2023年2月27日月曜日

マルコの福音書1.12-20

 マルコの福音書1.12-20

スポーツ選手は勝てる監督につきたいと願います。その監督に従えば勝利の栄光を手にすることができるからです。俳優は売れる監督に採用されたいと思うし、サラリーマンも自分に良くしてくれる会社に入りたいと願います。
つまり、みんな自分を幸せにしてくれる人や権力や組織に入ることを願います。
ところが、この世の幸せはつかの間です。
大丈夫、と思っていた監督も間違えます。期待していた栄光は消えていきます。この人と結婚すれば幸せになれる、と思っても実際は話が違った…ということもあります。この世には「絶対に大丈夫」という人はいません。
莫大な富と名誉と知性を手にいれたソロモン王は、どんな富も知識も仕事も快楽でさえも「空の空」(むなしく意味がない)と言います。(旧約聖書 伝道者の書1章) なぜなら、それは過ぎ去っていくものだからです。
ところが、イエス様だけは違います。
イエス様に従うことはどんな人に従うことよりも、どんな知性や富を手に入れることよりもどんな仕事よりも価値があります。なぜなら、イエス様は終わることのない、そして間違うことのない王だからです。
14 イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
15 「時が満ち、神の国(王国)は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエス様はすべての人を神様の王国に招いてくださっています。神様の王国とは罪も悲しみ叫びもない、完全な祝福と喜びが満ちている王国です。その王国に僕らも招かれています。僕らは奴隷にされるのではなく、愛される子どもとしてこの国に招かれています。
この王国に入る方法は「悔い改めて福音を信じる」ことです。
「悔い改める」とは、方向を変えることです。自分の考えや誰かの考えに縛られるのではなく、また、世の力に頼るのではなく、神様を信じ、そのことばに従うことです。なぜなら、神様のことばは完璧です。間違いがありません。しかも、そのことばは僕らを自由にし、本来の良い自分らしく作り替え、成長させてくれます。
「福音」とは「良い知らせ」です。イエス様は僕らの罪を完全に赦しきよめてくださいます。そして王国に入れてくださいます。これが「福音を信じる」ことです。「信じる」とは、信頼して自分の人生を預けることです。体重を乗せることです。これが信頼することです。ちょうどイスを信じて体重を預けて座るのと同じです。
イエス様は僕らに言われます。
「時が満ち、神の国(王国)は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
この時、イエス様は漁師の仕事をしている2人の若者に声をかけました。
16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
この2人の漁師のシモンとアンデレは大事な商売道具の網を捨ててイエス様に従いました。道具よりも、イエス様と一緒に人々を王国に招く仕事の方が良いと思いました。さらに、イエス様は他の2人の若者にも声をかけます。
19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
こちらの2人の漁師、ヤコブとヨハネは舟と網だけでなく、従業員たちもいたようです。しかし、ビジネスで成功することよりもイエス様に従う方を選びました。
僕らにもイエス様は呼んでくださっています。神様の王国のための仕事を僕らも一緒にするように招かれています。
もし、トランプ大統領に僕が呼ばれたら(呼ばれないと思うけど)、きっと飛行機代も出してくれるし、滞在費も心配いらないと思います。
でも実際、イエス様には呼ばれています。この方こそこの世のどんな権力者とも比べられない永遠の王、この世界を作り、今もご支配しておられる方です。
この方の前では網も舟も小さなものです。この方以上に大事なことはこの世にはありません。
イエス様を選びましょう。イエス様を愛し、従うことはどんなことよりも価値があります。僕らの小さなアタマで考える心配を遥かに超えた神様の王国が来ています。
15 「時が満ち、神の国(王国)は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
17 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
従う時に、想像を超えた祝福の人生がスタートします。この方は絶対に裏切ることがありません。

