2023年1月31日火曜日

マタイ12.38-42

 神様は聖書の「ことば」で僕らに伝えようとしておられます。でも、僕らはことばだけでは足りないと思って、見えるものやカタチを求めます。この当時の聖書の先生たちも、見えるカタチとしての証拠(しるし)を見せて欲しい、とイエス様に言いました。


(39節)

そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」


神様を信頼せず、他のものを愛することを「悪い、姦淫の時代」と聖書は言います。イエス様に証拠を要求するのは「あなたは信頼できないから証拠(しるし)を見せて」という態度です。「ことば」では信頼できないから目に見えるものが欲しい、ということです


(39-40節)

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです


神様が求めておられるのは神様の「ことば」を信頼することですそして、たった一つのしるしは「預言者ヨナのしるし」ですこれを聞いただけでユダヤ人たちはピンときます。

預言者ヨナという人は三日間、大きな魚の腹にいました。そして、三日目に陸地に出てくることができました。そしてひどい悪い町であるニネベの人々に悔い改めるようにと説教しました。ニネベの人々はその説教の「ことば」を信じて悔い改めました。


ニネベの人たちは奇跡を見たから信じたとか、何かすごい体験を下から信じたのではなく、ヨナの説教のことばを信じて悔い改めました。旧約聖書は次のように書いています。


(ヨナ 3:4-5) 

ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。


ヨナは自分の話をしたのではなく、奇跡とかすごい事をしたのでもなく、ただ、神様からの預かったメッセージを伝えました。そして人々はそれを信じました。


同じように、イエス様も三日間地の中にいました。イエス様は処刑され、殺され、墓に葬られてから三日目に復活しました。これが唯一の証拠(しるし)です。そしてイエス様は復活し、それは聖書に記録され、その「ことば」で神様は僕らに伝えておられます。

ヨナのメッセージで多くの人たちは悔い改めましたが、イエス様はヨナよりもずっと優れた方です。イエス様は今日も「ことば」で僕らに語っておられます。


(39-41節)

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです

ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからですしかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです


僕らが聖書のメッセージでは足りないと言って、見えるものを求めるなら、イエス様はそれを「悪い姦淫の時代」とおっしゃいます。素晴らしい音楽とか、素晴らしい会堂とか、人間的な魅力とか、そのようなものを第一に求めるならまるで浮気のようです


ヨナは欠点だらけの預言者でした。短気で怒りやすく、しかも嫌になったらすぐに投げ出すような性格です。それでも、神様はヨナを用いてヨナに神様のメッセージを預けました。そしてニネベの人たちは悔い改めます。神様のみことばが伝わる時には、人間の短所も長所もあまり関係ないようです


僕らが神様の言葉ではなくて、見えるカタチや奇跡や、外側のものばかりを求めて神様から離れ、浮気をしませんように。神様のことばは真実です。信頼できるだけでなく、生きていて力があります。聖書のみことばが毎日僕らを新しく生き返らせてくださいますように。

マタイ13.36-46

 神様を知り、神様に愛され、神様のご支配に入れられた人は「太陽のように輝きます」と言われています。どんなにひどいことをした人もイエス様はその人を赦し「正しい人たち」と呼ばれます。ひどい人だったのに、です。将来、僕らが思う以上の栄光が約束されています。まるでキリストの姿のように変えられ、輝きます。


43節)

そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。


逆に、神様に逆らい続ける人たちは将来、火に投げ入れられ泣いて歯ぎしりすると言われています。


40-43節)

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです


永遠の恥と苦しみか、永遠の栄光か、二択です

この情報はスルーする人が多いようです。イエス様は「耳のある者は聞きなさい。」とおっしゃいます。(43節)

聞く気のない人にはわかりません。


無視する人が多い中、天の御国を知った人は、まるでとんでもない宝を発見したかのように喜びます。天の御国=隠されている宝のようです


(44節)

