神様を知り、神様に愛され、神様のご支配に入れられた人は「太陽のように輝きます」と言われています。どんなにひどいことをした人もイエス様はその人を赦し「正しい人たち」と呼ばれます。ひどい人だったのに、です。将来、僕らが思う以上の栄光が約束されています。まるでキリストの姿のように変えられ、輝きます。
(43節)
そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
逆に、神様に逆らい続ける人たちは将来、火に投げ入れられ泣いて歯ぎしりすると言われています。
(40-43節)
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
永遠の恥と苦しみか、永遠の栄光か、二択です。
この情報はスルーする人が多いようです。イエス様は「耳のある者は聞きなさい。」とおっしゃいます。(43節)
聞く気のない人にはわかりません。
無視する人が多い中、天の御国を知った人は、まるでとんでもない宝を発見したかのように喜びます。天の御国=隠されている宝のようです。
(44節)
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
全ての財産を売り払ってでも永遠に価値のあるのが天の御国です。
この宝を手にするためなら、この世での財産や犠牲はとるに足りないほど小さなものです。
多くの先輩たちが、この宝の価値の大きさを知り、はかない地上の楽しみよりも、永遠の宝から目を離すことはありませんでした。
(ヘブル 11:13)
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
(ヘブル 11:25-25)
(モーセは)はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
(ローマ8:18)
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
パウロはものすごい学歴と地位があった学者です。でも、イエス様の御国を知ったために、その全てを手放しました。この世の栄光はイエス様の素晴らしさに比べたらゴミのようだ、と言っています。
(ピリピ3:7-8)
私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
逆に、この世で莫大な富や栄光を手に入れても、将来火に投げ入れられ、恥じ入り、泣いて歯ぎしりするならなんの価値もありません。
(41-42節)
彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
また、天の御国は宝(高価な真珠)を探す商人のようだ、とイエス様はおっしゃいます。今度は神様の側で宝を探しているかのようです。
天の御国=宝を探す商人です。
(45-46節)
天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
イエス様の王国は宝を探しています。そして、宝のためなら全てを犠牲にしてそれを買うとおっしゃいます。なんと、僕らのことをその宝、良い真珠のようだと言ってくださいます。イエス様は僕らを求め、僕らを手に入れるために全てを捨て、ご自分の命さえ犠牲にしてくださいます。それほどまでに僕らのことを価値があると思い、探し、求め、犠牲を払ってくださるのが天の御国です。
人生いろんな心配がありますが、天の御国を僕らは手に入れています。また、イエス様に探され、見つけ出してもらいました。
この特権はこの世のどんなものより価値があります。
イエス様の王国に参加する栄光と比べれば、この世のどんな富も栄光もちっぽけです。
この特権から、栄光から目を離さずに行きましょう。全てを犠牲にしても価値があるのが天の御国です。僕らは「御国で太陽のように輝きます。」(43節)想像以上の、ものすごい特権に向かっています。
主は素晴らしいです。ハレルヤ!