マルコの福音書2.18-28

 マルコの福音書2.18-28

新約聖書は福音を伝えています。福音とは良い知らせです。神様の赦しは良い行いをしたら合格、できなかったら不合格、ということではありません。僕らが何かをしたからでなく、イエス様が血だらけで十字架にかかり、捨てられる役目を終えてくださったから僕らは赦され、神様に受け入れられます。
ところが、当時の人々はがんばって良い行いをしたら合格、と思っていたようです。断食するのも彼らが神様に受け入れられるための努力でした。ところが、イエス様の弟子たちは断食しませんでした。それを見て彼らは質問しました。
18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
イエス様の答えはこうです。イエス様ご自身のことを「花婿」と言っています。
19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
聖書はイエス様のことを「花婿」とか「夫」と言うことが多いです。そして、信じる人たちのことを「花嫁」とか「妻」とか「花婿の友だち」と言うことが多いです。いずれにしても、イエス様と一緒にいることは、愛と喜びに満ちている状態です。もう神様に受け入れられている状態です。イエス様を信じて心にお迎えしている人は、神様をお迎えして、神様と一緒にいるのと同じです。
(マタイ 10:40)
わたし(イエス様)を受け入れる者は、わたしを遣わした方(神様)を受け入れるのです。
イエス様を信じない人は旧約聖書に書かれた律法だけを信じていました。さらに自分流に解釈して、○○でなければならない、という人間の教えを沢山作り、厳格に守っていました。イエス様という新しい命、新しい心を受け入れることと、○○すれば救われる、とか、○○しなければならない、という教えは両立しません。イエス様を信じることは、新しい命の始まりです。
新しい布は洗うと収縮します。だから古い布と新しい布は合体できません。
そのように、○○すれば救われる、という教えとイエス様をお迎えして内側から変えられる福音は合体できません。
21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
また、新しいワインは発酵して膨張するそうです。なので、古くて堅い革袋に入れると破れてしまいます。そのように、イエス様をお迎えして内側から神様にしたがいたい、という新しく変えられていく心と、古いガンコな○○でなければならない、という考えは合体できません。
22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
たしかに旧約聖書には○○してはならない、とか、○○しなければならない、という教えがたくさんありますが、それは人を縛り無理やり変えるのではなく、赦された喜びや感謝によって、また、イエス様と一緒にいる新しい命によって変えらるものです。
そもそも、旧約聖書の○○してはならない、という教えには神様の愛があります。神様は僕らを生かし、助け、守るために律法を与えてくださっています。
神様のイキイキとした愛が分からない人はいつも文字だけ、ルールにこだわります。
23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
旧約聖書に安息日に穂を摘んではダメ、という律法はありません。むしろ、小腹がすいたら他人の畑でも自分の分だけなら食べてよい、という教えさえあります。
律法は人間が守られるための神様からの愛のルールです。しかし、神様との愛の関係がない人は、神様の教えを勝手に拡大解釈して、穂を摘んで食べることを、「刈り入れの仕事をした、けしからん」と拡大解釈して責めます。イエス様は言われました。
27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
28 人の子(イエス様)は安息日にも主です。」
週に一日安息をとり、仕事を休み神様を礼拝することは、人間が人間らしく生きるためのあり方として、人間の祝福のために与えられた律法です。小腹が空いてもガマンするためのルールではありません。
イエス様をお迎えすることは、律法を守ることになります。しかも、うわべだけでなく、神様が律法によって僕ら人間を守りたい、愛したい、という真意を受け取って喜んで従うように変えられます。
○○べき、〇〇であらねば、とガンコになると人を責め、自分を責めます。
そして行いによって自分を誇ったり落ち込んだりします。また、行いによって他人を評価します。しかし、福音はイエス様の十字架の赦しを誇ります。
他人を責めたり自分を責めたりしているなら、ガンコな堅い革袋のようです。
神様とのイキイキとした関係をしらない律法学者のようです。
聖書の教えは人を苦しめたり裁いたりするものではなく、人を生かすものです。
僕らがガンコなルールに縛られるのではなく、生きているイエス様との生きた関係の中を生きるように変えられます。
律法は人を縛るのではなく、人を愛することです。
今日もイエス様と一緒にいることの喜びがありますように。