天の御国は畑に隠された宝のようなものですその宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。


全ての財産を売り払ってでも永遠に価値のあるのが天の御国です

この宝を手にするためなら、この世での財産や犠牲はとるに足りないほど小さなものです

多くの先輩たちが、この宝の価値の大きさを知り、はかない地上の楽しみよりも、永遠の宝から目を離すことはありませんでした。


(ヘブル 11:13)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです


(ヘブル 11:25-25)

(モーセは)はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです


(ローマ8:18)

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。


パウロはものすごい学歴と地位があった学者です。でも、イエス様の御国を知ったために、その全てを手放しました。この世の栄光はイエス様の素晴らしさに比べたらゴミのようだ、と言っています。


(ピリピ3:7-8)

私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。


逆に、この世で莫大な富や栄光を手に入れても、将来火に投げ入れられ、恥じ入り、泣いて歯ぎしりするならなんの価値もありません。


(41-42節)

彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです


また、天の御国は宝(高価な真珠)を探す商人のようだ、とイエス様はおっしゃいます。今度は神様の側で宝を探しているかのようです

天の御国=宝を探す商人です


45-46節)

天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです

高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。


イエス様の王国は宝を探しています。そして、宝のためなら全てを犠牲にしてそれを買うとおっしゃいます。なんと、僕らのことをその宝、良い真珠のようだと言ってくださいます。イエス様は僕らを求め、僕らを手に入れるために全てを捨て、ご自分の命さえ犠牲にしてくださいます。それほどまでに僕らのことを価値があると思い、探し、求め、犠牲を払ってくださるのが天の御国です


人生いろんな心配がありますが、天の御国を僕らは手に入れています。また、イエス様に探され、見つけ出してもらいました。

この特権はこの世のどんなものより価値があります。

イエス様の王国に参加する栄光と比べれば、この世のどんな富も栄光もちっぽけです


この特権から、栄光から目を離さずに行きましょう。全てを犠牲にしても価値があるのが天の御国です。僕らは「御国で太陽のように輝きます。」(43節)想像以上の、ものすごい特権に向かっています。

主は素晴らしいです。ハレルヤ!

マタイ13.24-35

 キリスト教の歴史を学ぶと恥ずかしい罪の歴史がたくさん出てきます。そして、今もキリスト教会の中にはちょいちょいスキャンダルがあるし、自称クリスチャンでも本当かどうかわからない人がたくさんいます


イエス様は信者の中には必ず偽物が混じっている、とおっしゃいます。しかも、僕ら人間はその判断を間違うことがあるので、その偽物(と思われる人)を排除しないで、そのままにしなさい、とおっしゃいます。


(24-26節)

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。


麦と毒麦はそっくりだそうで、見分けが難しいそうです

しもべたちは「毒麦を抜き集めましょうか」と提案しますが、主人は「そのままにしなさい」と言います。理由は、間違って良い麦を抜かないためです


(27-30節)

それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」


イエス様はこの話を解説されました。


(37-40節)

イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちですですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。


教会には本当の信者と偽物が混ざっている、とイエス様はおっしゃいます。僕らは他人を評価したりさばいたりするのが大好きで、「あの人の信仰は怪しい」という話をしたがるし、そういう人を攻撃して排除したがるのが僕らですところがイエス様はそのような判断や攻撃はしないで、「育つままにしなさい」とおっしゃいます。理由は「良い麦も一緒に抜き取るかもしれない」からです僕らがあの人はダメ、この人はダメという判断はアテになりません。イエス様が命をかけて愛している人を攻撃してしまうことがあるかです。聖書は裁きは神様に任せなさい、と言います。


(1コリント4:5)

あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです



イエス様が最後に正しく、正確に判断しさばいてくださいます。僕らがさばいたり排除しなくても大丈夫です本物を攻撃していたらそれこそ大変です


イエス様を信じる人は必ず成長します。どんな小さな信仰でスタートしても、必ず成長します。でも同時にイエス様の王国(ご支配)が広がるところには、必ず悪魔の働きも入るし、そこに悪魔も住もうとします。イエス様はここで悪魔のことを「鳥」と言っています。(13章4,19節)


(31-32節)

イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。

どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」


からし種は小さく、1ミリくらいの種が大きければ2-3メートルにもなるそうです。そのようにイエス様への信仰、そしてイエス様のご支配は成長します。が、そこにも敵はやってきて共存しようとします。


罪は捨て、聖さを求めるようにと聖書は繰り返して教えています。が、どんなに頑張ってもこの地上に生きているうちは罪の影響から逃れることはできず、完全に聖い信仰者はいないし、聖い教会はありません。毒が混じっているとイエス様がおっしゃいます。大事なことは、忍耐して善を行い、先走って裁かず、最後に正しい裁きをしてくださる神様を信頼して愛することです裁きは神様にお任せしましょう。


(1テサ 5:15)

だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。

マタイ13.47-58

 イエス様の弟子たちは決して勉強ができる人たちではありません、だのに、イエス様は弟子たちに向かって「御国の弟子となった学者」と呼びます。学者とは聖書の知恵があり、神様のみ心がわかる人のことですどんなに勉強ができなくても、御国(神様のご支配)に身をゆだねて従う人は「天の御国の弟子となった学者」です


(52節)

そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」


神様のみ心がわかり、必要に応じて聖書のことばとその意味を理解する人は、まるで「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」 聖書には旧約と新約があります。旧約とはイエス様が来られるまでに神様から与えられた約束や教えです。そして、新約はイエス様による新しい教えや約束です両者は別ものではなく、一つです。旧約聖書のことばは、イエス様の新約によって意味が明らかにされています。


イエス様を信じてイエス様に従いたいと思う人は、まるで倉から新しいものでも古いものでも取り出すことができるように、旧約聖書の教えでも、イエス様による教えでも取り出すことができるし、両者が統合されています。使徒パウロはまさに両方から自由に取り出し統合していた人でした。パウロは言います。


(ローマ13:8-10)

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。


パウロのような学者でなくても、どんなに勉強ができなくても、イエス様のことばに従いたい、と思っている人は「天の御国の弟子となった学者」だし、その人は神様の知恵とみ心を手にしています。多くの旧約時代の預言者たちや聖書学者たちも神様のみ心を求めて学んできました。でも、それを完全に知ることができるのは、イエス様のことばを信じ、聖霊を受けた人です。その人は、御国の弟子です。その人は祝福されています。


(マタイ 13:16-17)

あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです


反対に、「私はわかっている」「イエスはこうだ」と決めつける人は弟子ではありません。イエス様と一緒に村で育った仲間たちは「あいつは俺たちと同じだ」と決めつけ、その力もことばも信頼しませんでした。イエス様を信頼しない人には神様の力と知恵は与えられません。


(54-58節)

それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。


天の御国の弟子とは、自分の先入観とか自分の決めつけを手放して従う人です。「どうせイエスはこうだ」「どうせ聖書はこうだ」とわかったつもりになっている人には神様の力も知恵も与えられません。

僕らが考える程度のものなら薄っぺらでちっちゃいものです

イエス様を僕らの理解できる範囲以下にするのは傲慢だし、失礼です

わかってる、と思う人にはわかりません。自分はわかってないけど、イエス様は全てをご存じと思う人にはわかります。高ぶって自分でできる、という人にはできません。自分でなく、イエス様はおできになる、と思って信頼する人にはできます。


「こうだ」と決めつけていることはあるでしょうか。手放して信頼しましょう。僕らの考えや計画は小さすぎます。そしてイエス様は大きすぎます!


マタイ14.1-12

 恐れは人を縛ります。「人を恐れると罠にかかる」と聖書は言います。(箴言29:25)「怖いから◯◯しとく」という気持ちはいつも僕らにつきまといます。ところが、恐れは僕らをさらに追い詰めます。正解は神様だけを信頼し、神様の前にへりくだり、神様に従うことですそこには安心感があります。


ヘロデ王はいつも自分の思い通りにしたい、と言う高ぶりと、人から悪く思われたらどうしよう、と言う恐れの間で苦しんだ人のようです彼は兄弟の妻を寝取りました。それをヨハネに「正しくない」と責められました。気に入らないことを言うヨハネを殺したい気持ちもありつつ、でも、ヨハネを支持する民衆からも良く思われたいという気持ちの間で苦しみました。


