2025年6月11日水曜日

死にたい人へ

 死にたい人へ


あなたが死にたい理由だけど、自分の存在がいらないと思ってるし、誰にも必要とされていると思わないし、自分でも自分が嫌いだし、クズだと思ってるし、たくさんの理由があると思います。生きるのが苦しすぎるのかもしれないです。


僕は聖書が神様からのことばだと信じています。

だから、神様からのメッセージを伝えることができたら、と思っています。

この文を神様が用いてくださいますように


聖書の中には、神様から離れてしまって、自分が愛されていることも、価値があることもわからなくなってしまった人の様子が書かれています。神様から離れると人間らしさを失って獣のようになっちゃいます。どうしても、自分を傷つけ、他人を傷つけ、絶望してしまいます。肉欲のまま、本能のままに傷つけあう姿が聖書に書かれています。


(ローマ人への手紙1章24-31節)

そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。…神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。…男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。…彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。


もしも、幸せな時間があったとしても満足は一時的で、すぐに虚しくなると聖書は言います。


(伝道者の書 1章2~3節)

"空の空。(なんという空しさ)伝道者は言う。空の空。すべては空。

日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。"


どんな快楽も、笑いも、恋愛もくだらないものに見えてしまいます。夢中になってもひとときだけです。生きる意味がわからなくなってしまいます。


(伝道者の書 2章1節)

「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。


人間は本来、神様と一緒に生きるように作られています。だから神様から離れると本能とか欲に振り回されて傷つけられ、相手も傷つけ、自分で自分のことも傷つけ、死ぬことしか見えなくなってしまいます。

「罪」って、「ヤバいこと」というよりも、神様から切り離された状態のことです。神様は愛だし光だし命だし平安そのものだしその源なので、神様から離れると愛も光もいのちも平安もなくなり暗闇の世界に落ちてしまいます。それを聖書は「罪の報酬は死です。」と言います。(ローマ人への手紙 6:23)でも、この続きがあって、「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」つまり、神様につながると、自分らしさとか、人間としての尊さが、愛が、光が、平安がちゃんと戻ってきます。


神様は死んでほしくないとすごく思ってます。その理由が聖書に書いてあります。

もともと人間は神様に愛される存在として作られています。神様はあなたを子どもとして喜び、愛していると書かれています。しかも、立派な人になったら、ではなくて、欠点や失敗があるままで僕らを愛してくれてます。そう書かれている箇所、たくさんあります。


(ローマ人への手紙 5:8)

 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことにより、神は私たちに対するご自身の愛を示されました。」


あなたがどんなにひどい人でも愛しています。そんなひどい人間は放っておいてもいいはずなのに、神様は地上に降りてきました。赤ちゃんとして生まれ、人間の苦しみを全部経験し、最後は神様の怒りと呪いを身代わりに受けて死んでくれました。それがイエス様です。


神様から離れた人間がどんなに孤独で苦しいか、光も愛もない死の世界がどんなに辛いかイエス様は知っています。イエス様はあなたのすべての苦しみと絶望を経験するために、弟子たちに裏切られ、神にも捨てられて、十字架で処刑されました。それはあなたの苦しみを共有し、理解し、身代わりになって神の呪いを受け、あなたを理解し、愛し、救うためです。イエス様は復活して今も生きています。イエス様を信じることは、神様に戻ることと同じです。神様に戻ることは、本来の人間らしく神様に愛され、守られ、喜ばれる子どもとなることです。


(イザヤ書 43:4)

 「わたしの目には、あなたは高価で尊く、わたしはあなたを愛している。」


いい人とか、悪い人とかじゃなくて、神様にとってはあなたの存在そのものが大事です。


(エゼキエル書 18章32節)

 「わたしはだれの死も喜ばない。──神である主のことば──だから、立ち返って、生きよ。」


「死んでほしくない。だから戻ってきて。生きて」というのが、神様の願いです。

もし、ほんとに「神様、信じます、戻ります」て祈ったときに、この世界ではありえなかった光とか喜びとか愛とかが心の内側に注がれます。


(エゼキエル書 33章11節)

『わたしは生きている。──神である主のことば──わたしは悪しき者が死ぬのを決して喜ばない。

悪しき者がその道から立ち返って、生きることを喜ぶ。

立ち返れ。悪しき道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ死のうとするのか。』


「神様、ほんとに神様がいるんだったら、希望と喜びと愛をください。自分の存在価値を教えてください」って祈ったら本当に与えられます。


イエス様は「わたしは世の光です」って言っています。どんなに絶望してても、イエス様に求めたときに光は与えられます。「神は愛です。」神様だけが本当の愛です。神様に繋ることは愛とつながることです。「わたしはあなたがたに平安を与えます。」イエス様につながると、不思議な安心感が心の内側から流れてきます。