マルコの福音書3.1-12

 マルコの福音書3.1-12

神様は教えで僕らを縛るのではなく、ことばによって僕らを生かそうとなさる方です。聖書の教えは僕らを生かし祝福する命のことばです。
ところが、僕ら人間は神様の命と愛を考えず、単なるルールのように受け取ってしまいます。しかも、僕らは神様の教えを人を生かすためでなく、人をさばくために利用しようとします。
イエス様の時代の聖書の先生たちもそのように聖書を命と愛のないものにし、人を裁くための基準にしいました。彼らはイエス様を訴えるための材料を得るためにイエス様を監視していました。
1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
2 彼ら(当時の聖書の先生たち。パリサイ人)は、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
神様にとってご自分の教えを曲解し、ご自分の教えを人同士が裁き合い縛り合うための道具とされているのは悲しみです。旧約聖書の教えに「安息日(休む日)を守れ」というのがあります。(出エジプト記20章など多数) 神様が安息日を守るように教えたのは、人を生かし、休ませ、祝福するためにです。
だのに、ルールを守るかどうか、ということばかりに注目しそれに縛られ裁き合うのが僕ら人間の醜い姿です。
3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
神様が安息日を決められたのは、人を癒し生かすためです。それを他人を裁くためのルールにしてしまっているのはイエス様にとって怒りであり悲しみでした。聖書の教えの真意を表すためにイエス様は安息日に手が不自由な人を癒されました。しかし、敵はさらにイエス様を殺そうとします。
6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。
これが僕らの罪の現実です。
聖書の教えさえも自分の正当化するために「利用」しようとし、自分の気に入らない人は殺そうとします。安息日の教えは疲れた人、悩む人、重荷を負う人を癒し解放するための教えです。その日、大勢の人たちがイエス様のところに押しかけました。
7 それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、
8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。
9 イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。
10 それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。
神様の願いは人が癒されることです。
そして、そのために週に一日を使うようにと意図されているのが安息日の教えです。「私は神様のルールを守ってる」とか、「私は祈ってる」というのが目的になったり誇ったりするなら意味がありません。
神様の願いは僕ら人間が癒され、自由にされ、祝福されることです。
今日もイエス様は生きていて力があります。聖書のことばは僕らを窮屈にするものではなく、内側から新しく変えてくださることばです。
聖書を読むことは、単なる知識を増やすことではありません。
聖書の教えは、まるで食事を食べるように、命をいただくことです。
今日も聖書のことばが僕らの力となり命となりますように。聖書のことばが僕らが愛し合い赦しあう結果を生みますように。

