2023年3月29日水曜日

マルコ13.1-13

 マルコ13.1-13


イエス様は世界の王として地上に来られます。それは聖書に何度も預言されていて確定です。だから「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16.15)とおっしゃいます。…ですが、その前には反対する勢力も抵抗します。イエス様は使徒たちに言われました。



(9-10)

あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。

まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。



言われた通りに使徒たちは逮捕され、鞭で叩かれ、何度もイエス様について語るのを禁止されました。(使徒の働きに多数)イエス様が歩まれた道と同じです。そして、王たちの前で証言させられました。特にパウロは逮捕されることによってユダヤの王の前でも、ローマ総督の前でもイエス様を証言しました。迫害も苦しみもイヤだし避けたいですが、憎まれ苦しむことは、イエス様につながった証拠です。福音が伝わるのは僕らにとっても神様にとっても喜びです。そして、福音を伝わるのは悪魔にとって怒りでありなんとか阻止すべきことです。

イエス様はあらかじめ迫害されることを伝えてくださいました。そして、その時の対応も聖霊ご自身が教えてくれます。大丈夫です。



(11)

人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。



キリスト教約2000年の歴史の多くは迫害の歴史です。日本も鎖国時代はキリシタンは激しく苦しめられました。そして、この世の終わりにはそれが激しくなります。「また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」(12-13)



僕らがイエス様に呼ばれて神様の子どもとされたのは、キリストの足跡に従うためです。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」と聖書は言います。1ペテ2:21)迫害は希望でもあり祝福でもあります。報いは大きいから喜び踊りなさい、と言われます。



(マタイ5:11

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。



苦しみを通過した後に祝福と報いがあります。イエス様のための苦しみは測り知れない、重い永遠の栄光をもたらします。(2コリント4.17)「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。とイエス様がおっしゃいます。僕らはイエス様と一緒に栄光を受けるためにイエス様と一緒に苦しみも受けます。


(ローマ8.17-18)

私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。


今日も苦しみの向こうにある栄光と喜びを見つづけていますように。神様が心の目を開いてくださって、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを知り続けることができますように。


マルコ13.14-27

 マルコ13.14-27


聖書に書かれている通りに、2000年近く前に消えてしまったはずのイスラエルが1948年に建国しました。それ以来多くのイスラエル人たちが世界中からイスラエルに戻ってきているのは驚きだし感動です。でも、それで「よかった、よかった」と終わることではありません。再建されたエルサレムを中心に今度は「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こる」とイエス様が言われます。(19)



(14-19)

『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。

それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。



聖書は「──読者はよく理解せよ──」と言い、(14)あなたがたは、気をつけていなさい。」と言われます。(23)僕らがよく理解し、イエス様の願い通りに気をつけていられますように。


この世の終わりには、エルサレムの神殿の場所に『荒らす忌まわしいもの』が立てられます。(14)忌まわしいものって何?と思いますが、これは「預言者ダニエルによって語られた」もので、(マタイ24.15)『荒らす忌まわしいもの』が神殿に立てられると、神様への礼拝は禁止されます。(ダニエル9.26-27、11.31)また、その時には「その獣の像を拝まない者をみな殺させ」とあり、(黙示録13.15)「小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」(黙示録13.16-17)とあります。


つまり、エルサレムに建てられる悪魔的な偶像を拝まないと殺される日がきます。それだけでなく、今まで人類が経験したことのない苦しみの日が来るとイエス様が言われます。それを教えてくださった理由は「惑わされないため」です。その時、苦しくてワラにもすがりたい状況になり、助けて、と叫ぶ時にニセの救い主、ニセキリスト、ニセ預言者たちが現れます。


(21-23)

そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。

あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。


ニセキリストは素晴らしい奇跡や不思議なことを見せてくれ、聖書を知らないと、簡単に「これこそ救い」とダマされてしまいます。イエス様は「あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。」と言われます。(23)


信仰の多くの先輩たちはイエス様を信じ愛するゆえに殺されました。聖書を見ても、キリスト教会の歴史を見ても明らかです。そして、イエス様は僕らにも「死に至るまで忠実でありなさい。」(黙示録2.10)「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」(マタイ10.28)と言われます。復活は希望です。死んでも…生きます!


本当のイエス様がもう一度来られる時の姿は明白です。それは栄光の「雲とともに」です。それは聖書が何度も明らかに教えてくれている姿です。だから、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。


(26-27)

そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。

そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。


今日も悪魔はできれば選ばれた者たちを惑わそうとして、いろんな情報や思いを提供します。油断していると簡単に引きずられてしまいます。僕らが聞くべきはイエスさまのみことばです。僕らはイエス様の真理の言葉を聞き分ける能力が与えられています。イエス様の羊だからです。苦しみも惑わしもありますが、大丈夫です。たとえ殺されても、イエスさまの愛から僕らを引き離すものはありません。ハレルヤ!