神様から離れた人はみんな「心の飢え」「闇」「不安」「孤独」があります。光みたいなものを探して、それにすがろうとしています。恋人だったりお金だったり業績だったり人から承認される何かかもしれませんが、でもそれははかなくて、すぐに消えてしまいます。イエス様はこの世が与える光や平安とは違います。イエス様は絶対になくならない光です。


絶望して死んでいくことは、あなたより先にイエス様がすでにやってくれました。

死ぬことは解決にならないです。その先に神様の裁きがあるからです。


解決はイエス様を信じることです。なぜなら、イエス様があなたより先に絶望して死ぬ役目をやってくれたからです。あなたより先に神様に裁かれ呪われることも、人からも捨てられることも全部先にやって、終えてくれたからです。イエス様は全部先に終えて、復活しています。今、生きています。そして、あなたを招いています。


イエス様を信じることは、新しい人生になることです。今のあなたは本来のあなたではないです。神様から離れて絶望しているのは本当の姿ではないです。本当のあなたは、神様に愛され、喜ばれる子どもです。


イエス様を信じることは、今まで知らなかった天からのいのちや光や愛とつながる新しい人生が始まることです。ぜひ、祈ってください。


「イエス様、自分は神様から離れて絶望しています。助けてください。イエス様を信じます。自分より先に絶望も死も呪いも孤独も全部経験し、自分を赦し、受け入れ、愛してくれることを信じます。新しい人生にしてくれると信じます。」





1列王6.11-13

 1列王6.11-13


神様って見えないのにどうして信じられるの?とか、キリスト教って「やらなきゃダメ」みたいな縛り多いじゃん、しんどそう…と思う人、結構いると思います。神様は見えません。見えないけど確かにいます。神様は「ことば」が「神の臨在のかたち」として現れる神様です。そして、神様のことばは聞こえる人と聞こえない人がいます。イエス様はおっしゃいました。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10章27節)


視力が悪い羊でも、羊飼いの言葉には反応し安心するように、僕らは神様の言葉には反応し従い安心します。それはしんどいことでも縛りでもなくて、むしろ安心と喜びです。神様の願いは、僕らと一緒にいて、僕らが守られ祝福されることです。それは僕らが神様の言葉を聞き、喜び、従うこととセットです。ソロモン王が神殿を建てた時にも神様は言われました。



"そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。

「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。

わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」"

列王記 第一 6章11~13節



言葉や教えが「ご臨在のかたち」である神様はイスラエルと一緒にいてくれたし、僕らと一緒におられます。それは、僕らが教えを喜び、従うこととセットです。新約聖書によると、僕らのこの体が神殿であり、僕らと神様は一緒に住んでいます。また教会はキリストの体であり、住まいだとも言います。

個人としても、教会としても神様が語りかけ教え続けてくれることが愛されている証拠だし、それを聞いて従うことは僕らが神様を愛しているしるしです。神様と共にいること、一緒に住んでくれることの喜びです。


僕らがもし、「神様の教えはイヤだ」「従いたくない」なら「神さまから離れたい」「一緒に住まないでほしい」「こっちが家出したい」のと同じです。神様は「ことば」や「教え」でご臨在を表す方だからです。



"イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。"

ヨハネの福音書 14章23節



聖書の言葉を聞き、求め、従うことは神様と親しくすることです。見えない神様はことばや教えで現れ、僕らと一緒に住み、祝福しようと願っておられます。それはしんどいことでも窮屈でもありません。今日も聞きましょう。従いましょう。そこに安心感があり、喜びがあり、祝福があります。ハレルヤ!