マルコの福音書3.13-19

 マルコの福音書3.13-19

僕らは自分でイエス様を信じる決心をしたと思っていますが、イエス様は「わたしがあなたがたを選んだ」とおっしゃいます。
(ヨハネの福音書 15:16)
あなたがたがわたし(イエス様)を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
イエス様は12人の使徒を選びました。選ばれた理由は能力があったからではなく、ただイエス様が望まれたからです。
13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。14 そこでイエスは十二弟子を任命された。
12人は育ちも考えも全然違う人たちです。聖書に12人の名前がリストアップされています。例えば「熱心党員シモン」と書かれ得ています。熱心党員とは、当時、ユダヤ人たちはローマ帝国に支配されていたことが許せず、「いつかローマをやっつけてユダヤ人国家を作るんだ!」という人たちです。かと思えば逆にローマ帝国にへつらって税金を集めていた「マタイ」の名前もあります。考えが全然違う人たちの集まりが12使徒です。ペテロやヨハネの名前もありますが、彼らは無学な漁師です。ペテロはイエス様が逮捕された時に「あんな男は知らない」と3度も裏切った男です。また、イエス様を裏切りお金で売り渡したユダの名前もあります。
12人は弱く欠点だらけです。しかもバラバラです。そんな彼らをイエス様は望んで選ばれました。彼らが選ばれた目的が書かれています。
14 それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
弱い彼らはまずイエス様の近くに置かれる、というのが目的です。イエス様の側にいて、イエス様と交わることです。これは僕らも同じです。僕らが選ばれたのは、イエス様の近くにいて交わるためです。次に、イエス様に遣わされて福音を伝えるのが目的です。福音(良い知らせ)を伝えるのはイエス様に選ばれた弱い12人の使徒です。そして、現代は僕ら教会が福音を伝えます。さらに、イエス様は悪霊を追い出す権威さえ与えてくださいました。すべては僕らの力ではなく、イエス様の権威です。
今日も教会は優れた人の集まりでなく、弱い人たちの集まりです。考えも育ちもバラバラです。そんな人たちが選ばれ、力を与えられ、互いに愛し協力し合うようにされています。イエス様のことを伝える力は僕らからは出ません。イエス様が与えてくださいます。
僕らは選ばれました。弱くても、欠点があっても、考えがバラバラの仲間たちでも大丈夫です。イエス様が僕らを用いてくださいます。選ばれたことを喜びましょう。感謝しましょう。僕らでなく、イエス様の力が現されるのは、僕らの弱さがあるからこそです。ハレルヤ!

マルコの福音書3.20-35

 マルコの福音書3.20-35

イエス様の働きはいつも誤解され、勝手なことを言われて反対されます。イエス様はまず、身内に誤解され反対されました。家族はイエス様のことばよりも他の人たちの「気が狂っている」ということばを信じました。
21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。
次にイエス様は、旧約聖書の専門家から誤解され反対されます。しかも彼らはエルサレムからイエス様の所にやってきて批判します。旧約聖書の先生たちの本部のようなエルサレムからイエス様の所に批判するために学者たちがやって来ました。
22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブル(悪霊のかしら)に取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。
イエス様は気が狂っているのでもないし、悪霊のかしらに取り付かれているのでもありません。
イエス様は悪霊を追い出す力があります。この世でイエス様の力よりも上のものはありません。…ですが、
家族も律法学者たちもイエス様のことがわからず、誤解し反対します。
そもそも、すべての人間は神様を離れ、神様のことが分からなくなってしまっています。
そんな僕らがもう一度神様を知ることができるように、神様は聖霊を送ってくださいます。
(1コリント 12:3)
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
僕らに聖霊が与えられた時にはじめてイエス様のことが分かるようになるし、信じるように変えられます。
(ヨハネ 15:26)
わたし(イエス様)が父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
イエス様は僕ら人間のすべての罪の罰を引き受け、十字架で死んでくださいました。どんな罪でも赦されます。イエス様の十字架による赦しは完璧です。またもしも、それが信じられるとすれば、それは100パーセント聖霊の助けによるものです。
聖霊によらないと、「イエスは主です」とは信じられないし、言えません。
どんな罪でも赦されます。イエス様を信じる人は救われます。赦されます。でも、そのイエス様のことを教えてくださるのは聖霊です。もしも、聖霊を拒否するなら、イエス様を知ることも信じることもできません。
28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
もしもイエス様を信じているなら、僕らに聖霊が与えられている証拠です。
そして、聖霊が与えられている人は、イエス様のご計画を一緒にやりたい、と思うようになります。イエス様はそんな彼らのことを、母、兄弟、姉妹と言ってくださいます。
33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
35 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
イエス様を信じて誤解されたり反対されたりすることもあるかもしれません。でも、誤解されたり反対されたりすることは、しっかりとイエス様とつながり、イエス様の家族とされている証拠です。
イエス様と一緒に迫害されることがあっても大丈夫です。天国での報いは大きいです。
(マタイの福音書5:11-12)
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
僕らはイエス様に選ばれました。今日もイエス様の家族です。
恐れる必要はありません。どんなに反対されても天からの報いは大きいです。
喜びましょう。聖霊が与えられている証拠です。僕らはイエス様のからだの一部です。家族です。子どもです。そして妻です。僕らはイエス様とつながりました。イエス様には敵はありません。悪霊よりも強い方につながっています。
34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
35 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
今日も明日も安心して歩みましょう。イエス様は最強です。

