2025年9月10日水曜日

伝道者の書1-2章

 伝道者の書1-2章

2025年9月5日金曜日

詩篇80篇

 詩篇80篇


人生苦しいこと、悲しいこといろいろあるけど、その一つ一つを取り去ろうとしても終わりません。それらの問題の一つ一つは根から出る悪い実のようで、問題は実は根っこにあります。それは僕らが神様から愛され、喜ばれ、守られ、祝福されているという神様からの視線を受けられなくなっていることです。


子どもは愛され応援され安心しているときに力を発揮します。失敗を恐れないでのびのびと動きます。でも、無視され、嫌われていると感じるなら、不安で怖くて体は動かなくなり、そこから出る悪い実のような結果を生み出してしまいます。


回復のために一番必要なのは、神様から愛と平安と祝福の御顔を向けてもらい、それを受け取ることです



"神よ私たちを元に戻し御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。"

詩篇 80篇3節



イスラエルは神様の子どもでありながら、自分から神様を拒絶し悲しませ、神様の愛の御顔を遮ってしまいました。神様からの光や祝福を自分から拒み、その結果、彼らは外国に攻撃され、搾取され、ボロボロにされています。


"あなたは私たちを隣人らの争いの的とし私たちの敵は私たちを嘲っています。"

詩篇 80篇6節


"なぜあなたはその石垣を破り道を行くすべての者がその実を摘み取るままにされるのですか。

林の猪はこれを食い荒らし野に群がるものもこれを食らっています。

万軍の神よどうか帰って来てください。天から目を注ぎご覧になってください。このぶどうの木を顧みてください。

あなたの右の手が植えた苗とご自分のために強くされた枝とを。

それは火で焼かれ切り倒されています。民は御顔のとがめによって滅びています。"

詩篇 80篇12~16節


問題の一つ一つを解決するよりも、問題の根を取り除くことが大事です。それはもう一度神様のあの喜びの御顔を向けてもらうことです。詩篇80篇は何度もそのフレーズを繰り返します。



"万軍の神よ私たちを元に戻し御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。"

詩篇 80篇7節



"万軍の神主よ私たちを元に戻し御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。"

詩篇 80篇19節


教会が何千年も大事にしてきた祈りは、あの優しい愛と祝福と恵と平安に満ちた力に満ちた神様の御顔を求める祈りです。神様に喜ばれ、愛され、祝福されてさえいれば僕らは力を得ます。



"主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』"

民数記 6章24~26節



問題が問題なのではなく、神様の優しい喜びの視線を受けられなくなってしまった罪が問題です。罪があると僕らは神様を避けたがります。

それでも神様は諦めていません。イエス様が十字架で流された血潮は、僕らのすべての罪を赦し、もう一度喜びの子、愛する子と呼んでくださり、祝福の御顔を向けてくださっています。僕らはイエス様ゆえに愛されています。あの血によって神様の愛と祝福の視線が注がれています。大丈夫です。今日も僕らは神様の喜びの子、愛する子です。恐れる必要はありません。ハレルヤ!

 



2025年9月4日木曜日

詩篇79篇

 詩篇79篇

2025年9月3日水曜日

2列王25.22-26

 2列王25.22-26


敵に服従させられるのはイヤだけど、でも、それが必要な時もあります。「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(ヘブル12章6節)とあるように、神様から与えられた懲らしめは黙って受け入れ忍耐する期間も必要です。


ユダとエルサレムは神の怒りと懲らしめを受けて、バビロンに攻撃されて全てを奪われました。バビロンに降伏するのは屈辱だけど、神様は預言者エリヤを通してこの裁きを受け入れるように言われます。



"しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──主のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。』」

ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。"

エレミヤ書 27章11~12節



バビロンから任命された総督ゲダルヤは預言者エレミヤから教えられる人でした。彼は神様からのみことば通りに人々に伝えます。エレミヤはバビロンから釈放された後、この総督ゲダルヤのところに行って住んでいます。(エレミヤ26.24、エレミヤ40章など参照)ゲダルヤはエレミヤに与えられた神様のみことばの通りに人々に教えます。



"ゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って、彼らに言った。「カルデア人の家来たちを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」"

列王記 第二 25章24節



ところが、神様の懲らしめのメッセージがわからない人たちにとっては、ゲダルヤは単なる「裏切り者」です。バビロンに抵抗派のイシュマエルと部下たちはゲダルヤを暗殺します。その時はユダとエルサレムを愛するヒーロー気分だったかもしれないけど、結局彼らは恐れて、エジプトに逃げていきます。



"ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、十人の部下とともに来て、ゲダルヤを打ち殺し、ミツパで彼と一緒にいたユダの人たちとカルデア人たちを打ち殺した。

そこで民はみな、身分の下の者から上の者まで、軍の高官たちとともに、立ってエジプトへ行った。カルデア人を恐れたからである。"

列王記 第二 25章25~26節



敵に降参したり服従するのはイヤだけど、必要な時もあります。十分に恥辱を受けるべき時もあると聖書は言います。



"人が、若いときに、くびきを負うのは良い。

それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。

口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。

自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。"

哀歌 3章27~30節



神様が歴史を支配し、全てを益にしてくださいます。ユダとエルサレムは滅ぼされ、捕囚にされ、その後回復するのに70年かかりました。

僕らも思い通りにならないこと、受け入れたくないことはあります。時間はかかります。それでも、神様は益とするために許可しておられます。僕らの思いよりも、神様のご計画はもっともっと高く、深いものです。(イザヤ55.8-9)しかも、その神様のご計画は、人が心に思い浮かんだこともない大きなものです。(1コリント2.9-10)


今日も僕らの判断を一度手放して聞きましょう。神様の前にひざまづいて従いましょう。僕らの計算より、予想よりはるかに大きな神様です。ハレルヤ!




2025年9月2日火曜日

2列王24章

 2列王24章


僕らは問題や攻撃に会うと、すぐに「相手が悪い」と思います。でも、イエス様は「どうして自分の目にある梁(大きな罪)には気がつかないのですか。」とおっしゃいます。(ルカ6.41)

エルサレムとユダが外国から攻撃され、滅ぼされて行ったのは、実は敵のせいではなく、自分らが偶像礼拝をやめなかったことが原因です。神様ご自身が「ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。」とあります。(2)



(1-4節)

1,エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。

2,そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

3,実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという主の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、

4,また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため主は赦そうとはされなかったのである。



問題は敵ではなく自分にありました。神様が許可しなければバビロンの王ネブカドネツァルが攻めてくることはありません。ユダにもエルサレムにも何度も神様は警告していました。「主がそのしもべである預言者たちによって告げられ」ていたとあります。(2)だのに、彼らは罪を認めず、悔い改めることもせずに滅ぼされていきます。聖書は「エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。」とあります。(20)



(9-20節)

9,彼は、すべて先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行った。

10,そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムに攻め上り、都は包囲された。

11,バビロンの王ネブカドネツァルが都にやって来たとき、彼の家来たちは都を包囲していた。

12,ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。

13,バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。主が告げられたとおりであった。

14,彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。

15,彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。

16,バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。

17,バビロンの王は、エホヤキンのおじマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。

18,ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。

19,彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目に悪であることを行った。

20,実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。



危険なのは敵ではなく僕らの側です。周囲からの誤解や攻撃を受けると「相手が悪い」と思いやすいですが、その前に、この問題の中に自分の高ぶりや、神様よりも頼っている偶像のようなものがあるかどうか調べてみましょう。ユダとエルサレムが「主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによること」です。(20)


神様よりも愛し従う偶像があるなら、神様は妬む神様、怒る神様です。これらのことが書かれた理由は「戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10.11)僕らへの攻撃や苦しみは内側の偶像や不信仰を神様があぶり出すためです。イエス様は「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。」とおっしゃいました。(ルカ6.42)相手に罪を見たとき、相手から攻撃されたとき、自分も同じことをしてきたことを認めましょう。いや、もっと大きな罪があることを認めましょう。試練や攻撃は自分にある罪を認めて悔い改める機会です。