(ヨハネ10.27-28)

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。





2023年3月27日月曜日

マルコ12.41-44

 マルコ12.41-44


誰がいくら献金したか、僕らは知る必要はないし、詮索する必要もありません。でも、神様はそれを見ていてくださいます。心を尽くして、力を尽くして主を愛する献金か、それと残りものか、です。ある時、やもめ(夫を失い収入がない人)が生活費の全部をささげました。当時のやもめは、生活保護もアルバイトもなく、社会の底辺としてギリギリの生活をする人たちでした。彼女は、「生きる手立てのすべて(48)を神様にげました。これを献金すると食べ物が買えなくなります。彼女は神様のために空腹になることを選びました。また、神様がちょうど良く養ってくださることを信じ期待しました。イエス様はそれをとても喜んでくださっています。



(41-44)

41,それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。

42,そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。

43,イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。

44,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」



1コドランドとは、当時の日当の1/64です。日当6400円の人なら100円です。それが彼女の持っているすべてでした。実際にお金はなくなりますが、実は苦行ではなく、信仰(信頼)の増幅です。その人には神様への喜びと感謝が溢れ、本当に神様が「常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与え」てくださいます。(2コリント9.7)



献金して貧しくなった人を僕は見たことがありません。内側の喜びは増え、外から見てもきちんとした生活をして、「あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるように」なっています。(2コリント9.11)神様への感謝と喜びはもっとささげたい、と言う気持ちに変わります。献金→喜びと祝福→もっと惜しみなく献金→もっと喜びと感謝→もっと惜しみなく…、と言う好循環です。実例は聖書に多く書かれています。



(2コリント8.2-4)

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。



(1列王記 17:12-16)

彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」(…中略…)エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。



お金も時間も力も知性も神様の栄光を見るためのものです。生きておられる主の御業に僕らは参加できます。東栄教会、お金が尽き果てても主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならないリアルな神様の祝福と喜びの現象が続行中です!主は生きておられます。今日も心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして主を愛しましょう。(30)それは主の御業の現れです。ハレルヤ!




2023年3月23日木曜日

マルコ11.27-33

 マルコ11.27-33


神様はお金で動くことがありません。人が作ったルールとか人から良く思われることなどに縛られることもありません。ところが、イエス様の時代には神殿はお金で動く場所になり、人間が作った権威や組織が支配する場所になっていました。イエス様はそれを怒り、本来の祈りの家としての場所に戻すために、強制的にそれをやめさせました。



(15-17)

15,こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

16,また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。

17,そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」



当時神殿を管理していた人たちは許せません。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し」ました。(18)彼らはイエスを下に見て「あいつは田舎から出てきたただの自称預言者。学歴もないし権威もない」と思いたかったようです。そんなイエスが今までの神殿のやり方を壊してしまったことは、絶対に許せません。彼らはイエス様に問い詰めます。



(27-28)

27,彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、

28,こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」



神様の神殿はいつの間にか祭司長たちや律法学者たちのものに変わっていました。人は神様より自分の利益や立場を守ろうとしがちです。口では主よ、主よ、と言っている宗教家が本音では自分の栄光や立場を求めるのは偽善です。イエス様は彼らに答えます。



(29-33)

29,イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。

30,ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」

31,すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。

32,だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。

33,そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」



律法学者、祭司たちはヨハネを認めたくありません。ヨハネから「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」と言われました。(マタイ3.7)ヨハネを認めてしまうと自分のやってきたことが否定されます。かと言ってヨハネを否定すると民衆から嫌われます。民衆は「ヨハネは確かに預言者だと思って」いたからです。(32)彼らは群衆を恐れていました。


彼らが恐れているのは神様ではなく、人です。そして、欲しいのは神様の栄光とか主権ではなく自分の立場や利益です。

教会も油断するとすぐにこうなりがちです。人間が作った権威やルールやお金で動く場所になったり、人の顔色で意思決定する場所になってしまいます。教会は祈りの家です。教会が求めるのは主の栄光と力です。反対に、罪が求めるのはいつも自己保身、自分の栄光、自分の利益、自分の権威です。今日も人ではなく、自分でもなく、神様を求めましょう。国も力も栄光も永遠に神様のものです。僕らが恐れるべきはただ一人、神様だけです。ハレルヤ!