マルコの福音書5.1-20

 マルコの福音書5.1-20

僕らが「悪霊」と聞くと、「怖い」と思うかもしれません。でも、イエス様の前ではめちゃくちゃ弱いのが悪霊です。悪霊はイエス様を怖がっています。聖書にイエス様と悪霊が出会う場面がありますが、いつも悪霊の方が怖がっています。
もしも僕らがイエス様を信じイエスとつながってるなら悪霊は敵ではありません。恐れる必要はありません。イエス様が近くに来ただけで悪霊は過剰に反応し、イエス様の前にひれ伏して命乞いをします。
1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
悪霊はイエス様と一緒にいない人に取りつき、その人をめちゃくちゃにすることがあるようです。取りつかれた人は悪霊の言いなりになり、コントロール不能になり自分で自分を傷つけます。
3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
悪霊はイエス様がいない時にはやりたい放題です。特に人間が自分を傷つけることが悪霊は大好きなようです。彼は悪霊に取りつかれて自分を傷つけていました。でも、悪霊はイエス様が来た、というだけで恐れてひれ伏します。
6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。
イエス様がこの地域に来てくださった理由は、悪霊に取りつかれたこの人を解放するためでした。取りつかれた人は人間には助けようがありません。ですが、イエス様は悪霊を押し出す方です。イエス様が「この人から出ていけ」と言われると出て行きます。悪霊たちはイエス様に懇願しました。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
イエス様は悪霊に取りつかれたその人を愛しておられます。
この人のためだけにこの地域に来られました。イエス様は悪霊を嫌っていますが、その人のことは愛しておられます。2000匹の豚は狂ったように湖に次々と落ちて溺死しました。しかし、一人の人は救われました。どんなに悪霊に取りつかれた人でも、イエス様はその人を愛しておられます。2000匹の豚よりも一人の人です。
イエス様がこの地上に来られたのは、僕ら人間を悪魔や悪霊から解放するためです。イエス様は悪魔の支配を打ち壊してくださいます。
(新約聖書1ヨハネ 3:8)
神の子(イエス様)が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
(新約聖書コロサイ 1:13)
神は、私たちを暗やみ(悪魔や悪霊)の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
イエス様は圧倒的に勝っています。イエス様を信じた人に悪霊が取りつくことはできません。もしも悪霊からの誘惑や攻撃を感じたら、一緒にいてくださるイエス様に対応していただきましょう。相手は恐れて逃げていきます。悪霊はイエス様を恐れています
僕らが悪霊を恐れる必要はありません。今日も勝利のイエス様を信頼して歩みましょう。ハレルヤ!

