2023年4月12日水曜日

創世記26.12-25

 創世記26.12-25


神様はアブラハムにもイサクにも祝福を約束してくださっています。祝福とは神様が喜び、愛し、受け入れ、必要を与え、財産も人も増やしてくださることです。飢饉の中でも神様は祝福を約束してくださいました。ところが、それと同時に周りから妬まれ憎まれもします。イサクは周りから嫌がらせを受け、その土地から追い出されます。



(12-15)

12,イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。

13,こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

14,彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

15,それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

16,アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」



井戸を土でふさがれることは、命に関わる大問題です。イサクとその家族、多くのしもべたち、家畜の群れには水が必要です。井戸を塞がれ追い出された彼らはその土地を出て移住します。次の場所でもまず必要なものは水です。彼らは井戸を掘り、水を掘り当てます。…が、ここでも妬みに駆られたペリシテ人の羊飼いたちが「われわれの水だ」と主張して奪いに来ます。



(18-20)

18,イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。

19,イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。

20,ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。彼らがイサクと争ったからである。



イサクとしもべたちはその井戸を手放します。次の場所に移り、井戸を掘り、水を掘り当てます。ところがまたもペリシテ人の羊飼いたちが妬み、争い、奪いに来ます。


(21)

しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。



イサクはその井戸も手放し、また移住し、またイチから掘り直します。



(22-23)

イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

彼はそこからベエル・シェバに上った。



神様は周りからの何度も何度も妨害や命に関わる嫌がらせの中でイサクに祝福を約束してくださっています。忍耐するイサクに神様はもう一度現れて祝福の約束を確信させてくださいます。



(24-25)

24,主はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。

25,イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。



イサクが敵を赦し忍耐できたのは、神様が語りかけてくださっているからです。神様が恐れてはならない、あなたとともにいる、あなたを祝福する、と確認させてくださるから苦しみの中でも希望を持って忍耐し、敵に与えることができました。同じように、僕らが苦しむとき、それでも希望を持つことができるのは、祝福が与えられる約束があるからです。イエス様は言われます。



(ルカ6.27-30)

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。

あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。



神様は僕らを祝福し、喜び、愛し、受け入れ、必要を与え、財産も人も増やしてくださいます。たとえこの地上で目に見える祝福を受けることがなくても、神は私たちのために、もっと大きなすぐれたものをあらかじめ用意しておられます。(ヘブル11.40)祝福は確定しています。たとえそのように見えなくても確定です。忍耐とは、神様の約束を信じて希望をもって敵を愛し赦し与える決断をし続けることです。「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(1ペテロ1:4今日も神様のことばへの信仰と希望によって歩みますように。ハレルヤ!

2023年4月11日火曜日

創世記26.1-5

 創世記26.1-5


当たり前ですが、苦しい状況から脱出するためにはいろんな方法を考えます。この当時、食料難の時にはエジプトに移住する人が多かったようです。エジプトのナイル川周辺はいつも作物が豊かでした。ところが、神様の方法は、僕らが考えるのとは違います。 イサクの時代に食糧危機があったときに、神様はエジプトに行ってはならない、と言われます。



(1-3)

1,さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。

2,主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。

3,あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。



神様の方法は、人間が考える方法とは違って、「わたしがあなたに告げる地に住みなさい。」(2)です。神様はどんな苦しい状況の中であっても「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」と言われます。(3)その約束を信じ、従うことが正解です。

神様がイサクもイサクの子孫も祝福してくださる約束は、お父さんアブラハムにも言われていたことの繰り返しです。創世記12章、15章、17章、22章、申命記30章でも繰り返されています。人間が考える方法と神様の方法が違います。僕らに求められているのは信じて従うことです。アブラハムは神様に聞き従うことで祝福されました。「これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」(5)


僕らも神様に祝福されたいです。そして、神様はアブラハムやイサクに約束されたと同じように、イエス様を信じ従う僕らにも祝福を与えてくださいます。聖書は「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。(…中略…)信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」と言います。(ガラテヤ3:7-9)信じることは従うこととセットです。



(4)

そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。



空の星のように増える子孫はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫、つまりユダヤ人のことです。イサクの時代は所有の土地を持たない寄留者でしたが、神様は「あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。」と言われ、本当にこの時滞在したゲラルの土地はユダヤ人のものとなりました。(ヨシュア記21.43)そしてさらに、祝福は世界に広がり、すべての人が祝福される日が来ることが預言されています。地球全体が祝福されるのは「あなたの子孫によって」です。子孫によってとは、キリストによって、の意味です。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。(ガラテヤ3.16)

やがてキリストもう一度この地球に来られ、すべての国を支配なさいます。神様の約束はだんだん実現していますが、まだまだ途中です。


神様の願いはすべての人が祝福されることです。そして神様のことばは実現します。そのプロセスは先にこの福音を知った僕らがイエス様と一緒に伝えることです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16.15)と神様は言われます。


先にイエス様を知った僕らは今日も祝福されています。どんなに悲しく辛いこともイエス様と一緒です。人間の方法や力での解決ではない、神様の方法があります。「あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」今日も僕らに言ってくださっています。僕らの予想をはるかに超えた世界史が今日も動いています。世界は神様のものです。そして、僕らの今日の小さな一つ一つもイエス様と一緒です。悪く見える状況も祝福への通過点です。信頼しましょう。僕らは祝福を受け継ぎ、祝福を与えるために呼ばれ、任命されました。今日も主の祝福を運ぶ器として悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えましょう。(1ペテロ3.9)主の言葉は実現します。ハレルヤ!



