2026年7月20日月曜日

使徒15.1-29

 使徒15.1-29 ●地味な会議や祈りやプロセスを通る聖霊の導き


聖霊の働きって、「悪霊が出て行った!」とか「癒しが起こった!」とか、そのようなドラマチックなことを思い浮かべるかもしれません。でも聖霊は教会が時間をかけて祈り合い、話し合い、聖書を調べて意見交換をする、という時間がかかって、一見めんどくさいプロセスの中でも働かれます。


アンティオキア教会の中に「割礼を受けなければ救われない」という人たちが来て混乱し、対立が起きました。でも聖霊はそのような問題に対して教会が誠実に向き合い、祈り合い、聖書を調べ、意見交換をしました。そういう面倒で時間のかかる導きのことを聖書は聖霊の導きだといいます。



"さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。"

使徒の働き 15章1~2節



アンティオキア教会はこの問題をエルサレムにいる使徒たちや長老たちと話し合うことにしました。500キロくらいの距離を一か月くらいかけて移動します。一瞬で起こる奇跡とは違って大変な時間と労力をかけて神様の答えを求めます。


エルサレムの教会での話し合いでは、今まで神様がしてくださったことを確認し、さらに旧約聖書の御言葉を確認して、そして全会一致で「割礼は必要なし」と言う結論に至りました。

この結論を手紙と一緒に口頭でも伝えるのですが、面白いのはこの結論を「私たち教会が決めたことです」とも「聖霊の導きです」とも言わないことです。「聖霊と私たちは…決めました」と伝えます。

聖霊は人間を飛び越えて導かれるのではなく、教会が話し合い、聖書を調べ、祈り合う中で働かれます。



"聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。"

使徒の働き 15章28節



お互いの意見を聞き合い、話し合い、時間をかけて一緒に祈り、聖書の御言葉を調べながら、神様の導きを求めた結果が「聖霊と私たち」の結論です。

聖霊の導きは教会の兄弟姉妹との話し合いや協力や祈りや交わりをスキップしません。誰か一人だけに全部を任せず、教会全体を通して導かれることが多いようです。なぜなら教会はキリストのからだ、一人一人は各器官だからです。(1コリント12.27)



●相手をつまづかせないための配慮


最初この問題は「割礼を受けなければ救われないのか?」というものでした。答えは「割礼は必要なし」です。ただ、イエス様への信仰によって救われれます。それ以外に救いの条件はありません。

ただ、信じるだけで救われるんだから「何やってもオッケー」という意味ではありません。

救いは恵みだけ、ですが、恵みを受けた人は愛の中を歩むようになります。教会は愛するゆえに、ユダヤ人たちをがっかりさせないために、以下のことを決めました。



"聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。

すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」"

使徒の働き 15章28~29節



ここを読むと「ん?イエス様を信じるだけで救われるんじゃなかったの?」と思います。

…が、これらは救いの条件ではありません。兄弟を愛するためののもの、ユダヤ人たちへの配慮です。これらの配慮が必要な理由は「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(21節)


ユダヤ人たちにとっては、異教の神にささげられた肉を食べるとか、ちゃんと血抜きしないで肉を食べるとか、それらは受け入れられない行為です。もちろん、イエス様は「すべての食べ物をきよい」とされているし(マルコ7.18-19)パウロも実は偶像にささげられた肉が心を汚すとは思っていません。(1コリント8章、ローマ14章など)

それでも、相手をつまずかせないために、ユダヤ人クリスチャンへの配慮として偶像にささげられた肉や血を食べるのはやめよう、もちろん性的な不品行は避けよう、と聖霊と教会が決断しました。

このことはコリント人への手紙とローマ人の手紙でパウロはもうちょっと詳しく教えてくれています。



しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。"

コリント人への手紙 第一 8章7~9節



"ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。"

コリント人への手紙 第一 8章13節



"なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。

ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。"

ローマ人への手紙 14章17~21節



パウロはここで、食べ物が問題なのではない、と言っています。大事なのは自由を振りかざすよりも、兄弟姉妹を愛し建て上げることです。そのために僕らは自分の考えを手放すことができます。


聖霊の導きとは奇跡だけではありません。

時間をかけて話し合い、祈り合い、謙遜に御言葉に聞いていく、そのような愛の歩みの中に聖霊は働かれます。ハレルヤ!

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