マルコの福音書5.20-34

 マルコの福音書5.20-34

イエス様が僕らに願っておられることは「信仰」=「信頼」です。イエス様を信頼することは心の中だけのことではなく、信頼を具体的に行動に現わすことです。
病気のため12年もの間出血が止まらず周りから「汚れた女」と思われていた女性がいました。旧約聖書の律法によるとこの女性は汚れており、人に触れることが許されない人です。そればかりか、彼女が座ったものや寝具までが「汚れている」とみなされました。(旧約聖書レビ記15章)
この女性が癒される方法はただイエス様を信頼することだけです。イエス様なら癒しきよめてくださる、と彼女は信頼しました。そして彼女は具体的に行動に移しました。
25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
彼女は単純に、子どものように信じました。「イエス様に触れば直る」という教えは聖書にはありません。聖書全体を知らないような女性ですが、子どものようにイエス様を信頼しきっています。イエス様は彼女の信仰を喜んで下さいました。
34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
彼女を癒したのは本気の信仰=信頼です。イエス様を信頼する人は失望することがありません。「彼(イエス様)に信頼する者は、失望させられることがない。」とあります。(新約聖書ローマ10.11)
安全保障を失った人はイエス様への信頼が純化されます。
神様は僕らの神様への信頼を太く強くするために時々崖っぷちに立たせてくださいます。弱い時こそ神様だけを信頼して行動する時です。
疲れていなければ、神様の力を体験することはできないし、時間が、お金が足りないからこそ神様の愛と恵みを体験できます。弱い時こそ神様への信頼が増す時です。
僕らに問われているのは本当に信頼しているのかどうかです。惰性や義務なら信仰ではありません。保険をかけて安全圏内だけを歩くのも信仰ではありません。神様が求めておられるのは信仰です。イエス様は言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」
今日もイエス様を信頼して行動に移しましょう。イエス様に信頼する者は、失望させられることがありません。ハレルヤ!!

マルコの福音書5.35-43

 マルコの福音書5.35-43

イエス様には「時間がない」とか「間に合わない」ということがありません。
ある時、小さな女の子が死にかけていました。その父親は必死でイエス様のところに駆けつけ、助けを求めます。ところがこの緊急事態に別の病人がイエス様に癒しをもとめ、イエス様はその人の対応に時間とりました。そうしている間に女の子は死んでしまいました。
35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者(女の子の父親)の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
女の子は死にました。が、イエス様にとって死は手遅れではありません。イエス様には間に合わなかった、ということがありません。女の子が死んでもイエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われます。イエス様は死人を復活させ、完全に癒すことができるからです。
38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。
僕らは死には勝てないと思って「死なないように」とがんばります。ですが、イエス様は死よりも強く、死は終わりではありません。「起きなさい」と言われると少女は起き上がります。ことばだけで世界を作ったイエス様はことばだけで死人を復活させることができます。
イエス様を信頼することは、死よりも強い方を信頼することです。
時間がない、と思っているのは僕ら人間だけです。
死んだらどうしよう、と恐れているのも僕ら人間だけです。
イエス様には平安といのちが満ちています。イエス様には足りないものが何もありません。そして、僕らがこのイエス様を信じてつながることは、平安と尽きない命につながることです。
(新約聖書 1コリント 15:55-57)
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(…中略…)神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
イエス様は無敵です。イエス様を信頼するなら、何も恐れることはありません。

詩篇4篇

 詩篇4篇


人生に恐れはつきものです。人から批判されたり、攻撃されたりすることもついてもあります。それでも、神様は僕らを見放す事はありません。今日も神様は僕ら赦しきよめ、無罪宣言をしてくださっています。神様の愛と憐れみはなくなることがありません。この詩篇を作ったダビデは長年敵に命を狙われ逃亡生活を強いられていました。ストレスと緊張が続く生活ですが、彼は祈りの中で神様の愛と憐れみを確認して安心して眠ることができました。悪い状況の中でもなくならない安心は100パーセント神様からいただくものです。


(7-8)

あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。

平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。


なぜ、追い詰められているのに平安なのか?それは神様との対話の中で愛され喜ばれていることを知るからです。目の前の状況は悪く、不安材料だらけです。でも、神様を呼び求め、祈る時に本当のことをがわかり安心します。まず、神様は神様を信頼する人を「聖徒」として、特別な愛と憐れみを与えてくださっています。敵が愛しているものは自分の栄光とか、自分の権力とか、消え去るものばかりです。ところが、神様に愛され、神様を愛し、神様の栄光を求めることは永遠になくならない最高に価値のあることです。


(1-3)

私が呼ぶとき答えてください。私の義なる神。追いつめられたときあなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ私の祈りを聞いてください。