2023年4月10日月曜日

マルコ16.9-20メッセージ

 マルコ16.9-20メッセージ 

生きておられる

イエス様からの力といのち


●イントロ。復活を信じることは希望。


サルーキー 復活進行


復活 それは一度ダメでも二度目があると言うこと

復活 それはダメなように見えてもその先があると言うこと

患難が忍耐を生み出し

忍耐が強い心を生み出し

その人は希望に出会うことができるだろう



反対に、イエス様がお叱りになるのは、復活を信じないことです。


10,マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。

11,彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。


13,その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。


14,その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。


復活は希望です。一度ダメでも2度目があること。ダメなように見えてその先があること。行き止まりでもその先があるということ。挫折を味わって、そこから起き上がること。復活を信じることは希望です。


今日のメッセージみなさんががっかりしていることの向こうにある回復、挫折や悲しみの向こうにある喜びを示すものでありますように。もしも、その悲しみや苦しみがみなさんの頑固さとか、イエス様を信じない不信仰から来るものなら、今日のメッセージの中でそれも示してくださいますように。



復活されたイエス様が今私たちと一緒にいてくださることが、机上の空論ではなく、絵に描いた餅ではなく、確かなこととされますように。


20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕


ーーーーーー


まず、9節からは( )がついていて、9節の欄外注を読む。


コピーのない時代に、聖書は手書きで写して生きました。今残っている新約の写本は1万以上。ある写本には書いてある。でもそれが信頼できるかどうかわからない。重要な写本には欠けている。書かれてる写本もある。どっちが原文に近い?という問題があります。


マルコが書いた原本はない。どれが原本に近いかはわからないけど、これはマルコ本人は書いていない可能性がある。

まず、マルコが普段使わない単語や文体が多い。また、重複している情報も多いので、マルコ以外の人が後から補足説明として書いた可能性は大きい。そしたら神様のみことば、正典とは言えない。参考書として読む。


でも、同じ内容が他の福音書にも同じことが書かれていたら、それは事実。でも、他の福音書にないのなら、あくまで参考書として読む。

その姿勢でメッセージをします。つまり、他の福音書との整合性の中で読む、ということです。なので、この箇所を参考にしつつ、いろんな箇所からイエス様が語ってくださるように願っています。


●信じない人の悲しみ


 10節にイエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行ったと書いてあります。


人が死ぬと悲しいです。イエス様、生きているからこそ、素晴らしいことを教えてくださったし、たくさんの奇跡をしてくださったイエス様についていった。でももう死んでしまったんだから、全てが終わったんだと言う絶望です。死は全ての終わりだと思います。


マリアもそう思いました。マリアはイエス様に人生を変えてもらった人です。


9,〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。


悪霊にとりつかれるとは、自分の人格を乗っ取られ、完全にコントロールされた状態。

悪霊に操られた人。しかも、7つ。完全数。もう自分なのに自分ではない。やりたくないことをやってきた女。このマリヤも苦しんだ人。イエス様によって解放され、本来の自分に戻った人。本当に感謝してもしきれないです。


もう、あの悪霊の世界には戻りたくない。このイエス様一緒にいれば大丈夫、悪霊よりも強い方、思ってずっとついてきた。エルサレムにきたらイエス様はホサナ、と歓迎された。私のイエス様は素晴らしい、こんなに歓迎されている、と思ったら雲行きが怪しくなって、殺せ殺せ、に変わってしまった。悪霊よりも強いイエス様ならきっと解放される、イエス様なら、きっとこの拷問からも脱出する。私はイエス様を信じる、と思ってここまでついてきた。期待していた。イエス様ならあ自分を殺そうとしている敵をやっつける、と思っていたけど、エルサレムにきて見たら、あれよあれよと言う間に死刑が確定し、すぐに十字架を担がされ、死刑場に行って、本当に死んでしまった。


自分を救ってくれた大事な人が目の前で死んでしまった、という衝撃。突然、取り去られた、しかも、葬儀もしていない状況。遺体もまだちゃんと処理していない。あの傷だらけの鞭で皮膚がめくれている、釘で手足が咲かれ、脇腹から槍で刺され血得る。顔も鞭で損なわれている、その遺体をせめてちゃんと、ユダヤのしきたりに沿って処理したかった。マリアは泣きながら準備をしました。


1,さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

2,そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。


ところが、墓の大きな石の蓋は空いていて、遺体がなくなっていました。

そこで、マリアはイエス様と会います。そのであった様子は、ヨハネの福音書が詳しいので、ヨハネの福音書24章15節を一緒に読みたいと思います。


ヨハネ 20:15-18

15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

16,イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。

(…中略…)18,マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。


信じない人は悲しむ。マリアも最初は泣いていました。最初、イエス様はなぜ泣いているのですか?と聞きます。

当たり前ですが、答えはイエス様が死んでしまったからです。


そして主イエスはさらに核心を突く問いを語っておられます。「だれを捜しているのか」。

マリヤはイエス様を探しているのは当然です。前後しますが、御使いもマリヤに同じ質問をします。


ルカ 24:5

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。


イエス様も、「だれを捜しているのか」

それは、あなたは墓の中に置かれている遺体をなぜ探すのか?私は生きている、あなたは捜すべきものを間違えている、ということです。マリヤは自分と話しているのがイエス様だとわかって、急いで弟子たちに知らせに行きました。ところが、弟子たちは信じません。


10,マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。

11,彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。


ルカ 24:11

ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。


使徒たちはたわごと、と言いました。馬鹿馬鹿しい話、ふざけた話、と言う意味です。

復活は起こらない。死んだ人は蘇らない、もう無理だ、と言う決めつけです。決めつけは悲しみをうみます。

病気の人の癒しも、一緒にいてくださったことも、数々の奇跡も、イエス様が生きていた時だけの話であって、今もう死んでしまったら、何もかも思って終わってしまったんだというのが弟子たちの悲しみですです



私たちの信仰の根本に関わる大事なことが示されています。教会によってはイエス様の十字架で苦しむキリスト像が礼拝室にあります。

あの苦しむキリスト像は十字架の苦しみを思いださせてくれて、すごく良いと思うし、そのような受難の姿を絵にしたり映画にしたりすることは2000年のキリスト教会の歴史の中で用いられてきました。でも、それだけで福音の半分です。福音とは復活です。あの苦しむ姿のまま固まっているキリストでは終わらない。苦しんでいるキリストの十字架の姿だけで終わるなら、聖書がいうように「なぜ生きている方を死人の中で探すのですか?」と言われます。


なぜ、もう動けなくなって固まってしまったように、墓の中に置かれている主イエスを捜し求めるのですか?


