ルカ24.13-35、45-49 目が開かれますように メッセージ
自分では気がつかなくても「遠藤さん元気そうですね」と言われる時と「なんか疲れてますね」とか「なんか、体調大丈夫ですか?」とか言われる時があります。
もちろん、人間だから、暗い日もあるし、明るい日もあります
皆さん今日はどうですか?今日は聖書が教える明るさと暗さです。
それは復活を信じるか信じないか、それとすごく関係があります。
●暗い人、明るい人
まず暗い人、暗い弟子からです。
"しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。"
ルカの福音書 24章13~17節
二人はイエス様が一緒にいるのに、イエス様と話しているのに暗い。その理由は16節です。
「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」イエス様であることがわからないし、一緒にいることがわからないからです。イエス様が今生きておられることがわからないからです。
彼らが暗い理由はイエス様が死んじゃったことです。イエス様に期待していたのに期待はずれだった、と思っています。この人こそ救い主で、イスラエルを解放し、私たちを自由にしてくれる素晴らしいこの王様だと思ってたのに残念だった。がっかりした。もう駄目だ。という雰囲気です。クレオパという弟子が言います。
"そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、"
ルカの福音書 24章18~21節
もう死んでしまったけど、前までは力があったし、行いも素晴らしい預言者だった…もう終わった。昔の人になってしまった、という感じです。
仲間の女性たちがお墓に行ったら、天使たちがイエスが生きてると言ったらしいんだけど、そんなことあるはずないと思う…。彼らは女性たちの話はたわごとだと言います。
先生が殺されただけで悲しいのに、死体もなくなってしまった…
"この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。"
ルカの福音書 24章11節
イエス様と一緒にいるのに、イエス様のことが全くわからず、ただ人間的な見方しかできないふたりです。これが暗い人たち。これが暗い状況です。
私たちも同じです。イエス様が一緒にいるのにわからなくなってる状況です。
すぐそばで語りかけて下さっているのに、イエス様と話してるとは思えず、心の目が遮られ、心の耳が閉じられている時です。その時表情は暗くなります。ただマイナスなこと、ネガティブなことばかりを数えあげます。
目が閉じられていることをイエス様は愚かだ、と言います。今までキリストの苦しみと復活を聞いてきたはずなのに、なんでわからないんだ、言いながら、イエス様はもう一度丁寧にキリストの苦しみと復活と栄光を丁寧に説明してくださいます。
"そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。"
ルカの福音書 24章25~27節
イエス様は「ああ、愚かな者たち。」と言うけど、でも、あきらめず寄り添って、丁寧にわかんない人たちに教えてくださる方です。キリストの十字架の死によって、わたしたちの罪が赦されます。イエス様は復活して、栄光を持っておられます。今生きておられます。全ての人たちに罪があり苦しみがあるけど、その先に復活があります。赦しと栄光は明らかです。そのように丁寧に説明してくださる方です。
エルサレムからエマオまで片道11キロ、イエス様は丁寧に説明し続けてくださいました。
次に明るい人です。
同じ弟子たちですけど、明るくなった彼らです。
どうして彼らが急に明るく力にみなぎったか、喜びにあふれたか、それは目が開かれて、イエス様が一緒にいる復活して生きているということがわかった瞬間です。
"彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。"
ルカの福音書 24章28~31節
あの、最後の晩餐の日のように、「これは私の体です。これは私の血です。」とおっしゃったのでは、と思います。パンを渡して下さった時に手に釘の跡が見えたかもしれません。
(マタイ 26:28 )
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
彼らはその時に目が開かれました。あの死刑は単なる死刑ではなく、わたしたちの罪の赦しのためだったし、しかも、イエス様は復活して、今一緒にいてくださいます。
イエス様の苦しみは苦しみで終わらなかったし、イエス様を信じる人には同じように希望があります。苦しみの向こうに喜びと復活があります。彼らはそれがわかりました。聖書がただの知識でなく、いのちのことばであり、神様の愛と希望そのものだとわかった瞬間です。
心の目が開かれた時に、彼らは力と喜びに溢れました。
"二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。"
ルカの福音書 24章32~35節