人の子たちよいつまで私の栄光を辱め空しいものを愛し偽りを慕い求めるのか。セラ

知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主は聞いてくださる。


恋人同士や夫婦が愛し合い喜び合う関係にとどまるためには、相手との関係を壊す浮気心とか、相手から離れて行く原因となるものや、悲しませ怒らせることをやめ、捨てて行くことです。ダビデは神様に喜ばれ、神様からいつも御顔の光が注がれるために、自分の罪を告白し捨てるようにしていました。それは毎日毎晩の作業でです。


(4-5)

震えわななけ。罪を犯すな。心の中で語り床の上で静まれ。セラ

義のいけにえを献げ主に拠り頼め。


神様に喜ばれていることはどんな収穫や収入より嬉しいし安心できることです。他の人からとか、状況が良くなったから、ではなくて神様が喜んでくださっているから、です。


(6-8)

多くの者は言っています。「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と。主よどうかあなたの御顔の光を私たちの上に照らしてください。

あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。

平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。



イエス様を信じる人は罪に定められることはありません。罪を告白する人は赦されます。(1ヨハネ1.8-9)罪をやめて神様に喜ばれている確信はどんなことよりも嬉しいことです。その喜びと平安は心の内側に満たされます。それを取り去ることができるものはありません。


今日も静まって神様と対話しましょう。神様は今日も僕らを愛しておられます。平安と喜びを与えようとしておられます。それを受け取らないようにしているのは僕らの罪とか、聖書の真実を知ろうとしない無知とかです。静まって神様の言葉を聞きましょう。静まって自分の内側にある不信仰や罪を告白して捨てましょう。「あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。」ハレルヤ!

2023年2月21日火曜日

マルコの福音書6.1-13

 マルコの福音書6.1-13

この世は権威を求めます。○○学校を卒業したとか、○○の資格をもっているとか、〇〇を受賞した、ということで力を持ち影響力を持とうとします。ところが、イエス様はそのような資格や賞や学歴を何ももっていません。ですが、この世の全ての知恵と権威と栄光を持っている王の王です。
1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエス様の地元の人たちはイエス様を信頼しませんでした。信頼しない人にはイエス様は癒しも救いも与えることがありません。
5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
イエス様は圧倒的な権威を持っています。そしてそれを信じない地元の人たちを驚き悲しんでおられます。逆に、イエス様を信頼する弟子たちには、イエス様の権威を預けてくださいました。
7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、
13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。
僕らクリスチャンもイエス様の権威を預けてくださっています。僕らはイエス様の体の器官であり、イエス様の名(権威)によって祈ります。そしてその祈りは聞かれます。イエス様の権威ある祈りとされるからです。
弟子たちが権威を預かるのは、警察官が国から権威を預かるのと似ています。
警察官はか弱い人であっても、彼は国から権威を預かっているので暴走するダンプカーに止まるように命じることができます。権威は上から預かる力です。本人の強さは関係ないです。同じように僕らクリスチャンはイエス様の権威を預かっています。
イエス様の名によって病気が治るように祈り、悪霊が出て行くように祈りましょう。僕らの熱心さや力ではなく、イエス様にはその力があります。イエス様の名(権威)によって祈るようにと聖書は教えています。
イエス様は権威を与えてくださる方です。まず12弟子を任命し、彼らは預かった権威によってイエス様と同じように教えを広め、悪霊を追い出し、病人を癒しました。
弟子たちが頼るのはイエス様の力だけです。何も保証なしで行きなさい、とイエス様は言われました。
8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」
クリスチャンは圧倒的な権威と守りの中にあります。イエス様は全てを支配し与えてくださる王の王です。その名(権威)を預かっているのがクリスチャンです。悪霊を恐れる必要は全然ありません。悪霊はイエス様の名で祈る時に出て行きます。必要なものが足りない、と心配する必要もありません。イエス様こそ全ての必要を与えてくださる方です。
イエス様は悪魔に勝利しています。また、クリスチャンも悪魔に勝利しています。悪霊を追い出す権威を僕らは預かっていますが、それは権威者であるイエス様に従うこととセットです。イエス様の権威を預かるのは、イエス様を信頼し従うことが前提です。従わない人に権威を預けることはありません。
自分の心の中を良く見てみましょう。敵対心やさばきや悪口やねたみがあったら「捨てます。やめます」と祈りましょう。「心の中に苦いねたみや敵対心」があるなら、それは「悪霊に属するもの」です。(ヤコブの手紙3.13-15) 
イエス様は僕らを愛する同労者としてくださっています。僕らはチームメイトであり、妻であり、親友であり、弟子です。ますますイエス様の権威を信頼しましょう。イエス様こそ王の王、全てです。
(新約聖書マタイ 28:18-19)
わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