苦しみと犠牲の死で終わったイエス様だけを探すなら、僕らの信仰も命も固まります。でも、復活して生きている方を求めるなら、僕らの命も生きかえります。どんなに苦しいことがあっても、行き止まりがあっても、僕らが求め、交わっているイエス様は死んで復活された、今生きているしかも、全ての権威を持っているイエス様です。


みなさんの信仰は過去のイエス様でしょうか。

2000年前に終わってしまった死んでしまったイエス様への信仰か?死んだ人の教えにしがみついているのか?

それとも、2023年の今、生きていて、力をもち、命を持っている方と交わっている信仰か?


復活を信じないのは不信仰でガンコす。イエス様はそれを責めます。


14,その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。


彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。

どうして、信じないのか、こんなに証言しているのに。


諦めて、もう終わった、と思っているいることをお叱りになった。責めた。

もしも、僕らも、こうなったら終わりだ、と決めつけているならまさに、不信仰と頑なな心です。 


イエス様は生きています、終わりはないし、絶望はない、どんなに終わったかに見えても、死んでも復活する、と言うのが福音です。

この地上の人生で願った通りにならなくても、苦しんで死んで行くだけでも、それでも復活があります。復活はイエス様だけではなく、信じる人全てが経験することです。


1コリント 15:20

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。


サルーキーの言う通りです。

復活 それは一度ダメでも二度目があると言うこと

復活 それはダメなように見えてもその先があると言うこと


復活は希望。ダメでも2度目があること。終わったように見えてその先があること。行き止まりでもその先があるということ。挫折を味わって、そこから起き上がること。挫折や悲しみの向こうにある喜び、死の向こうにある喜びを示すものが復活を信じることです。



●信じる人の力といのち



その文脈つまり、イエスが生きている、私が生きている、私が一緒だ、と言う流れの中で宣教を命令します。


15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。


この福音を伝える、と言うのが具体的には復活を伝える、と言うことす。

使徒の働きを読むと、イエス様は生きている、復活して生きている、この方こそ救い主で、この方以外には救いはありません、と伝えています。


16,信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。


救いの条件がバプテスマ、に読めます。でも、聖書全体は信じる、ということが義認。救い。

そしてバプテスマはとは、一体になる、浸される、という意味。生きているイエス様と浸されるのがバプテスマです。これはイエス様が死んで復活して今も生きている、その生きているイエス様と繋がることです。


バプテスマを受けた人は、もう一人ではない。生きているイエス様が、世界の王が一緒にいてくださる。その人と繋がって伝える。


死んで、固まってしまった人と繋がるのでなく生きている人とです。死より上の方です、罪より上の方です。全てを支配する方です。この方が生きています。信じる人は救われます、というのが福音。

今まで絶対無理だ、と思っていたことが破られたのが復活です。誰もが諦める場面で諦めないのが復活です。もう自分の人生は終わった、こうなったら終わりだ、どうせ神様から呪われているんだ、と言うところが回復して救い出してくださるのが復活です。


15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。


こうなったらおしまいだ、という僕らの台本を上回る素晴らしい福音を伝えなさい。どんな罪も赦される、と言う福音を伝えなさい。

死んだらおしまいだ、という考えよりも上を行く、罪を冒したら罰が当たるんだ、神に裁かれるんだ、という話の上を行くイエス様が来られた、十字架で処刑を受け、しかも、今生きて僕らを招いておられる。本当に今生きている。イエス様が生きておられるしるしが有ります。


17,信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、

18,その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」


イエス様にはできます。わざわざ毒を飲む必要ないし、蛇を掴む必要はない。これは教理ではない。こうしなさい、ということではなく、生きておられるイエス様は本当に新しい御霊の言葉を与えてくださるし、イエス様が悪霊を追い出してくださるの事実。イエス様は病人を癒してくださるのは事実だし、その実例は使徒の働きにたくさんあります。僕らも祈ります。これが、生きておられるイエス様とバプテスマされ繋がった僕らの祈りです。だから、僕らも祈ります。癒されるように、悪霊から解放されるように。生きておられるイエス様の名で祈ります。繋がって祈る。


古典を学んでありがたくなっているのではなく、今、生きている方との交わりをするのがクリスチャンです。もしも、僕らの信仰が死んだ人の教えなら、意味がない。


・福音を伝えるのはイエス様と一緒。


15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。


弟子たちは生きているイエス様と一緒にこの福音を伝えたし、今僕らがしていることも同じです。僕が今話していますが、生きておられるイエス様が一緒に働いてくださり、語ってくださっています。


20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕


一番最初にイエス様が生きている、と言う福音を託されたのはだれ?男の弟子たちではなく、イエス様が生きてる、って最初に伝え始めたのは、女性であるマグダラのマリアです。

この当時、女性は証人とされなかった。法廷で女性は証言はできななかった時代です。。しかも、このマリヤ、「よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。」とあります。9

女性だ、と言うことだけで証言が採用されないのに、昔、おかしくなってた女性です。イエス様が生きていると言っても、またおかしくなったのか?と思われたかもしれません。「使徒たちにはこの話はたわごとと思われた」とルカの福音書にあります。


イエス様は一番はじめに、一番社会的信用がない、人が話を聞いてくれなさそうな人を選んで復活したことをまずは弟子たちに伝えるように任されました。


イエス様はいつも僕ら人間に大事な情報を任される方です。素質があるか、信用があるか、ふさわしいかどうか、関係なく、神様が選んだ人には、神様が一緒にいて、力を与え、命を与え、その役目をさせてくださいます。今、僕が話しているのも、イエス様の力、命です。僕ではないです。


20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕


いつも祝祷で祈る聖書の箇所は、神様の願いです。


エペソ 1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。


イエス様は生きています。皆さんは誰を探していますか?死んでしまった、固まってしまったイエス様ですか?それとも今、生きて、力があるイエス様ですか?どんなことがあってもなくならない希望を与えてくださるイエス様です。

イエス様は今、生きています。生きておられるイエス様が僕らに言葉を与え、力を与えます。生きているイエス様が命と希望を与えます。生きているイエス様が愛を与えます。イエス様が信仰を与えます。イエス様が賛美を与えます。イエス様が全てです。


復活を信じることは希望。こうなったら終わりだ、もうダメだ、ということはありません。


復活 それは一度ダメでも二度目があると言うこと

復活 それはダメなように見えてもその先があると言うこと


考えてみましょう。


諦めていること、こうなったら終わりだと決めつけていることはありますか?