2025年6月6日金曜日

1列王3.3-15

 1列王3.3-15


「あなたに何を与えようか。願え。」(列王記 第一3章5節) 

僕らにも同じように言われています。



"求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。"

マタイの福音書 7章7節



この時ソロモンはまだ18歳か19歳にだったと言われています。経験もスキルも何もない彼が王様に就任した時に必死に神様に求め、献身を表す生贄をささげた時に神様から言われたのが「あなたに何を与えようか。願え。」です。

彼は正直に求めました。自分は子どものようで何もわからないし、この人々を統治することはできないから、神様の知恵を、判断力を、神様の言葉を聞き分ける力をください、とです。



"わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。

そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。

善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、

見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。

そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。"

列王記 第一 3章7~13節



自分が弱いって思う時こそ神様に求める時です。自分の判断ではなく、神様の完璧な判断を求めるのは大正解です。自分の判断よりも絶対に正しく、はるか上を行く答えがそこにあるからです。

今日も神様を求めましょう。神様の義を求めましょう。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢を求めても何もいいことがありません。(ヨハネの手紙 第一 2章16節)


神様の知恵を求めたソロモンには富と誉も与えられました。同じように神様は僕らに言われます。

「あなたに何を与えようか。願え。」(列王記 第一3章5節) 


神様を求め、神様の正しさを求めるなら、着るものや食べるものや住むところも、必要なことは全部与えられます。



"まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。"

マタイの福音書 6章33節



"何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。"

ヨハネの手紙 第一 5章14~15節



今日も求めましょう。願いましょう。

「あなたに何を与えようか。願え。」


2025年6月4日水曜日

1列王2.1-4

 1列王2.1-4


誰でも自分の子どもには良いものを与えたいです。イエス様も「悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与える」と言われます。(ルカ11.13)親が子ども与えることができる最大の財産は「祝福される方法」を教えることです。ダビデは死ぬ日が近づいた時に、息子ソロモンにそれを教えました。



"ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように命じた。

「私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。

あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ。"

列王記 第一 2章1~3節



この時ソロモンは18歳か19歳位だったのでは、と言われています。まだ子どもで未熟です。周りは猛獣のような幹部がいます。彼に国を統治する力はありません。自分でも「私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。」と言っています。(3章7節)そんな弱いソロモンにダビデは「あなたは強く、男らしくありなさい。」(1)と言います。必ず強くなれる、絶対に間違わない方法があるからです。それは神様の教えをいつも聞き従うことで「あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるため」です。(3)これは聖書が何度も繰り返していることです。モーセも若いヨシュアに同じことを言っています。



"このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。"

ヨシュア記 1章8節



神様の御言葉をいつも口ずさむ人は必ず祝福されます。



"主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。"

詩篇 1篇2~3節



イエス様も同じことを言っています。

心配して動き回るのではなく、必要なことは一つだけです。それはイエス様の言葉を聞くことです。



"しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」"

ルカの福音書 10章42節



みことばを第一に求め聞き従うことで祝福されることは神様の取り消すことのない約束です。



"そうすれば、主は私についてお告げになった約束を果たしてくださるだろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、いのちを尽くして、誠実にわたしの前に歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』。"

列王記 第一 2章4節



僕らも弱くて恐れます。わからないことだらけです。それでも、「あなたは強く、男らしくありなさい。」(1)と言われる理由は、神様の教えがあるからです。自分からは出ない知恵と力が神様のことばにはあります。みことばはいのちの源です。良いものは伝えましょう。失敗することのない、間違うことのない祝福は神様の言葉を読み、聞き、従うことです。心をつくして、いのちを尽くして、誠実に神様のことばを求めましょう。弱くても強くされます。何もなくても全てを持っています。神様のことばがあるからです。大丈夫です。ハレルヤ!

2025年6月3日火曜日

1列王1.32-53

 1列王1.32-53


親や先生がいなくなった教室では生徒たちが本性丸出しでやりたい放題になるように、牧師やリーダーが病気とか高齢とかで活動が減ってきたとき、一部の人たちが勝手なことを言いはじめて混乱することがあります。「ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。そのため衣をいくら着せても温まらなかった。」(1)とあります。重しが取れたかのように感じて「私が王になる」と言い出したのがアドニヤです。(5) 


ダビデが弱くなってきたからといって神様が弱くなる事はないし、そのことばがなくなることもありません。リーダーが弱くてもみことばは必ず実現します。僕らが聞き従うべきはただ神様の言葉です。見える組織がどうであっても、リーダーが弱くなっても、です。

神様はソロモンが次期の王様になると言っておられました。(1歴代22章9-10節)ダビデもナタンもそれを聞いていました。老年になったダビデは最後の役目として神様のことばをきちんと国中に表明します。


"王は彼らに言った。「おまえたちの主君の家来たちを連れて、私の子ソロモンを私の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ下れ。

