2026年9月8日火曜日

2歴代7.1-3

 2歴代7.1-3


僕らは「主の名が聖なるものとされますように」(マタイ6章)「栄光がただ主にのみありますように」(詩篇115篇)って祈るけど、神殿に神様の栄光が満ちることは、それが実際に起こった時の様子です。

祭司たちは神殿に入ることができなくなりました。ただ神様の栄光だけがすべてになりました。

演奏してるとか、奉仕してるとか、そのような人間的なものが消えていく世界です。


火が天から降ってきたら「わ、怖!」となると思います。この時、天から火が降ってささげ物を焼き尽くしました。人々は恐れ、顔を地面につけて神様を拝みました。



"ソロモンが祈り終えると、天から火が下って来て、全焼のささげ物と数々のいけにえを焼き尽くし、主の栄光がこの宮に満ちた。

祭司たちは主の宮に入ることができなかった。

主の栄光が主の宮に満ちたからである。

イスラエルのすべての人々は、火が下り、主の栄光がこの宮の上に現れたのを見て、膝をかがめて顔を地面の敷石に付け、伏し拝んで、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主をほめたたえた。"

歴代誌 第二 7章1~3節



こんなに恐ろしい場面でも人々は「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と歌いました。それは、「本来、私たちは焼き尽くされてもおかしくない存在なのに、それでも神様は自分たちを受け入れてくれた」という意味です。神様への恐れと感謝の賛美です。

聖書は「私たちの神は焼き尽くす火」といいます。(ヘブル12章29節)


聖書によると、神様の栄光に直面した人たちはみんな自分の汚れを自覚して恐れ、「もうダメだ」と思ったようです。イザヤもそう(イザヤ6章)モーセもそう(出エジプト3章)ペテロもそう(ルカ5章)弟子たちもそう(マタイ17章)エゼキエルもそう(エゼキエル1.28)ヨハネもそうです。(黙示録1章)

聖書に出てくる立派な先輩たちがムリなら僕らもムリです。

聖なる神様の前に近づくことはできません。

この時も祭司たちは神殿に入ることはできず、顔を地面につけて恐れました。(2節)

神様のご臨在の前では罪はすべて焼き尽くされてしまいます。

僕らは焼き尽くされて当然でした。


神様のご臨在に触れることは、自分を失うことです。

そもそも、全焼のいけにえとは「すべてを神様にささげます」「自分を捨てます。ささげます」という献身の意味です。

また、罪のためのいけにえとは、「この動物が身代わりに罪のさばきを受けて殺されます」という意味です。この時、天からの火は祭司たちを焼きませんでした。人々を焼き殺すこともしませんでした。代わりにいけにえを焼き尽くしました。


神様の圧倒的なきよさ、圧倒的なさばきの前に出ることができる人はいません。

ただ、イエス様が僕らの代わりのいけにえとなって殺され、僕たちは生かされました。

イエス様の死は僕らの身代わりです。

だから僕らは一度キリストとともに死んだものです。

そしてもう一度、新しくキリストと共に新しく、きよくされて生かされたものです。

「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」ハレルヤ!


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