今日、イエス様があなたになんと語りかけておられるか考えて見ましょう。






詩篇16篇

 詩篇16篇


モノやお金で安心したい人、仕事や結果を出すことで安心したい人、食べることでホッとする人、人から認められ愛されることで安心したい人、神様を知らなければ僕らはみんな何かで満たされたいと思います。でも、それは一時的です。神様と交わり、神様を愛し、神様のことばを聞くことには、この世にはない喜びと楽しみと安心があります。しかも、それは永遠です。



(1-2)

1,神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

2,私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」



「幸い」は原文では「良いもの」ということです。良いものは全部神様からです。これを書いたダビデはいつも人から妬まれ嫌がらせを受けていました。サウルはダビデを殺そうとし、その後息子アブサロムが反逆します。この世の苦しみの中で、彼はいつも神様との交わりを喜んでいました。神様はちょうど良いものを与えてくださいます。「割り当て」とは、タダで与えられる相続財産とかお金とか土地のことです。神様ご自身が僕らに素晴らしいものを永遠に与えてくださっています。しかも、日々助言をくださり、聖霊によって語りかけてくださっています。彼は「実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。」と言います。(7)



(5-7)

5,主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

6,割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。

7,私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。



僕らに何か良いものがあったとしても、それは何も自慢することができません。それら全部が神様からのプレゼントだからです。

自分が頑張った、とか、自分がこうしたから、自分がこうだったから、という幸せは不安定で、喜んだり恐れたりを繰り返します。でも、神様がいつも一緒にいてくださることは、揺るぎない喜びです。



(8-9)

8,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。



ダビデも苦しみの連続でしたが、イエス様は最悪でした。でも、イエス様は知っておられました。死んで捨てられても、それで終わることはありません。復活があります。イエス様はこの詩篇の通りに復活しました。この詩篇16篇に書いてある通りだった!ということを使徒ペテロがあとでメッセージしています。(使徒の働き2章)


(10-11)

10,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。



今日も用事があります。対応しなければならないことが山ほどあると思います。でも、一旦脇において、一旦放っておいて神様のとの交わりに時間を費やしましょう。そこには永遠の喜びと幸いと平安があります。「満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」ハレルヤ!

2023年4月6日木曜日

マルコ15.16-32

 マルコ15.16-32


イエス様は正しい人のために死んでくださったのではありません。自分を冒涜し笑う人たちのために祈り、死んでくださいました。書はイエス様の十字架の肉体的な痛みをあまり書いていません。それよりも、人々がバカにし、笑うことを強調して書いています。当時のムチ打ちの刑は全身の皮膚が裂け、顔も血だらけになり、場合によっては骨も露出してしまうほどだそうです。血だらけのイエス様を軍隊の前に立たせ、恥ずかしいユダヤ人の王様として見せものにして喜びます。これは聖書の実現でした。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」と預言された通りになります。(イザヤ50.6)総督ピラトはわざわざ600人の全部隊の兵士を集めて苦しむイエス様で遊びます。王様っぽいパロディを楽しむためです。



(16-19)

16,兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。

17,そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、

18,それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。

19,また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。



王冠に見立てたイバラの冠で、そのトゲが頭皮に刺さって苦しむのを楽しむように、彼らは棒で頭を叩き続けます。そして唾を吐くことは究極の冒涜です。そして、王様のようにひざまづきます。イエス様はそのように冒涜され笑われた後で、「普通の犯罪人」の一人として殺されます。「彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。」(27)とあります。罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いて十字架につけました。(26)これは、こいつは自称ユダヤ人の王だけど、とるに足りない惨めな普通の犯罪者、強盗と何も変わらないただの罪人、とアピールするかのようです。実はこの全てが聖書の実現でした。「彼は…背いた者たちとともに数えられた」と言われた通りになります。(イザヤ53.12)字架につけられた後も嘲笑は続きます。惨めで恥ずかしいイエス様の姿に律法学者や祭司長たちも、通りがかかりの人たちも大喜びです。



(20-32)

29,通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。

30,十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

31,同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。

32,キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。



主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。(…中略…)在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」と聖書は言います(レビ24.16)。彼らは神の子であるイエス様を冒涜し、苦しめ、笑い続けました。十字架に釘で刺して吊るした後でも「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」「今、十字架から降りてもらおう。」と笑います。イエス様は十字架から降りることもできたし、即座にこの人たちを殺すことができました。でも、これが神様の憐れみのご計画でした。「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ53.12)と預言されていた通りです。イエス様は苦しみながら祈ります。父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23.34)


イエス様は正しい人のために死んでくださったのではありません。良い人、親切な人のために犠牲になってくださったのではありません。自分を冒涜する人たちのために祈り、死んでくださいました。「リストは…不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ5.6)ここに愛があります。イエス様の肉体的な痛みより、人々がイエス様を笑い冒涜する姿を聖書は強調して伝えています。それは、そのような冒涜者たちを愛し赦してくださる神様の憐れみを伝えるためです。神様の愛は大きすぎます。神様の愛の対象外の人はいません。大きすぎます。もう一度感謝しましょう。全ての人がこの福音を知り、赦され、救われ、裁かれますように。

マルコ15.1-15

 マルコ15.1-15


覚せい剤がいつの間にか自分を縛り抜け出せなくするように、罪はそれが心の中だけであっても自分を縛ってしまいます。祭司長たちはイエス様を妬み、憎み殺したいと思っていました。彼らの行動は妬みと怒りに支配されています。外側では正しいことを言い、正当な手続きに見えることをしますが、内側は妬みと怒りの奴隷です。罪にコントロールされると全てが制御できなくなってしまいます。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8.34)