祭司ツァドクと預言者ナタンは、そこで彼に油を注いでイスラエルの王とせよ。そうして、角笛を吹き鳴らし、『ソロモン王、万歳』と叫べ。

それから彼の後に従って上れ。彼は来て、私の王座に就き、私に代わって王となる。私は彼をイスラエルとユダの君主に任命する。」"

列王記 第一 1章33~35節



神様がおっしゃった通り、ソロモンが本物の次の王様として就任しました。との時、アドニヤも支持者たちも震え上がります。敵対者とみなされ、処刑の対象になるからです



"アドニヤの客たちはみな身震いして立ち上がり、それぞれ帰途についた。

アドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って祭壇の角をつかんだ。"

列王記 第一 1章49~50節



彼らが身震いしたのと同じように、イエス様自身が世界の王様として君臨する日、イエス様に味方しなかった人たちはみんな震え上がります。イエス様は「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。」とおっしゃいます。(マタイ12章30節)

イエス様を王様と認めなかった人たちがどんなに強い人であっても金持ちであっても関係ありません。彼らは敵対するものとみなされ、滅ぼされる日が来ます。



"地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。

そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。

神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」"

ヨハネの黙示録 6章15~17節



イエス様は今日も本当の王様です。世の権力者も有名人も震え上がり消え去る日が来ます。僕らが今から恐れ従うべきはただイエス様のみです。イエス様はこの世のすべての権威を滅ぼしてしまいます。その時、今弱く小さく見える教会がイエス様の栄光と権威を受け継ぐ人たちとされます。まるで次期の政権与党のようです。これは確定事項です。イエス様に味方しない人は滅ぼされてしまいます。中立はありません。今日も従いましょう。ハレルヤ!


2025年6月2日月曜日

1列王1.5-31

 1列王1.5-31


神様がリーダーを選び任命されます。ところが僕らは神様に聞かずに自分の野心でリーダーになろうとしたり、都合のいい人をリーダーに立てようとしたりします。アドニヤは支持者を集め、まるで神様もそれを承認してくれるかのように礼拝をして王になろうとしました。神様さえ自分のために「使って」野望を押し通そうとするのはよくある話です。



"ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。"

列王記 第一 1章5節



アドニヤと支持者たちは、まるで決定事項かのように『アドニヤ王、万歳』と叫んで宴会を始めます。実は神様のことばは聞こうともしていません。それとは逆に、預言者ナタンは相手が誰であってもいつも神様のことばファーストでした。そして忖度なしでみことばを王様に伝えてきました。今回もそのままを王様に伝え、意見します。



"ナタンは言った。「王よ。あなたは『アドニヤが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く』とおっしゃったのでしょうか。

実は今日、彼は下って行って、雄牛や肥えた家畜や羊をたくさん、いけにえとして献げ、王のお子様すべてと、軍の長たち、そして祭司エブヤタルを招きました。彼らは彼の前で食べたり飲んだりしながら、『アドニヤ王、万歳』と叫びました。

しかしあなたのしもべのこの私や、祭司ツァドク、エホヤダの子ベナヤ、それに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。

このことは、王から出たことなのですか。あなたは、だれが王の跡を継いで王座に就くのかを、このしもべに告げておられません。」"

列王記 第一 1章24~27節



すでに神様ははっきりとソロモンが王様になることをダビデに告げておられました。



"しかし、私に次のような主のことばがあった。『…見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。…わたしは彼の王座をイスラエルの上にとこしえに堅く立てる。』"

歴代誌 第一 22章8~10節



この時はまだダビデは神様がソロモンを選んだことを国全体にはっきりと明らかにはしていなかったようです。それゆえに、アドニヤ就任の話が広まり、なびく人も多かったようです。


まずは神様のみことばを求めることが第一です。そうじゃないと人の欲望や野心が覆い混乱します。みことばは絶対に間違いのない真理です。家庭でも教会でも同じです。まずは神様のみことばを求め、従うことが基本です。神さまではなく、自分の方に人を引き込もうとすることが教会が混乱することを聖書は警告しています。



"また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。"

使徒の働き 20章30~32節



今日も祈りとみことばが中心です。人間の思いよりも、神様がどうおっしゃっているかが大事です。

今日もまず、神様に聞きましょう。自分の欲から出たことなのか、それとも神様のみことばから出たことなのか、もう一度確認しましょう。神様からではない計画はもろく崩れてしまいます。



2025年6月1日日曜日

神様が僕らに願っている宣教


神様が僕らに宣教することを願っておられること、改めて教えられます。