(3-5節)

実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。


人を恐れ、すべての人に気に入られようとするのは無理ですそれでも、人を恐れ人に振り回されてしまうのが僕ら人間の実情です。本来、僕らが恐るべきはただ一人、神様だけです預言者ヨハネは権力者であるヘロデ王に気に入られようとはせず、ただ真実を語り続けました。


一方、ヘロデはあらゆる人に自分を良く見せようとします。自分の誕生パーティの余興でダンスを見せてくれた不倫相手の娘に「願うものはなんでもあげる」と行って高ぶります。それがさらに自分を追い詰めます。娘は母親(ヘロデの不倫相手のヘロデや)にそそのかされて「ヨハネの首をください」と要求します。ヘロデは「心を痛めた」と書かれています。悪いと知りつつ不倫相手とその娘に気に入られること、そして、列席の人々に良く思われることを選び、ヨハネを殺します。


(6-11節)

たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。


悪いと知りつつヨハネを殺したことは、ヘロデを苦しめ続けました。

イエス様の噂を聞いたヘロデは、自分が殺したはずのヨハネが生き返ったと思い込んで恐れます。


(1-2節)

そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」


罪は僕らを苦しめ、恐れさせます。罪もその背後にいる悪魔も人を恐れさせ、脅し、怯えさせるのが大好きです

神様は真逆です。神様は僕らを恐れさせるのではなく、安心させようとしています。

イエス様を信じる人は、すべての罪が赦され無罪とされています。今日もイエス様は僕らのために弁護し、無罪を宣言していてくださっています。


(ローマ8:33-34)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです


人に気に入られなくても、イエス様を信じる人は神様に気に入られているし、愛されている子どもです。神様の愛と祝福を知れば知るほど、僕らは人の目を恐れて振り回される必要が無くなります。


(ローマ8.39)

どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


(1ヨハネ4:18)

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです


恐れている人は誰でしょう。恐れに振り回される必要はありません。自分の思い通りにならなくても、人から良く思われなくても大丈夫です神様の愛から引き離すものは何もありません。ハレルヤ!


マタイ14.13-21

 時間とかお金とかモノに対して、「僕の、これしかない」と思うのと、「これもあれも神様からの預かりもの」と思うのでは全然違います。

ある時、何もない田舎で成人男性だけで5000人くらいの人(女性や子どもを入れると一万人-2万人)が食べ物がない、という事態が起こりました。このまま何もしないと危険です明るいうちにすぐに近くの村まで移動させるようにと弟子たちはイエス様に提案しました。ところがイエス様は「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」とおっしゃいます。


(15-17節)

夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」


イエス様はその少しのパンを持ってくるように言われました。そして、食べ物を喜び、祝福しました。


(18-19節)

すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。


祝福するという言葉を辞典で調べると、神様に感謝し、賛美し、ほめるという意味です

イエス様は5つのパンが与えられています、と神様に感謝し賛美しました。

弟子たちは「これしかありません。」と言いますが、イエス様には「神様ありがとうございます」と賛美と感謝と祝福をささげました。


僕らは神様にちょうど良いものを預かっています。僕らのお金もモノも時間も力も全部神様からの預かりものです聖書は僕らに「何か、もらったものでないものがあるのですか。」(1コリント4.7)と言います。


神様は僕らを用いて、僕らに預けたものを使って人を助け養おうとしておられます。イエス様は弟子たちに「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」とおっしゃいました。僕らの力は小さくても、神様にささげる時に神様は大きく用いてくださいます。聖書を読んでいくと、神様は神様「だけ」で何かをすることは少ないことに気がつきます。ほとんどが弱い人間が用いられて神様の助けや愛がなされて行きます。


僕らは神様の仕事を任されています。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」と聖書は言います。(1コリント12:27)受けるより与えなさい、互いに愛し合いなさい、仕え合いなさいという教えはお金持ちに言われているのではなく、暇な人に言われているのでもなく、時間もお金もない弟子たちに言われています。


イエス様は預けている少しのものを「それを、ここに(わたしのところに)持って来なさい」とおっしゃいます。(18節)僕らが頑張るのではなく、イエス様に差し出す時に、イエス様はそれを祝福し喜び感謝して増やしてくださいます。


(20-21節)

人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。


預かってる小さなものを感謝しましょう。そして、それを差し出しましょう。イエス様の喜びが、天の喜びが地上にも降って来ます。ハレルヤ!