今まで聞いてきた聖書が、文字ではなくいのちになりました。彼らは喜びがみなぎり、力がみなぎりました。彼らは仲間の弟子たちがいるエルサレムまで約11キロを走り出しました。計算したら間1時間から1時間半位です。彼らは喜びに溢れ、早くこのことをみんなに伝えたいと思って走り続けました。
イエス様が今生きておられる。イエス様が死で終わることなく命を与えてくださる。苦しみの先に喜びがある。彼らは嬉しくて、早くこの福音を仲間に伝えたいと思い走りました。
僕らがこの福音を伝える動機は喜びです。嬉しいから伝えたいんです。
義務ではありません。伝道は喜びです。福音を伝えるのは心の目が開かれ、イエス様が一緒にいることがわかった人に与えられた喜びと力です。イエス様が赦して下さったこと、イエス様が復活して、僕らの苦しみの先に復活と希望があること伝えたいのです。
喜びのニュースは伝えたいですよね。今朝出産のラインに気づいたのは7時半でしたけど、僕も嬉しくて祈りました。彼らに祝福のラインを送って、ついつい他の人にも伝えたくてあっちこっちに転送してしまいました。同じように、福音は喜びです。福音だから、良い知らせだから、嬉しいから伝えたいのです。
イエス様は復活しています。これが今も生きています。そして私たちも苦しみがあり私があるけどその先にイエス様と同じように復活と栄光があります。イエス様は「初穂」と言われてます。
僕らも苦しみがあるけど、同じように復活します。これが私たちの喜びの理由です。
弟子たちが目が開かれた時から急に明るく力が漲ったように、僕らも祈り願うべきはこの心の目を開いてください、ということです。
心の目が閉じていると、この世のことしか見えなくて、ネガティブなことばかり、マイナスなことばかりが見えて暗くなります。
でも、目が開かれると苦しみの先にある栄光と祝福を見るようになります。今まで聞いてきた聖書の言葉が、単なる勉強でなく、リアルな現実だとわかります。これが福音です。喜びです。
メッセージを語るとか、福音を伝えるとか、伝道集会をすることは、基本的には聖霊による喜びを伝えることです。苦しみの先にいのちがあることを伝える喜びです。
もしも、メッセージ準備しなきゃ、とか、あの奉仕しなきゃ、と重たく暗くなってるなら、一度立ち止まって、心の目を開いてくださいと祈りましょう。イエス様のところに戻りましょう。イエス様が一緒にいてくださること、生きておられること、天の命と喜びがあること、教えてください、心の目を見えるようにしてください、と祈りましょう。
周りの人の言葉や人の顔しか見えなくなっているなら、立ち止まって考えましょう。なぜ自分はマイナス要因ばっかり、心配事ばかり考え、探し、見えてしまうのか。イエス様に聞いてみるとわかると思います。そして目を閉じたり開けたりしてくださるのはやっぱりイエス様です。
●目が開かれますように
いつも祝祷で祈っています。
(エペソ人への手紙 1章18-19節)
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、(…中略…)知ることができますように。
これは僕が祈ってるのでなく、神様の聖なることば、聖霊のことばが祈ってます。
聖書は霊感された神の言葉です。聖霊による祈りです。あなた方の目が開かれるように、イエス様が祈ってくださっています。イエス様の願いです。イエス様はあなた方の目が開かれ、将来の栄光がどんなに素晴らしいか、神様の力がどんなに素晴らしいかわかるように、と祈ってます。イエス様の祈り、聖霊様の祈りです。
(マタイ 6:22-23)
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。
目が開かれていれば、体全体が明るく、人生全体が明るいです。たとえ病気でもあっても、試練があっても、人間関係がこじれていても、それでも明るくなります。なぜなら、その試練の先に復活があるわかるからです。
復活を信じるのは、私も、今こんなに弱くて、こんなに醜くて、こんなに失敗するけど、この罪から解放され、罪は赦され、弱い心も体も全て脱ぎ捨ててイエス様と同じように栄光の体に変えられる、その希望を見ることです。素晴らしいです将来を見ることです。
●まとめ
1 目を開いてくださるのは、神様だけができる
(16)
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
(31)
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
心の目と耳を開いてくださるのは神様です。神様だけ心の耳を心の目を開いてくださいます。だから、求めましょう。神様どうぞ聖霊によって開いてください。人の言葉や、人の教えでなく、単なる知識でなく、リアルに主がいのちの言葉をここで語ってくださいと。
神様が隠される時は隠されます。いくら十字架の苦しみがあると預言しても、弟子たちは聞いてても意味がわからなかったし、復活すると言われていても理解できませんでした。聖書は「隠されていた」と言います。神様が心の耳、心の目を開いてくださらないと、わからないとかわからないんです。
"彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。"
ルカの福音書 18章33~34節
2 私たちも目を開いてくださいと求める
詩篇 119篇18節
私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。
自分の目が霊的に閉ざされていることを自覚してて、神に「目を開いてください」とお願いする詩篇です。この祈りは、霊的理解が神の働きによるものだという信仰の表れです。
人間には「求める責任、姿勢」も求められています。
「神がすべてをされるから何もしなくていい」のではなく、神様に求めることが人間側にできることです。
(マタイ7:7)
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。
目を開くのは神様だけど、求める姿勢は人にゆだねられています。
神様は遠くに隠れてるわけじゃなく、心から求める人には出会ってくださいます。
つまり、「心の目を開いてほしい」と願うこと自体が神様に近づく第一歩です。
正直に祈りましょう。「私にはわかりません。怖いのです。イエス様が遠く離れているように感じるのです。」「人間関係がこじれていることばかり気になります。」と。
求めましょう。どうぞ私に真理を見る目を与えてください。
復活して今生きて私と一緒にいてくださるイエス様のことをわからせてください。
へりくだって砕かれて求める人は必ず与えられます。
僕らに最も不足しているのは、求める祈りです。神様に心を開き、目を開いてもらおうとする祈りと願いです。それなしに聖書の学びをして知識があっても、喜びがなく力も出ません。
奉仕をしても、喜びがなく義務感や不満や、あの人がああだ、こうだ、と不満が出ます。
暗いままです。
聖書がただの活字でなく、礼拝メッセージがただの退屈な講演会とか、学びの時間ではなく、生きていることばであり、命であるイエス様が僕らの中に満ちて、僕らの体がイエス様のもの、僕らの心がイエス様のものととなっていくこと、これがイエス様の願いです。
神様を知るのは体験です。
聖書によると、女性を知るっていうと、結婚のことです。女性を体験する時に「知る」と言います。同じように、神様を知るとは、情報だけ、アタマだけでなく、心でも、体でも、体験し、神様のことばと僕らの心が一つになっていくことです。
神様の御言葉は現実そのもの、リアルそのものです。
イエス様が今、復活して生きておられることがわかり、今、イエス様が生きて私たちと一緒にいるってことが現実として、体感としてわかること、経験になっていくこと、これが神様を知ることです。
そのためには、神様が心を開き目を開いてくださいます。私たちも心を開き、頑固さを捨てて受け入れていくことの共同作業です。
結婚と同じです。
神様だけがその私たちに開かれた心と耳と目に変えてくださいます。
その人は周りの人を愛し、周りの人に福音を伝えます。光となります。
頭だけ良くても、賜物だけあっても、命がなけれあば暗いだけです。イエス様のご臨在がありません。それは人の力、人の知恵に過ぎません。その奉仕は周りの人に愛と祝福を与えることがありません。
イエス様は言われました。
"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章8節
仕組みとか体制とか秩序とか大事です。係分担も大事です。でも、それらを超えて生きておられるイエス様の命と力が覆って、満ちてくださいます。イエス様によって耳が目が開かれ、この心が体がみことばと御霊に満たされる時に用いられます。
僕はリバースクールで編曲とかシンセサイザーを教えています。シンセは好きだし、先生たちと一緒に讃美バンドで演奏するのが楽しいし大好きです。でも、どんなにきれいな音を作っても、どんなに豪華な音で神様を褒めたたえても、そこに聖霊様がいなければ、ご臨在がなければ虚しいものです。僕自身が神様に開かれた耳と目が与えられ一つ一つの音を、神様のものに明け渡してなければ、単なる虚栄心、単なる虚しい飾り物です。豪華な凄い音であればあるほど恥ずかしい虚しいものだと思います。
神様、あわれんでください。どうぞ私たちの心耳を目を開いて、この体全部をあなたのものとしてください。そしてあなたの愛とあなたの栄光とあなたの力と福音の恵みを流すものとしてください。
神様のためと言いつつも、人間が作り上げたものが虚しく、むしろ神様に嫌われるという聖書の箇所はいくつもあります。イエス様は復活して生きておられます。私の中におられます。
私たちの心が耳が目が、この全身が肉体が賜物が全部生きておられるイエス様のものとなりますように。
用いられますように。
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考えてみましょう
●あなたは今、暗いですか?明るいですか?その理由はなんでしょう。
●目が開かれ力と喜びに満たされるために私たちがすべきことを考えてみましょう。
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