祭司長たちや長老たちからなるユダヤの最高法院はカタチばかりの手続きを経てイエス様をローマ総督ピラトの所に送って死刑を要求します。 「夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。」(1)「そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。」(3)多くの罪状はうわべであって本音は妬みに縛られての行動でした。ピラトはそれを知っていました。「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。」(10)妬みと怒りにコントロールされた彼らはあらゆる手を尽くしてイエス様を殺そうとします。イエス様を支持し慕う群衆たちを扇動し、説得して十字架で殺すようにピラトに要求させます。



(11-14)

11,しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。

12,そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」

13,すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」

14,ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」



ピラトはイエスが本当は無罪だと知っていました。彼の妻もピラトに「あの正しい人にかかわらないでください」と言っています。(マタイ27.19)それでも、罪はピラトをも奴隷にし支配します。ピラトは群衆の圧力に屈服し、真実を捨てます。



(14-15)

14,ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」

15,それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。



この背後には群衆によるピラトへの脅しがありました。「もしイエスを釈放するならあなたはローマ総督カイザルの味方ではない」という脅しです。(ヨハネ19.12)ピラトは真実よりも自己保身を取りました。罪は人を縛ります。彼は真実よりも群衆を満足させ、イエスを殺すことにしました。罪が支配する世界は全てが人の自己保身、虚栄、パワーバランスで動きます。


今日も罪は僕らを縛ろうとします。ところがイエス様はこの罪の呪縛を解いてくださいました。もう自分の内側の罪に縛られる必要も、人の顔色や圧力で動く必要はありません。イエス様を信じ受け入れた人は自由を得ています。聖霊は僕らを自由にし、イエス様の言葉は僕らを自由にします。



(ヨハネ 8:31-32)

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」


(ヨハネ 8:36)

「もし子(イエス様)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」


(2コリント3:17)

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。


(ガラテヤ5:1)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。


(ガラテヤ5:13)

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。



今日も僕らはイエス様のしもべです。しかも、それは自由です!もう人の圧力にも自分の罪にも縛られる必要はありません。イエス様と一緒なら全てが自由です。ハレルヤ!

マルコ14.53-72

 マルコ14.53-72


イエス様を信じ告白することは、キリストのための苦しみも共有することです。(ピリピ1.29)これは聖霊によらなければありえない選択です。みんな自己保身、マウントを取ること、上に行くこと、傷つかないことばかりを優先します。イエス様に従うと殺されるとか、迫害される時代とか状況ではなおさらです。イエス様を告白することは自分の力ではできません。「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(1コリント12.3)と聖書はいいます。この世はイエス様を憎みます。この世の権力者である悪魔は今も昔も働いています。悪魔は空中の権威を持つ支配者です。(エペソ2.2)僕らは迫害されるのがイヤなので、告白することも従うことも躊躇します。悪魔はこの世のあらゆる状況を使ってイエス様を殺し、イエス様に従う人たちを脅し、苦しめ、従わないようにさせます。当時の宗教的な権力者たちはイエス様を死刑にするための裁判をしました。最初から結論は決まっています。死刑です。悪魔は宗教指導者を使ってイエス様を殺します。



(55-64)

55,さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。

56,多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。

57,すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。

58,「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」

59,しかし、この点でも、証言は一致しなかった。

60,そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。

61,しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」

62,そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

63,すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。

64,あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。



悪魔はイエス様を憎みます。そして、僕らの中にも罪があり、それはイエス様よりも自分を上にしたがります。イエス様が死刑確定になった瞬間、兵士も役人もここぞとばかりにイエス様を愚弄します。「そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。」(65)ペテロはイエス様の苦しみを目の当たりにしました。その苦しみが次は自分にも降りかかると思うと弟子であることを隠すしかありませんでした。自分はイエスの仲間ではないと三度嘘を付き、断言し、誓います。何の準備もできていないペテロはそうすることしかできませんでした。



(66-72)

66,ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。

67,ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」

68,ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。

69,召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」

70,すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」

71,するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。

72,するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。



イエス様を信じ告白することは、キリストのための苦しみも共有することです。(ピリピ1.29)これは聖霊によらなければありえない選択です。ところが、イエス様の聖霊を受けた人は変えられます。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ 8:35)イエス様は苦しみで終わった方ではありません。復活し、神の右の座につき、すでに全ての権威と栄光をお持ちです。そして、僕らも「天の雲とともに来るのを見ることになります。」(62-63)やがて全ての敵は一掃されます。

今日も目先の自己保身でも損得でもなく、苦しみを通って栄光の座に就かれた王であるイエス様を見上げ、信頼し、告白し、賛美し、従う日でありますように。

2023年4月3日月曜日

マルコ14.43-52

 マルコ14.43-52


僕らが苦しむのは「こうなりたい」「こうならなければならない」と思うからです。自分の計画、計算を握りしめるときには予想外のことは全て苦しみでありストレスです。僕らの最大の戦いはそのような自分の計画やこだわりを手放して、神様のことばを信頼し、神様に全て明け渡すことです。イエス様もこの戦いを経験されました。裏切られ、罪人とされ、全ての人の罪を背負って神に呪われる人となることは、神様のご計画の通りだったし、聖書のことばの実現でした。でも、イエス様でさえも、そのご計画に身をささげることは葛藤があり苦しみがありました。



(35-36)

それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。

そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」



イエス様はこの祈りの中での戦いに勝利します。勝利とは「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

と心から祈ることができた、という勝利です。祈りの中で自分を完全に明け渡した後のイエス様は裏切られても逮捕されても拷問を受けても堂々としています。



(43-46)

そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。

イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。

ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。

人々は、イエスに手をかけて捕らえた。



愛する弟子が裏切り、しかも、熱い口づけで裏切ります。祭司長たちも律法学者たちもユダも「自分の思い通り」のための行動です。ユダの口づけも思い通りにイエスを逮捕させ殺すための口づけです。心と行動が真逆です。ウラとオモテが違いすぎます。…と僕らはユダを非難しますが、僕らも「愛っぽい行動」「親切な言動」が実は「自分の思い通り」のためのものであることはよくある話です。僕も人と表面的にうまくいくために親切っぽいことをよく言います。ところが聖書の教えは違います。「憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」(箴言27:6