マタイ15.21-28

 イエス様の時代、儀式やルールを重んじるパリサイ人という人たちがいました。彼ら「私は選ばれたイスラエル人である」「私は儀式を丁寧にやっている」などなどいろんなプライドがありました。そのように自分の身分や行いを誇る人たちに、イエス様は次のように言われます。


(マタイ15:7-9)

偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」


口先では「神様、神様」と言うけど、実際は自分の身分や行いを誇っている人たちの礼拝を「無駄なこと」「虚しい」とおっしゃいました。それとは反対に、身分も立場もないけど、ただイエス様だけを求め信頼するカナン人の女にイエス様は言われます。


(28節)

「ああ、あなたの信仰はりっぱですその願いどおりになるように。」


カナン人とは神様に呪われた代名詞のような人たちでした。カナン人、というだけで汚れてると思われていたのに、悪霊に取り憑かれたカナン人なら最悪ですそのような娘を持つカナン人女性がイエス様に懇願しました。


(22-23節)

すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。


この女は、自分は神の祝福を受けない者、汚れた者であることを認めながら、必死にイエス様にすがりついています。


イエス様は最初彼女を完全に無視されました。神様の救いとか祝福は、イスラエル人→次に異邦人(外国人)、というのが聖書が教える順番ですイエス様はイスラエル人のことを「羊」「子どもたち」と呼んでいます。逆にカナン人のことを「犬」と呼んでいます。「犬」は汚れた人、という蔑称です。愛する羊や子ども達が先ですカナン人の女を助けることは、まるで汚れた犬に餌をやるような行為です


(24-27節)

しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」


普通は、「犬」と呼ばれてがっかりする場面ですところがこの女性は「その通りです」と言います。自分は落ちたパン屑を食べる犬のような卑しい者だと認めました。でも、神様がくださる恵みなら、テーブルから落ちた屑でも十分です、という告白ですそれを聞いたイエス様は言われます。


(28節)

そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。


彼女は国も身分も育ちも悪いと認めていました。でも神様の恵みはもっと大きいと確信していました。犬同然の自分に神様のひとかけらの恵みさえあればそれで十分です。イエス様はその信仰を喜んでおられます。


身分にも行いにもよらず、ただイエス様の恵みに信頼する人は主に喜ばれます。自分の汚れを認め、自分の汚れや罪を認める人は幸いです身分も、行いも肩書きも必要ありません。ただ、イエス様にひれ伏して求めるだけです

イエス様は言ってくださいます。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」

マタイ15.29-39

 イエス様はカナン人の娘を癒されました。カナン人とは、当時「あの人は汚れ呪われた残念な人たち」と誰もが思っていた人ですでも、イエス様は身分よりも心からの真実な信仰を喜んでおられたことがわかります。イエス様はその女性に「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われました。そしてその娘は癒されました。(28節)


今日の場所も見下された異邦人の土地ですプライドのある人にとっては過ごしたくない場所でした。(同じことを書いているマルコの福音書で異邦人のデカポリス地方だったと分かります。)それでもイエス様は全ての人たちを癒されます。


(30-31節)

すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。


癒された異邦人たちは「イスラエルの神」をあがめました。さらに、イエス様は癒された人たちが空腹なことを「かわいそう」と言われます。「かわいそう」というのは、相手の状況は自分のことのように思うことです


(32節)