2023年3月22日水曜日

マルコ11.1-7

 マルコ11.1-7


 この世の王様は民衆から奪い、金と権力で支配します。ところが、本当の王であるキリストはへりくだり、まるで自分が下であるかのようです。王であるキリストは人から借りた家畜小屋で生まれ、寝かされたベッドは借りたえさ台でした。(ルカ2.7)大人になっても自宅はなく、枕するところもなく(ルカ9.58)、借りた舟で移動し、借りた部屋で過越の食事をしました。この後、人から借りた墓に葬られます。世界の支配者である神の子は、何も持たない貧しい人のように過ごします。キリストが王として正式にエルサレムに入城することは旧約聖書の預言の通りでしたが、この時も人から借りた子ろばでした。



(1-6)

1,さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。

2,「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。

3,もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」

4,弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。

5,すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」

6,弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。

7,それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。



イエス様は、人から子ろばを借りるときに、礼儀正しく誠実に「すぐに、またここにお返しします」と言うように弟子たちに頼み、子ろばを借りています。貸していただく、という下の立場に立っています。へりくだり、ろばに乗ってエルサレムに入城することは本物の王であることのしるしであり、やがて世界を軍事力でなく平和で支配することの預言のしるしです



(ゼカリヤ 9:9

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。



金と力で上から支配するこの世の王とは真逆です。この柔和さとへりくだりが王のしるしでした。イエス様が今まで教えてきた謙遜さの実例です。「偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。(…中略…)あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。(…中略…)人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10.42-25)


イエス様はいつも貧しい人の側に立ってくださいます。そして僕らにも「へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。」と言っておられます。(箴言16.18)主がそのような方だからです。今日もイエス様と一緒に人に仕えましょう。イエス様の御霊が僕らの中に住んでおられます。僕らの心がイエス様の心と一つになりますように。

マルコ11.25

 マルコ11.25


他人をさばき、恨むことは実に簡単で、ほとんど全自動ですることができます。人間関係が上手な人は隠すのも上手です。しかし、神様は心を見ます。(1サムエル16.7)神様の願いはあなたに害を与える人を赦すことです。その理由はあなたも同じような、いやもっと大きな罪はあるし、にも関わらず神様はあなたを赦し愛してくださっているからです。



(25)

また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」



「(   )さんを赦します。愛します。祝福します。」この祈りはすごく大事です。イエス様が教えてくださった祈りは「私たちに負い目のある人たちを赦します。」です。(マタイ6.12)さらにイエス様は言われます。「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ6.15)



他人を赦さないことは神様との壁になってしまいます。神様は「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」と言われます。(イザヤ 59:2)イエス様がしてくださったように、僕らが互いに赦し合い愛し合うようになることは、救い主イエス様の大きな目標の一つです。そのイエス様の聖霊が僕らに与えられています。僕らにはできませんが、イエス様の御霊が赦しの祈りをさせてくださいます。大丈夫です。今日、もう一度自分に聞いて見ましょう。恨んでいる人、憎んでる人、さばいている人は誰ですか?と。そして赦しの祈りをしましょう。赦しの祈りが難しい人は次の順序で祈るのをお勧めします。


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●その1   自分の気持ちを神さまの前に注き出す。


いやな気持ちをそのまま神さまの前に言います。



※祈りの例


神さま(   )を思い出します。(   )なことがありました。(どのようなことがあったかを言う)私はそれについて(    )と感じています。(どんな気持ちか、具体的に言う。)

私はこのことで(人の名前をあげる。自分も含めて)のことを(     )だと思っています。(憎しみ、さげすみ、悲しみなど正直に言う。)



●その2  自分がこのことにとのように対応したかを思い出す。


痛みや悲しみの中で悪いこと(仕返し、悪口など)をしたかどうか思い出してみます。また、忘れるために何かをしたか思い出して、神さまに言います。



※祈りの例

神様、わたしは、この出来事の中で(   )をしてあなたを悲しませました。どうそこれらの罪をゆるしてください。あなたのきよめを感謝します。



●その3 神さまは、相手をゆるすことを願っておられます。


神さまは相手をゆるすように願っておられます。仕返ししたい気持、 うらみ、 怒りなどをすべてイエス様にお任せしましよう。 相手をゆるし、自分もゆるし、ゆるさない心をきよめていただきましよう。



※祈りの例

神さま( 名前   )さんに対する気持をあなたににお任せします。私は(名前)をゆるします。神さま(名前)をゆるさない心から私をきよめてください。そして、(名前)を祝福してください。



●その4  さばいてはいけません。



※祈りの例


(人をさばいたと思う場合)

神さま、私は(名前)のことを、(  )と言ったり、(    )と考えたりしてさばきました。 この罪をおゆるしくたさい。

この、人をさばく罪をすてます。イエス様、あなただけが(名前)をさばく方です。(名前)を私のさばきの悪影響から解放してください。

そして、私もこのさばきの罪の悪影響から解放してください。



(人からさばかれていると感じる場合)

神さま、(名前)のような行動や(   )と言われたことにより、私はさばかれていると感じました。(名前)にさばかれていると思って私が受けた悪影響から解放してください。(名前)をゆるすことができるようにしてください。あなただけが私をさばかれるお方です。私を受け入れてくださることを感謝します。