マルコの福音書6.14-29

 マルコの福音書6.14-29

神様の教えに従うか、人に従うかの2択を迫られる場面があります。ヘロデ王はまさにこの葛藤の中を歩んだ人です。最後に彼は神様よりも人を選び、その結果は悲惨でした。
まず、ヘロデ王は兄弟の妻(ヘロデヤ)と不倫関係になり、預言者ヨハネはヘロデ王に「それは良くない」と言い続けます。ヘロデはヨハネの教えが正しいとわかっています。一方、不倫相手の妻ヘロデヤはうるさく注意するヨハネを殺したいと思っていました。彼はヨハネとヘロデヤの間で葛藤します。
17 このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、――ヘロデはこの女を妻としていた。――人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。
18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と言い張ったからである。
19 ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。
20 それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。
ヘロデはヨハネが正しい人だと知っています。しかも、その教えを喜んで聞いていました。一方不倫相手ヘロデヤをヨハネを殺そうと狙っていました。そしてついにその機会がやってきました。
21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、
22 ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」と言った。
23 また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」と言って、誓った。
24 そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか。」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首。」と言った。(…中略…)
26 王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。
27 そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、
28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。
ヘロデは人を恐れ良く見られることを選んだ人です。神様以上にメンツです。不倫相手のヘロデヤを恐れ、ヘロデヤに従いました。また、ヘロデヤの娘にも気に入られようとし、さらには列席の人々の目を恐れメンツをたてます。
その結果は悲惨です。ヨハネを殺したことで、彼は苦しみ続けました。彼はその罪悪感から妄想に取りつかれ、イエス様のうわさを聞いて、「私が首をはねたヨハネが生き返ったのだ」と恐れ続けます。
16 ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていた。
聖書によると、悪魔の仕事は主に2つです。
1、高ぶらせ、自分の栄光や評判を優先させること。
2、罪を告発し、攻め続けること。
ヘロデはまさに悪魔の仕事にひっかかっています。
まず、ヘロデは高ぶり、自分の評判や栄光のためにヨハネを殺しました。次に罪を自分で責め続け恐れ続けています。聖書は言います。「高ぶりが来れば、恥もまた来る」と。(旧約聖書 箴言11.2)
僕らも失敗して罪を犯して苦しむ場面があります。
それでも、解放されます。聖書の教えの中心はイエス様の十字架の処刑によって僕らの罪が赦されたことです。
悪魔は罪の責任を追及しようとしますが、イエス様はその呪いを身代わりに引き受けてくださいました。だから、どんな人でも赦されます。悪魔は責めますが、イエス様は「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」と宣言してくださっています。(新約聖書ヘブル10.17)
どんな罪も赦されます。罪を告白して赦しを求めましょう。主は豊かに赦してくださいます。もう責められません。
(旧約聖書イザヤ 55:7)
主に帰れ。
そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。
豊かに赦してくださるから。
自分の評判とか人を恐れることとか、神様以外を求めることには良いことは何もありません。ただ、恐れと不安に追われ続けるだけです。
今日も主に帰りましょう。主に帰るなら、そこには平安と喜びと癒しがあります。ハレルヤ!