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」


ちょっと前も(14章でも)何もない場所で「群衆に食べ物がない」という危機がありました。その時は弟子たちが率先してイエス様に提案しました。でも、今回は弟子たちは何も言いません。ユダヤ人の言い伝えでは、異邦人と食事をすることは禁じられています。弟子たちにとっては「交流が禁止されている異邦人」であっても、イエス様は率先して「かわいそうに」「どれぐらいパンがありますか。」と対応されます。


イエス様が自分のことのようにかわいそうに思う人は身分に関係ありません。さらにイエス様が関心を持っておられるのは霊的なことだけではなく、体のことも食料のことも、全部です神様の願いは心も魂も体も健康でいることです。(3ヨハネ1:2)霊的な健康と肉体的な健康に優劣はありません。両方がセットで人間です。全ての人が神様にとって大切な人ですその差はありません。少しのパンと小さい魚を感謝して弟子たちに与え、弟子たちは群衆に配りました。


(34-38節)

すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つですそれに、小さい魚が少しあります。」すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。


イエス様は全ての人の王であり、全ての人の神です。◯◯人だから、とか、◯◯教の人だから癒さないとか、与えない、ということはありません。イエス様は僕らが考えるよりもずっと大きな方ですイエス様は僕らを愛してくださいます。霊的なことだけでなく生活全部を自分のことのように思ってくださっています。そして、信仰者であってもなくても、全ての人を愛しておられます。僕らの目がますます開かれ、イエス様の心が僕らの心とされますように。


(マタイ5:45)

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです


マタイ16:1-12

 カタチや証拠を強く求めるのは、疑っているし、信じたくないからです当時の聖書の指導者たちであるパリサイ人たちやサドカイ人たちは、イエス様に証拠としての奇跡を要求しました。


(1節)

パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。


本当に相手を信頼している時には証拠を出せとか見える形を出せ、とは思いません。相手を愛さず、信頼しない時に見える形や証拠を求めます。そのことを「悪い、姦淫の時代は証拠としての奇跡を求めています」とイエス様は言われます。(4節)まるで夫婦が相手を疑い、信頼せずに浮気をしているかのように、神様を疑いキリストを疑い、信頼しないで他のものに浮気している状態です

イエス様が与えてくださる唯一のしるしは「ヨナのしるし」でした。


(4節)

悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」


ヨナのしるしとは、旧約聖書に登場する預言者ヨナが3日間海に沈み、魚の腹にいて、3日目に地上に出てくる話です

同じように、イエス様も殺されて3日目に墓から出てきます。

これは、イエス様は死よりも強い権威を持っているしるしです

イエス様自身、「わたしはいのちです」と何度も言われています。死はイエス様にとって脅威ではありません。いのちそのものだからですイエス様が死から復活されたことは唯一の、そして最高の証拠としての奇跡です


パリサイ人たちは見えるカタチを求め、儀式とか外見を熱心に整えました。サドカイ人は永遠のいのちや、死者の復活、天使の存在を否定しました。目に見える物しか信じない人たちです。神様を信頼するよりも、見える儀式や奇跡を信頼することをイエス様は「偽善者」と言われました。イエス様はそのような彼らの教えに「よく気をつけなさい」とおっしゃいます。


(6節)

イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」


僕らも、イエス様を信頼するよりも、「私が◯◯をしているから」「お祈りのをよくやっているから」など、見えるカタチや行いだけを求めてしまっていないか、よく気をつけなさい、と言われているかのようです

この時の弟子たちは、目に見えることしかわからなかったようです。「誰がパンを忘れたのか」など、目に見えることだけが彼らの全てでした。


(7-8節)

すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。


イエス様にとってパンが幾つあるか、ないか、など小さなことです。何の問題でもありません。

弟子たちは、つい最近イエス様によって少ないパンが増やされ、満腹したばかりです。だのに、弟子たちは忘れて「私たちがパンを持って来なかったからだ。」と心配します。イエス様は言われます。


(9-11節)

まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」


むしろ気をつけるべきことは、目に見えるカタチやモノを求めてしまうことです。「私は◯◯したから、神様も祝福してくださいね」とか、「◯◯できなかったから悪いことが起きた」などなど、行動次第で神様が祝福してくれたり、悪いことを与えたりするかのように思うことも誤解です自分の行動や形にだけに依り頼むことはまさにパリサイ人やサドカイ人の教えです


(12節)

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。


主に信頼することだけで十分です僕らが見えるものや形に振り回されず、今日もいのちそのものであり、全ての王であり支配者であるイエス様に信頼して委ねましょう。主こそ全ての権威をお持ちです。心配しなくても大丈夫です主は今日も一緒にいてくださいます!