●その5 神さまのせいにしているかもしれません。


傷ついたり悲しんだりすることで、 神様にがっかりしたり、 神様に怒っているかもしれません。その結果、神様を拒否する思いがあるかも知れません。



※祈りの例

神様、私は(出来事)について、 あなたに怒っていました。なたのせいにしていました。 このことはあなたを悲しませていました。 とうぞ私をゆるしてください。あなたへの怒り、うたがい、 (その他、 神様に対する悪い気持) から私を解放してください。 そして、 あなたと親しくできるようにしてください。



●その6 何が原因で不安で苦しいのかよくわからないとき。


不安や苦しみ、思い出す場面などをそのまま神様に言います。その気持ちや場面に対してイエス様がおっしゃっていることを求めます。また、他に思い出すべきことや考えるべきことがあるかどうかも求め、同じようにその気持ちや場面に対するイエス様のみことばを求めます。

あまりにも怖くて手に負えない時はムリをせず、信頼できる仲間や先生に一緒に祈ってもらいましょう。



※祈りの例


神さま(   )を思い出します。(   )なことがありました。(どのようなことがあったかを言う)私はそれについて(    )と感じています。(どんな気持ちか、具体的に言う。)

イエス様、あなたがこのことについてどう思っておられるのか、教えてください。あなたのみことばと聖霊様の導きを求めます。

2023年3月20日月曜日

マルコ10.46-52

 マルコ10.46-52 イエス様は言います。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11.24)反対に、疑う人は何かをもらうことはない、とも言います。(ヤコブ1.6-7)神様が願っておられるのは信仰です。信仰とは神様を信じることです。神様は僕らの祈りや叫びを聞き、僕らが思う以上に良いことをしてくださいます。主が僕らに目を注ぎ、愛し、答えてくださるなら何も不足はありません。それだけで十分です。その実例が今日の箇所にあります。


(46-48)46,さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。47,彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。48,多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。


この盲人はとにかくイエス様に気がついてもらうことに必死でした。イエス様と会話さえできれば全て満たされると信じていました。そして、その願いは叶いました。


(49-50)49,イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。50,その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。


イエス様に目を留めてもらい、呼ばれただけでもう全てが満たされたかのように喜んでいます。盲人にとって上着は生活必需品だし、唯一の財産です。ところが彼はもう、そんなモノよりもイエス様です。「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエス様のところに行きました。もう、自分の持ち物にこだわってる場合ではありません。


(51-52)51,イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」52,そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。


彼の信仰が彼を救いました。神様が僕らに求めているのは「信じること」です。もし信じてないなら、いくら祈ってもムダです。反対に、小さくても信仰があればそれで十分です。(ルカ17.6)今日もイエス様を信じて祈りましょう。目先の自分のモノとか、自分のお金とか、時間とか、状況にこだわるより、イエス様と交わる方がはるかに価値があります。というか、大事なことは一つだけです。イエス様を信じて交わり、信じて会話し、イエス様のことばをもらって信じること、それだけで十分です。ハレルヤ!


2023年3月16日木曜日

マルコ9.30-37

 マルコ9.30-37


僕らは効率よく、なるべく時間をかけず、近道で行きたいと思いますが、イエス様が願っておられるのは正反対のようです。人を愛するために効率は落ち、時間はかかり、疲れ、遠回りすることがイエス様の願いです。自分の名声にならず、ただ時間もお金も減ってしまうけれども、一番弱く小さい人を受け入れることは、イエス様を受け入れることです。イエス様は小さい子の手を取り、後ろから抱きしめ、膝に乗せました。



(35-36)

35,イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

36,それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。

37,「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」



デキる人、輝く人、かっこいい人、面白い人は人気があります。…ですが、無力な人、人が避けたくなるような人、めんどくさい人、社会の隅に追いやられている人を受け入れ愛することこそ、イエス様を愛することです。イエス様は言われました。まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25.40)弱く、困っている人、時間のかかる人、居場所のない人を愛するならあとでイエス様とお会いする時に言われます。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』(マタイ25.35-36)それとは反対に、小さな人、弱い人をつまづかせることは神様が最も怒り悲しむことです。


(マタイ18:6

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。



弟子たちは「誰が一番偉いか?」ということに関心がありました。イエス様は「誰が偉いか」は否定せず、むしろその答えを明確に教えてくださいました。偉い人とはみんなの後になり、みんなに仕える人です。



(33-35)

33,一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」

34,彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。

35,イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」


小さい人、弱い人、めんどうな人に仕えることはイエス様の愛の現れ、イエス様の願いの現れです。僕らからは出ないはずの愛と憐れみが、聖霊によって与えられています。聖霊は僕らが思う近道や効率とは全然違います。今日も自分でなく、イエス様の愛でいきましょう。この世の考えとは正反対です。ハレルヤ!