イエス様を逮捕しにきた祭司長たちも律法学者たちは、心では憎んでいましたが、普段は群衆を恐れて手出ししませんでした。彼らの行動はいつも自己保身、自分の栄光です。弟子たちも同じく、イエス様が逮捕されるとすぐにイエス様を見捨てて逃げていきます。危機的な時に僕らの本性が出ます。全ての人の行動全ては自己保身のため、と言っても過言ではありません。


ところが、イエス様にとっては違います。人の醜さ、罪、傲慢さ、憎悪、全てを引き受けてイエス様が罪人代表となり、人にも神にも呪われて捨てられていくのが神様のご計画でありイエス様の使命でした。「こうなったのは聖書が成就するためです。」とイエス様は言われます。イエス様は全部を神様のご計画にお委ねし、身を任せておられます。自分を捨てて主にささげ切ったイエス様は堂々としておられます。



(48-50)

イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。

わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。



僕らが自己中心、自己保身のために動くときには弱く、怖く、不安です。愛っぽい行動も自己保身や自己実現の虚しいものです。でも、自分を捨てて、神様のご計画や神様の教えに委ねていくときに僕らは力といのちを得ます。イエス様がお手本です。「こうなったのは聖書が成就するためです。」今日も祈りましょう。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」僕らの自己保身や自己実現よりも、神様がお望みになることの方が良いし高いし素晴らしいに決まってます。主のみ心がなりますように。ハレルヤ!

マルコ14.32-42メッセージ

 ●聖書 マルコ14.32-42

●題 祈りこそが戦場 


●今日のメッセージの概要


イエス様の地上の生涯は33年間。地上にこられた目的は、最初から死ぬためです。

しかも、全人類の罪を背負って身代わりに殺されるためです。イエス様は人には見えない心の中を見る方でした。心の中がどんなに悲しいか、どんなに痛みに満ちたものであるかを知っておられた。しかも、悲しみや痛みは人間の罪とセットです。


遠くから知ってるよ、というのでなく、自分の痛みそのものとして、自分の悲しみそのものとして共有してくださいました。痛み苦しむ当事者となり、しかも、その原因の罪も、まるで自分に原因があるかのように背負ってくださいました。当事者となって神に捨てられました。


さて、今日の箇所の苦しみと悲しみは、33年の人生の中で最大です。叩かれているわけでないに、刺されているわけでないのに、その時の悲しみ苦しみは死ぬほどです。拷問を受けるよりも、十字架で貼り付けになるよりも、苦しかったのが今日のイエス様の姿です。聖書によると、あまりの厳しさに、彼は大声でうめき、泣き、涙を流したとあります。実際に血の汗を流されたほどです。


マタイ、マルコ、ルカも、ヨハネもこれを記述している。イエス様の祈りの中でのこの苦しみは、人間の理解を超えています。誰も経験できないものです。簡単にどうこう言えない神聖な戦いです

この祈りはイエス様の最大の戦いでした。それを僕らは表面的にしか理解できません。今日、メッセージをします。でも、このメッセージよりもずっとずっと深い、深刻な、そして霊的な、聖なる戦いです。


礼拝メッセージをし、今集まって聖書を一緒に読む理由は一緒に神様の栄光をほめ、神様の偉大さを知り、イエス様と深く交わるためです。ですが、その悲しみの深さや大きさを僕らは理解することはできません。大きすぎます。拷問よりも悲しく苦しい、というこの苦しみはイエス様だけが特別に与えられたもので、イエス様の生涯の頂点です。それでもこの聖書を通して神様が僕らに語り、教えてくださいますように。そう信じて祈ります。


そして、この霊的な戦いを終えた後、つまりこの祈りの後は、イエス様は唾をかけられても、鞭で打たれても、勝利していて、もう嘆くことなく黙っています。確信を持って、堂々と十字架に向かっています。


今までも何度もサタンの誘惑は受けました。いつもいつもサタンの攻撃はイエス様が苦しまなくていいように、十字架で殺されなくていいようにしよう、という提案です。例えば、少し前、8章ではペテロを使ってサタンがイエス様を誘惑します。

その時にペテロはそんなことはありません。そんなことがあってはなりません。と言います。


(8:32-33)

32するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

33,しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」


いつも悪魔はイエス様が十字架に向かわないように仕向けます。

この夜の戦いも、十字架につかなくていい、私にはできない、したくない、しなくていい、という戦い。

ルカによる福音書22章53節に、「今はあなた方の時、闇の力です」


これは、イエスを十字架から引き離すためのサタンの最後の努力です。サタンの願いは、イエス様が父なる神に 「いや、私にはできない」「やめます。犠牲にはなりたくないです。降ります」と言うように仕向けることです。イエス様には選ぶことができます。イエス様が私にはできません。十字架はやめます。と言うことも選ぶこともできます。


もしも悪魔が成功し、イエス様が私にはできません。十字架はやめます。と言ったなら、神の怒りから救われる人間は誰もいなくなります。罪が赦される人は誰もおらず、全ての人は滅びに向かいます。告発者である、悪魔が世界中の人々をさばき、人々は互いに攻撃し、殺し合い、裁き合い、誰もゆるす人も、愛する人もいません。赦してくださる救い主もいません。回復させてくださる救い主もいません。無罪と宣言してくれるイエス様はいなくなります。それを見て悪魔が笑います。天国には誰も入れず、全ての人は永遠に苦しみ続けます。


これは僕らの想像を超えた、神の子イエス様だけがすることのできる霊的な大きな大きな戦いです。



●イエス様の最大の戦いと勝利


(33)

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、


「するとイエスは、ひどく肝を つぶして、悩み始めた。」岩波 

(急に)おびえ出し、おののきながら 塚本


英語の訳では驚き、とか恐怖に打たれ、が多い。「何がイエス様を驚かせるのだろう」と思います。イエス様は全知全能であり、すべてを知っている。イエス様は知らないことがあるのか?今まで、裏切りも、苦しみも、十字架も何度も予告してきたのに。