マタイ16.13-28

 「教会」と聞くと建物のイメージがありますが、建物という意味はありません。教会は神様が集めてくださった集会とか、群れ、という意味ですイエス様は「わたしの」教会を建てるとおっしゃいました。「牧師の」教会でも「信徒の」教会でもなくありません。「イエス様の」教会です。しかも、教会は天の御国と繋がっていて、さらに、教会は死よりも強いと言います。その「カギ」を与えるとイエス様はおっしゃいます。


(18-19節)

わたしはこの岩の上(イエス様を救い主と告白する信仰の上)にわたしの教会を建てます。ハデスの門(死んだ人が行くとろ)もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」


ペテロだけに特別なかぎが与えられた、とも読めますが、18章によると、天の御国のカギは2人でも3人でも集まるところに与えられています。


(マタイ 18:18-19)

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。


イエス様の教会はイエス様と一つですイエス様こそ天の王であり、地の王です全ての権威を持っている王の王ですそのご計画や御心を実際に行うためにカギが預けられているのが教です。だから、教会はイエス様のみことばを求めて、従います。イエス様の思い通りになるように、イエス様の名前を預けられ、イエス様の名前で祈り行動するのが教会です。ある人は「東栄福音キリスト教会は天の御国の札幌支店、モエレ営業所みたいだ」と言いました。世界のトップである社長の方針をよく聞いて、それに従うのが良い営業所ですですが、「こんな僕らに天のカギを預けて大丈夫?」と心配にもなります。そんな僕らに、カギを預かる人たちがどうすればいいか書かれています。


(24-25節)

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです


自分を捨てるとか、十字架を負うとか、暗ーいイメージがありますが、この箇所は僕には明るいメッセージに聞こえます。実はこれこそが希望に満ちた命と力に出会う方法だし、判断を間違わない方法です

なぜなら、僕らが考える自分の生き方、自分のこだわり、自分の好み、自分の計算、経験、計画は神様の前では間違っているし、小さいし、暗いし、その先に命がないからです


むしろ、その考えは手放し、イエス様と一緒に自分は死んだと認める人こそが、自分の考えを遥かに超えた天の命、考え、計算、計画が与えられます。本当の命、本当の力、真理は自分の中にはないし、出ません。

自分はこう思う、ああ思う、こうだああだ、とこだわってる時は、実は最も自分らしくありません。そこには高ぶり、絶望、罪、偏見が混ざっています。神様は本来の自分らしく生きるようにと願っておられます。その姿は、神様に似せて作られた僕らですイエス様を信じた人は、イエス様に似せてますます新しくされていくのが本来の姿です


「十字架を負う」とは、自分は死んだと思うことです。ところが、その時に本来の命がスタートし、天の御心が僕らの心に与えられます。


(ローマ 6:4)

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです


(ローマ 6:11)

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。


キリストが言われることを僕らもするようになります。しかもそれはロボットとか操り人形ではなく、本来の自由な、生き生きとした姿です。自分は死んだと思うことは、喪失する悲しい生き方ではなく、喜びと希望と命に満ちた生き方です


(25節)

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです


もちろん、イエス様に従うことは、苦しみも迫害もあります。けれどもそれもイエス様と一緒にです僕らは天の御心を地上でするカギを与えられています。地上のことを思わず、自分はイエス様と死んだと思う時に、新しい天の命が注がれ、真理が与えられます。「自分メガネ」を外して「イエス様メガネ」をかけるようです見えなかった真理が見えるようになります。


今日も自分は0パーセント、イエス様が100パーセントの喜びが満ちますように。