マルコ9.38-42

 マルコ9.38-42


イエス様を信じる人に良いことをすることはイエス様にするのと同じです。クリスチャンはイエス様の体の一部、枝の一部だからです。どんな小さなことであっても、この人はイエス様に繋がってる人、と思ってするならイエス様にしたのと同じ報いを受けます。キリストへの愛はクリスチャンへの愛です。良いことをする人にイエス様の喜びと報いが与えられます。



(41)

まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。



それとは正反対に、イエス様を信じる人に悪いことをするのはイエス様にしたのと同じです。その人は神様を攻撃したかのように厳しい報いを受けます。



(42)

また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。



同じイエス様を信じていても、いつの間にかどっちが偉いか正しいかと議論し、ほかの人を見下しがちです。12弟子はエリート意識があって、ほかの人がイエス様の名前で悪霊を追い出しているのをやめさせました。それをイエス様は「やめさせてはいけません。(…中略…)わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」とおっしゃいます。恥ずかしいことにキリスト教は2000年くらい同じイエス様を信じながらも派閥に分かれて足を引っ張りあってきました。




(38-40)

ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。



僕らは今だに心の中で自分が偉い、正しい、と思い、他のクリスチャンを見下しがちです。イエス様の願いはそれとは全然違って、同じイエス様を信じる人に水一杯飲ませる人を喜んでくださいます。イエス様に対する愛はクリスチャンに対する愛に現れます。今日も信仰の仲間を喜びましょう。愛しましょう。大事にしましょう。彼らはイエス様のからだの一部であり、神様の子どもたちであり、枝であり、神に愛される妻であり、味方です!



2023年3月14日火曜日

マルコ9.14-29

 マルコ9.14-29


神様が願っておられるのは僕らが神様を信頼することです。神様の愛と憐れ

み、そしてその力と癒しを信じることです。神様に不可能はありません。悪霊に取り憑かれて苦しむ息子をもつ父親がイエス様に救ってくださるようにお願いしました。でも、その願い方は、もしおできになるのなら、というものでした。イエス様は「できるなら」というのですか?と返します。

つまり、この父親は、イエス様が少年を癒せるかどうかが問題だと考えました。ところがイエス様は反対に、この父親がイエス様の癒しの力を信じているかどうかが問題だとおっしゃいます。これは僕らにも問われています。僕らは「神様って本当に癒してくれるの?」と信仰と不信仰の間で揺れます。そしてイエス様は「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とおっしゃいます。



(21-24)

21,イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。

22,霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」

23,イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

24,するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」



父親は自分の不信仰を認めました。そして、イエス様に叫んで助けを求めます。イエス様はその父親の必死の願いを聞いて悪霊を追い出し、息子を癒してくださいました。



(25-27)

25,イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」

26,すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。

27,しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。



実はこの前に、この父親は弟子たちに息子から悪霊を追い出してくれるようにお願いしていました。でも、弟子たちにはできませんでした。



(17-18)

17,すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。

18,その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」



あとで、弟子たちはイエス様にそっと質問します。私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」(28)イエス様は答えます。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(29)ほかの箇所を読むと「あなたがたの信仰が薄いからです。」とも言われています。(マタイ17.20)


神様が願っておられるのは僕らが神様を信頼することです。信仰とは信頼です。お祈りすることは信頼して祈ることです。弟子たちが悪霊を追い出そうとした時は祈ってないか、神様に信頼しないで祈ったのかもしれません。癒しの力とか悪霊を追い出す力はイエス様の力です。だのに、自分の力であるかのように、神様を頼らないで悪霊を追い出そうとした可能性は大きいです。



イエス様ご自身が悪霊を追い出してくださいます。今イエス様は天におられます。そして、イエス様の御霊が、私たちのこの体を住まいとしておられます。イエス様が悪霊を追い出し病気を癒してくださいます。そして実際にはイエス様に繋がる一人一人が祈りつつそうすることができます。イエス様の権威によってです。イエス様は、私の名によって祈りなさいと教えられました。イエス様の御名によって、と言う意味は、イエス様の力によってということです。僕らが祈ること、悪霊に立ち向かうことは僕らの力ではありません。私の名前ではありません。イエス・キリストの名前によってです。イエス様が勝利しています。



(1ペテロ 5:9)

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。



基本的に、聖書は悪魔に立ち向かいなさいと言っています。恐れることなく、信仰に立ってです。信仰とは信頼です。

今日もイエス様を信頼しましょう。「もしもおできになるのなら…」ではありません。イエス様に不可能はありません。今日も信仰と不信仰の間で揺れてしまう僕らです。弱さを告白して、信じましょう。信じる者には、どんなことでもできるのです。ハレルヤ!