イエス様がこの夜、今まで全く経験したことをそれをしようとしているのです。

イエス様がこれまでのこととはまったく異質なものだからです。


イエス様が驚き恐怖に打たれたのは何か?もちろんこれから起こる全ては悲しみです。

ユダの裏切り?まもなく11人が逃げてしまうこと?じゃあ、午前中に行われる不当な裁判か?あざけりだったのか?唾を吐かれたことだろうか?顔を殴られたこと?鞭打たれたことだろうか?十字架につけられたこと?死ぬことなのか?全ては悲しみです。それでも、それ以上のことがここにあります。このような驚くべき苦悩の感情を引き起こしたものは何だったのだろうか。


捕らえている苦悩に満ちた驚嘆は、それを超えるものなのです。イエス様にとって一番したくない、できない、この苦しい杯を過ぎ去らせてください、と思うことは、罪を持って神様から呪われることです。それが一番イエス様が嫌いなこと、したくないことです。


「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」


私たちは罪に慣れています。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢に慣れていて、罪に対して完璧な憎しみを抱くことはできません。クリスチャンになってからも罪を好む自分がいます。罪を完璧に嫌い、罪を完全に退けることはない。でも、イエス様は完全です。イエス様の存在のすべてが、全身全霊で罪を嫌うのです。イエス様は全力で悪に反発していたのです。イエス様は聖なる聖なる聖なる神様です。


罪人になる、という体験がないし、一番罪から遠い存在だし、一番、罪を嫌う方です。

その聖なる聖なる聖なる神の子が、罪を最大に嫌うイエス様が、罪を持つ人となり、罪人代表となり、神の怒りを受けるのです。何百万人、何億人という罪人のために、100万回の神の怒りを引き受けるのです。


一番嫌っていたことは罪です。罪から完全に分離していた神です。一番それを自分が引き受けます。だからこそ、その恐怖とおののき、葛藤、嫌悪感は計り知れないものがありました。


(ルカ22:44)

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。


血の滴るような汗をかき始めたという。巨大なストレスがかかると、毛細血管が拡張し、膨張し、爆発して、汗腺から血が出てくるという医師もいるそうです。いずれにしても、これが人間として、そして体がその苦しみの最大の反応をしていました。もしかすると服が血だらけになっていたかもしれません。


(35-36)

それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。

そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」



主は、「アバ」と言いました。親しみを込めた言い方です。その親密な愛が自分を救ってくれることを懇願するかのように、愛情深い、親密な、神の個人名を呼びました。主は、「あなたには、すべてのことが可能です」と言います。何でもできるはずです。あなたにはすべてのことが可能です、この杯を私から取り除いてください」


神様はできます。愛する一人子が罪人代表となることをやめる、やめさせることはできます。この呪いを、アバから引き離され、見捨てられる、という一番自分がしたくないことを避けることはできます。でも、もしイエス様は父から呪われ罪を背負って死ななければ、私たちは誰も救われません。全員が地獄行きです。


イエス様がやりたくないことは、絶対にやってはいけない、といつも言っていることを自分がやることです。罪から離れ、聖く純粋である神の子が、汚れた罪人として神に呪われ捨てられることです。自分の性格とは一番違うことです。聖なる神の子が呪われた人間になることです。愛される息子が、捨てられ呪われる罪人となることです。これはイエス様のきよく美しいご性質と違いすぎます。



●勝利の決意と祈り


(36)

しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」


今まで何度もそう教えてきました。主の祈りでも、そう教えてきました。みこころがなるように、私の思いではなく、主の思いがなるように。でも、これはそんなに簡単なことではありませんでした。彼は6秒間でそれを言ったわけではありません。6秒で言ったわけではなく、何時間もかけて苦しまぎれに繰り返されたのです。この時、イエス様は自分を捨てて死なれました。


自分を捨てて服従することは勝利です。この3回、主の前に行って、祈ってます。3回とも父なる神の御心に屈服しています。これが最終的な勝利です。最後の悪魔の誘惑に勝ちました。終わったのです。イエス様は、このあと堂々と、躊躇することなく、神様が決めたことを行うことを決意し、十字架にかかられるのです。


3回目が終わるとイエス様は全然違います。


(41)

41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。

42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」



しかし、42節で「立ちなさい。さあ、行こう。」この時イエス様はもう震えてはいない。血の汗を流し、血まみれだが、戦いは終わり、勝利しています。ヨハネ18章3節には、ユダが「ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たち」が群衆、剣、棍棒を持ってきている様子が描かれています 一隊の兵士とは600人だったと言われています。まるで戦争のように兵士たちがきました。

イエスは逆らわず、彼らに立ち向かわれた。ヨハネ18章によれば、イエスは彼らにこう言われた、「誰を捜しているのか」と。


(ヨハネ 18:6)

6,イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。


イエスは「わたしはそれである」と言われた。そして、彼らは皆、地面に倒れた。全員。何百人もの兵士がきていた。イエス様が "わたしはそれである "と言ったときの声によって、地面に倒れます。


イエス様は二度それを言った。彼は勝利者で堂々としている。もう勝っています。神の御心がなります。神様のご計画とイエス様が祈りの中で一つになりました。

すでに勝利して裏切り者に向かい、ユダヤ教の宗教的な敵、ローマ兵、その他すべての群衆に向かい合うのです。


私たちは主が勇敢にに直面しているのを見ますが、でも、本当の本当の戦いは前日の夜のここゲッセマネの祈りでした。

逮捕されるときにはイエス様とても強く勇敢だった理由は、すでに勝利を収めていたからです。すでに自分を手放し、完全に明け渡していたからです。手放すいいのりこそが本当の戦場です。そして自分を捨てることが本当の勝利です。



―――――――


●弟子たちの敗北。祈りの大切さ


(32)

さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」



この時は過越の祭りと言って、国中からエルサレムに人々がきていて、ごった返しています。その人混みから逃れる場所がゲッセマネ。

彼らが離れて一緒に時間を過ごすことができる、そして、神様とゆっくりと祈りの交わりをするプライベートな場所


(ルカ 22:39-40)

それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。


ルカによる福音書(ルカ22:40)によると、弟子にこう言っています。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

イエス様は彼らが あんな男は知らない、と否定することはわかっています。弟子たちも今誘惑にあっていることを知っていまいsた。弟子たちがつまづいて逃げて行くのはわかっています。それでも、いのりなさい、と言います。

