。 自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。 主は、いつまでも見放してはおられない。 聖書は苦しみの中でじたばたするのではなく、ただ、主を認めてその苦しみを受けよ、と言います。矯正し、訓練し、砕き、作り変えるための苦しみだからです。 (32-33) 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。 ユダとエルサレムは神様を裏切り、神様の怒りと裁きを受けて苦しみました。エルサレムは滅び、70年の間捕囚として外国に連れ去られました。しかし、彼らはこの苦しみを通して悔い改め偶像礼拝をやめるようになります。この苦しみは神様が与えられたものです。 (37-38) 主が命じられたのでなければ、だれが語って、このようなことが起きたのか。わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。 神様の愛は決して絶えることがありません。(1コリント13:8) 見捨てられたのではありません。 苦しみは僕らを砕き、作り変えさせるための通過点です。神様の憐れみは尽きることがありません。(21)神様は今日もいつくしみ深いです。苦しみと忍耐は僕らにとって必要な時間です。 見放していません。大丈夫です。希望は必ずあります。 「たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。」(32)

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