マルコ8.14-21

 マルコ8.14-21メッセージ 3/12  「パンの足りない舟に乗ろう」


1ヵ月前の執事会報告の中で、教会の口座の預金残高がなくなってしまいました。それで運営基金から250,000円を借りたんだけども、それもなくなってしまいました。 3月は牧師の給料は自動送金はではできなくなりました。今月からは月末、現金である分だけをお渡しする形になります、という言う発表がありました。祈りの課題にもそれが出されるようになりました。

それを聞いて、いろんな反応があると思います。ざわつく人、心配する人、月定献金してない人が多いのでは?とか、そもそも人件費が高すぎではないか、とか、牧師はバイトした方がいいのではないか、とかいろんな反応がありました。


その状況の中で、今月末までに牧師夫妻は来月のイスラエル建国記念式典での演奏、またポーランドでの演奏のために自費で90万円振り込まなければならない、また、息子の学費も振り込まなければならない、ということもあって、いろんな不安や不満があるかもしれない、とう状況で、今日与えてくださったのは、まさに、弟子たちのパンが足りない、食べ物がない、という問題です。


一緒にイエス様の答えを聞いて行きたいと思います。イエス様の答えは


19,わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」

20,「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

21,イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」


今日、東栄教会の皆さんは、イエス様と一緒にパンが足りない船、一つしかパンがない船に一緒に乗りたいと思います。

イエス様は東栄教会をわざわざそのような状況にしてくださったかのようです。パンが足りない船に乗せてくださったかのようです。


●心配が大きすぎてイエス様の言葉が聞こえない弟子たち。


13,イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた。

14,弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。

15,そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」

16,すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。


食事当番があったかもしれません。イエス様と12人の弟子で船に乗って行きます。今日の食事当番はアンデレとか。ところが船に乗ってしばらく行ってみると誰かが言います。ごめん、やばい、どうした、ごめん。パン持ってくるの忘れた。何やってんだよお前。今何個あるんだよ。ごめん、いっこしかない。13人でどうやって食べるんだよいい加減にしてくれよ。


そのタイミングで、イエス様が「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」と言われました。


ここで、イエス様がおっしゃったパン種、と言うのは明らかに象徴的に罪のことを言っています。詳しくは後で説明します。ここでは、小さな罪が全体に影響を与えてしまうから、くれぐれもその罪に気をつけなさい、とおっしゃいました

ところが、弟子たちは全くその意味がわからなかったようです。イエスのパン種のことをおっしゃった途端にほらやっぱりパンがなかったから、パンが持ってくるの忘れたからイエス様に怒られてるよ、と理解するわけです。 16節自分たちがパンを持っていないことについて議論を始めました。


16,すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。


食料がないことを心配し、その対策をどうするか、誰のせいか、全部イエス様を忘れた話ばかりです。

自分たちの力で解決することばかり考えて、イエス様がいくら大事なことことを話しても、入って来ません。聞いていても、自分の考えが全てになってしまって、きっとイエス様はパンがないことを怒ってるんだ、と思い込みます。


私たちもよくあることです。自分の考えとか興味とか関心が真っ先にきてしまって、イエス様の話が入ってこない、よくあることです。たとえイエス様の話を聞いていても、自分の都合に合わせて話を聞いてします。きっとこういう意味だ、と勝手に解釈してしまうということがあります。


きっとイエス様もパンがないことを怒っているんだ、食べ物がないことを責めているんだ、と思いこみます。

自分の世界や考えだけに囚われている姿です。


イエス様は食べ物がないことを責めたことは一度もありません。互いに責めあったり裁きあったりしているのは弟子たちです。それをイエス様もきっとそうだ、それをイエス様の言葉を利用して、思い込みがあると、僕らはイエス様の言葉をまっすぐに聞けなくしてしまいます。


●神様からの恵みを覚えて感謝することの大切さ


弟子たちが、いつまでたっても食べ物が足りないことばかり議論してるがっかりしながら言われます。


17,イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。


今このボート13人いて、パンが1つです。何か問題ありますか?もう忘れたのですか?と言うことです。

今まで何を経験してきたんですか。5つのパンで5000人の男性がお腹いっぱいになりました。その後、4000人の時はパンが7つでした。みんな満腹しました。8章はその話の続きです。計算すると、少なくてもパン1個あたり1000人までオッケーなんです。あなた方忘れたのですかと聞きます。そのような、私と一緒にいると言うのは、神様が与えてくださり豊かに祝福してくださる神様の国の表れだった、ということを2回も経験しています。今、パンが1つです何か問題ありますか?と言うことです。


私たちクリスチャンは、何度も経験しているはずなんです。あの時に神様がよくしてくださった、あの時も神さまはいてくださった。助けてくださった、神様は祈りに答えて何度も良いことをしてくださった、それを経験しています。けれども新しい問題が出てくると、やはり神様を恵みを忘れて自分の考えの中だけであれが悪い誰が悪いどうしたらいいか、と議論を始めてしまいます。弟子たちの姿は私たちの姿です。


 17節、18節、この叱責の言葉は、僕らに言われている言葉です。


17,イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。



弟子たちが、あまりにも記憶喪失のようなので、イエスももう一回具体的に思い出させてくださいます。



19,わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」

20,「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

21,イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」


弟子たちはちゃんと見ていたし体験していたし、覚えていました。でも、悟ってなかったようです。


イエス様は、どれだけ豊かに余ったか、どれだけ恵みが充分だったか、ということを思い出させてくださいます。イエス様はおっしゃいます。まだ悟らないのですか?