まずはイエス様が祈ってくださっています。つまづくのは知ってる。だけど、祈りなさい、とおっしゃいます。何度も言われます。少なくても3回は言われています。


(37-38)イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」



まずはイエス様が私たちの大祭司として祈ってくれています。先にイエス様は祈ってくれています。私たちの信仰が破綻しないように祈ってくれています「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言ってくださっています。(ルカ22.32)私たちには執り成す大祭司イエス様がいます。イエス様のとりなしの祈りによって私たちは完全な失敗から守られています。

それでも、あなたは祈りなさい、と言われます。主の祈りで、『私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」と祈りなさい。と。誘惑や悪に打ち勝つためには、祈ることが必要であることを教えられたのです。自分は大丈夫と言わないで、自分の力に頼らず、主を呼びなさい。


僕らも祈らなければ、負けてしまうのです。弟子たちはこれから、裏切り、逮捕、拷問、処刑、最も危険な瞬間がきます。そして弟子たちは祈ってもいなくて、弱く、無防備で、逃げることしかできませんでした。弟子たちはこの危険なときに、祈るべきだったのです。彼らは1時間も祈れませんでした。


(33)

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、


ヤコブとヨハネは、母親と一緒にイエスのところに来て、"あなたの右手と左手に座ってもいいですか?"と言った人たちです。彼らは、自分たちが第一人者だという意識を持っていたのです。ペテロは、自分でも認めるリーダーだったです。この3人が主要なリーダーです


この人たちは立ち直った後、他の人たちに影響を与える人たちです。だから、彼らはこの夜は弱さを学ぶ必要があるのです。

誘惑に打ち勝つために祈ることがいかに大切かを、祈らずに誘惑に負けてしまうことで学ぶことになったのです。彼らはこれから失敗します。この失敗によって学ぼうとしていたのです。


自分たちの弱さ惨めさを露呈させるために、3人を連れて行きました。


(37-40)

37,イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。

38,誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

39,イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

40,そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。


なぜなら、彼らは自信満々で、自分はイエス様の右と左に座るべきだといい、ペテロは自分は死んでも裏切りません、と思っていました。そこで、主は彼らを祈りの中に連れて行かれた。そして、彼らは祈れず、祈りの重要性がわからず、眠っていて、そして、イエス様を捨てて逃げてしまう、という自分の弱さを知ることになります。


あの使徒たちも祈りがなければ何もできない弱い人です。イエス様でさえ誘惑に直面して祈る必要がありました。とすれば、私たちはどれほど祈る必要があるのだろうか。


(1ペテロ 5:8)

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。


これは、あの時眠ることしかできなかったペテロ自身が書いています。自分の失敗を思い出して書いていると思います。

彼はあの時悪魔に食い物にされたのです。彼は、祈れず、準備されず、自分の力を過信したために、恥ずかしい敗北を経験しました。失敗しからこそ、彼は言います。目を覚ましていなさい、と。ペテロはイエス様の憐れみによってだけ完全な敗北から回復しました。



●適用。祈りこそ戦場であり勝利の場所


私たちにも適用できます。自分の思いではなく、

あなたの思い通りにしてください、と自分を手放した時に、神様のご計画がなります。本当の戦いは祈りの中で、自分を明け渡す戦いです。

父なる神様にとっては愛するひとり子を手放すことです。イエス様にとっては一番嫌いな罪人となることです。


祈りで勝利が達成されると、あとは、主のご計画がなりました。これは僕らも同じ。私たちの本当の戦いは戦場ではなく祈りの部屋で行われます。口では主の祈りをするけど、本当の本当のことをいうと、神様の御心がなるように、とは思ってなくて、自分の願い通りになるように、と思っている、よくあることです。主のみ国がきますように、と祈るけど、本当は自分が王様で支配者でいたい、ということを手放していない。よくあることです。本心は、自分の計画を押し通そうとすることはよくあることです。


本当に自分を捨てます、明け渡します、この計画を、やりたくないこの状況をあなたに明け渡します、と委ねる祈りです。私の思いではなく、主の御心がなりますように、という勝利です。この祈りさえできれば、どんな状況になっても受け入れます。恥をかいてもいいです。メンツまるつぶれでもいいです。宝を手放し、自分を捨てる祈りです。

明け渡す、自分を丸ごと神様に明け渡す祈りこそが戦場です。そして、明け渡すことは勝利です。


しかし、主は38節で "誘惑に陥らないように見守り、祈り続けなさい "と彼らに警告を与えています。自分の置かれている危険性がわからないのか?注意深く、祈り続けなさい。誘惑に陥らないように導いてください」


彼らが負けるのを知っていました。それでも、祈りなさい、祈り続けなさい、と言います。


(38)

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」


僕らは聖霊を受けています。でも、聖霊はすばらしい願いを持ち燃えているけど、それでも肉は弱いのです。だから、パウロはこう言ったのです。


(ローマ7:21)

私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。


最大の戦いは祈りです。イエスは父に祈っています。神様のご計画に降伏し、自分を明け渡す祈りをしています。一番したくないことを背負う、祈りです。


もし、僕が、そして皆さんが、自分の意志を手放して、神に明け渡すとき、その瞬間にあなたは勝利します。

私たちも、正直に祈リマス。この苦しみを遠ざけてください。何時間もかけて、本気で気持ちを嘘つかない本当の気持ちを祈りましょう。

そして、最後の勝利の祈りはイエス様と同じです。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」


これこそが勝利です。

握りしめてることを手放し、やりたくないことも引き受けます。イエス様がそうしてくださったからです。

イエス様は完全に勝利し、罪を背負い、神に呪われ、人に捨てられます。我が神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか、と叫びます。



イエス様が神様に完全に明け渡したことは勝利でした。そして、復活したイエス様は今、完全な栄光を持ち、私たちを赦し、招いてくださっています。祈りこそ戦場です。明け渡すこと、神様に降参することこそが勝利です。

私たちもイエス様に明け渡しましょう。祈りこそが戦場です。


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考えてみましょう。


神様の願いを知りつつ、避けたいこと、逃げていること、思い通りにしいたこと、手放したくないこと、やめたくないこと、従いたくないことはありますか?