私たちにも言われています。18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。


※具体例


今まで神様が助けてくださった経験、みんなあると思います。あの時、本当にお金がなかったけど助かった、あの時もこうだった、みんな経験があります。お金でなくても、時間がなかった、人がたりなかった、力がなかった、僕らは足りない面ばかり数えて心配してしまうのが僕らです。ところが、聖書は主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな、と言います。時間がなかったのに、守られたこと、力もお金もなかったのに助けられたこと、死にそうだったのに、あんなにひどい病気だったのに、みんなたくさん経験があります。でも、忘れてしまって目先の問題ばかりに注目しがちです。


3年前、緊急事態宣言で教会の集会も人数制限をして、5人まで、10人まで、という時期もありました。だからもう教会の会計は今まで通りはいかないのは明らかだろう、とみんな思いました。それでも、神様を信頼して他の教会とか宣教団体に1/10を捧げる対外献金をやめずに過ごしたその年の決算は過去最高の黒字でした。


献金したお金はざっくり100万円。残ったお金黒字になったお金は200万円以上


私たちにも言われています。18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。


あなたがたは、覚えていないのですか。」問題や不安材料を見つけるのは得意なのに、神様の恵みや感謝を覚えるのは不得意です。


イエス様は正反対で、与えられたものを少なく見えても神様に感謝し、ほめたたえる方です。



6,すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。

7,また、小魚が少しあったので、それについて神をほめたたえてから、これも配るように言われた。


イエスのは4000人の人の前で、パンが7つしかないとは言わなかったです。7つも与えられている神様が与えて下さった神様ありがとうございますって感謝の祈りを捧げたと書かれています。小魚が少しあった、イエス様は4000人もいるのに、小魚が少しだったとは言わなかった。小魚が与えられているってことを神様に感謝し、褒めたたえたと書いてあるんです。イエス様は感謝の人です。神様は全てのことについて感謝しなさいとおっしゃいます。それを本当になさったのはイエス様です。


4000人分のパンを持って来いとは言わなかったんです。今ある分を感謝したんです。そしてこの7つを、そして小魚を分け合うことができる恵みを喜んだんです。それがイエス様です。神様の願いは神様からのプレゼントを神様から与えられているものをみんなで分け合うことです。お金がない時、力がない時、時間がない時、もっと収入を増やそうとか、あの人に頼もうとか、こうすればうまく行く、ということよりも先に、まず今与えられているものを、お金を、食べ物を、着るものを、住まいがあることを、仲間がいること、そして何よりそれらを与えてくださる神様がおられることを感謝して、与えられたものを分け合って助け合って、愛し合って行こう、そこに喜びと恵みは溢れる、というのが聖書の教えです。


イエス様は誰よりもまず感謝する方です。

聖書は献金について考えるときも同じように教えます。


2コリント8章カギカッコは遠藤がつけました。


11,喜んでしようと思ったとおりに、「持っているもの」でやり遂げてください。

12,喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、「持っているもの」に応じて受け入れられるのです。


ないものを数えて心配したり議論したりするよりも、与えられているものを数えて感謝して分け合いましょう。お金も、力も、時間も、健康も今与えられているものは神様からのプレゼントです。それを感謝して持っているものに応じて、与えられているものに応じて喜んで捧げる、そのことが神様の喜びであり、結果的に感謝と賛美はもっともっと満ち溢れるようになります。



与えられている小さなものをを感謝して分け与える人はもっと豊かに与えられ、ますます感謝する人になります。


2コリント9章

11,あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

12,なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。


イエス様は少しのパンを感謝して分けた時に、いくつ余りましたか?と聞きます。答えは、5000人の時は12かご。4000人の時は七かご。まさに、人々の欠乏を満たすだけでなく、神様に対する感謝が溢れ、そして、さらに豊かに余るほどだった。


今与えられているお金も、時間も。健康も神様からの預かりものです。それを小さいとか少ないとかないとか言わずに捧げ、分け合いましょう。みんなが満たされるだけでなく、ますます喜びと感謝を持って神様を賛美するようになります。


私たちの罪の性質は、自分で努力したこと、自分で頑張った事ほど手放さない傾向があるようです。それが、パリサイ人のパンだね、ヘロデのパン種。


●くれぐれも注意する2つのこと。


15,そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」


くれぐれも、注意しなさい、とおっしゃったのはパリサイ人のパン種。ヘロデのパン種。

「パリサイ人」の本質は律法主義 。律法を行なった自分の功績を救いの根拠とします。こんなに良くやってますよ、というのが自分の正義です。自分の行いによる正義です。自分はこんなに正しいんだから、神様も認めてくださいよ、良くしてくださいよ、祝福してくださいよ、神様を動かそうとする人です。また、周りの人にも自分の行いで良くしてもらおうとします。自分の正義で周りをコントロールしようとする高ぶりです。頑張ってる人ほど、それを手放さない傾向があるようです。


彼らはパンを忘れたことで互いに、誰が悪いのか、こうなったのは誰のせいか、と裁きあいます。そんな彼らに、くれぐれも注意しなさい、パリサイ人の高ぶりのたねがもう、入ってますよ、自分を正義とする種がもう入ってますよ、くれぐれも注意しなさい、とおっしゃいました。


もう一つ、ヘロデのパン種です。

この時のユダヤの領主ヘロデのお父さんはイエス様が生まれた時に、2歳以下のベツレヘムの赤ちゃんを皆殺しにした人です。その息子のヘロデアンティパスは自分のメンツのためにバプテスマのヨハネの首をはねた人です。そしてイエスの命も狙っていた人。ローマ帝国の権力をバックにユダヤを支配した人です。彼が求めているのはこの世の権力と栄光です。この世の力を求め、苦労してユダヤ人たちに取り入ってこの地域の王として自分の思い通りに人を動かそうとする高ぶりです。彼が求めているのはこの世の力です。民衆に支持されること気に入られることで安心しようとします。また、ローマ皇帝に気に入られることも、安心材料です。この世の力が彼が求めているものです。


パリサイ人もヘロデも、共通しているのは神様以外の力や栄光を求め、それで解決しようとする人たちです。


僕らもどちらかの傾向があります。自分の力で自分の正義で自力で物事を解決しようとする人。

あるいは、この世の力、みんなに気に入られることとか、この世の制度とかお金の仕組みで安心しようとして解決しようとすること。皆さんはどちら系でしょう。小さなそのパン種をくれぐれも注意しなさい、とイエス様は言われます。


どちらにしても神様以外に頼り、神様以外から出てることを主張し、それで自分を通し安心し生き延びようとする考えです。くれぐれも注意しなさい、と言います。ほんの少しでも入れるなら、膨らんで全体に影響を与えるように、人生も、教会も、全てを汚染してしまいます。


このパンを忘れた。誰が忘れたのか?これからどうすればいいのか、イエス様抜きで議論をする弟子たちには、すでにパリサイ人のたね、ヘロデのタネががあったと思います。人間中心。神様の恵みではなく、見えるものに頼ろうとするタネがすでにありました。


それが全体を膨らまし、悪い影響がどんどん大きくなりそうです。

行いによって自分を誇り、見えるものに頼ろうとする小さなパン種、神様以外の力を頼ろうとするパン種が入ると、私たちはそれが態度に出ます。

まず、喜びと感謝は減ります。平安も減ります。反対に、不安も不満も増えます。高慢になり、ほかの人をさばきます。


どんなにお金持ちになっても、どんなに権力者になっても、裁きあったり比べあったりして平安がなければ意味がありません。

逆にどんなに貧しくても、与えられている小さなものを喜び感謝して分け合ってる方が良い。箴言は言います。


箴言 17:1 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。



ある先生が言っていました。


「悔い改めてイエス様を信じた人たちは、最初はイエス様のおかげ、100パーセントイエス様のおかけです、って心から思います。ところが、クリスチャンになって十年を経過すると、隠れていた自分の中の種が芽を出し膨らんで、いつの間にか自分の正義を主張し、パリサイ人や、この世の力とか会社のやり方を教会に持ち込んで主張するヘロデの人に簡単になってしまう」


恵によって救われた と自覚していながら、僕らの中には種があります。神様以外で物事を動かそうとする種があります。くれぐれも注意しなさい、とイエス様は言われます。その危険性があります。

弟子と同じように、誰が悪いか、どうすればいいのか、とイエス様抜きで議論し、いつの間にか、見えるものによって整えようとし、この世の力、この世の富を求めてしまうそういう危険があるのです。


15,そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」


信仰から出ていなことはみな罪です。これをしているから大丈夫とか、これがあればうまくいく、というのはすでにパリサイ人のパン種、ヘロデのパン種です。見えるものに頼るのは信仰ではありません。


神様の恵みを数えましょう。そして感謝しましょう。見えるものを数えてあるとかないとか、でなく、見えない神様の愛と恵を数え

思い出し、感謝し、信頼しましょう。


1テモテ 6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

1テモテ 6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。


イエス様と一緒にパンが足りない船、一つしかパンがない船に一緒に乗りたいと思います。

イエス様は東栄教会をわざわざそのような状況にしてくださったかのようです。特別に乗せてくださいました。今までの恵みを思い出しましょう。イエス様が一緒です。感謝しましょう。