2023年9月11日月曜日

2コリント4.7-18

 2コリント4.7-18


時間もないし、お金もない。力も出ないし、やる気も出ない。そのような人は幸いだと聖書は言います。なぜなら、それでも何かが動くならそれは100パーセント神様の恵みだからです。人から出たものはゼロです。イエス様でさえ自分を神様に明け渡しました。王である方が自分を捨てて、殺されました。それは神様の力と復活のご計画が明らかになるためです。同じように、僕らが自分を手放す時、自分からは何も出ないことを受け入れる時、イエス様のいのちが現れます。



(11)

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。



自分から何も出ない、できない、と思うために神様は苦しみを用いられます。苦しみには目的があります。全てが神様から与えられたものであることをわからせるためです。



(7-10)

7,私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

8,私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

9,迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

10,私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。



「もうムリ」という時、全てが神様のものであることが明らかになります。そしてなんと、行き詰まったようでもその先があります。人から見ると最悪ですが、それによってプライドはなくなり、自分にたよる生き方は崩されます。そして、新しくイエス様の恵と愛と力に信頼する生き方に変えられます。最初はコワイ、嫌だ、と思いますが、大丈夫です。そのその経験によって神様が自分を見捨てることはない、と確信するようになります。落胆は希望に変えられます。神の力と愛への信仰者になり、ぼやけていた感謝と賛美がただ神様にはっきりと向けられるために必要なステップです。



(15-18)

15,すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

16,ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

17,私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

18,私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。



あれもこれもうまくいかないこと、弱いこと、足りないこと、神様があえてそうさせてくださっています。高ぶることがないためです。力は神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。神様はもっと良いことをなさいます。見えるものにではなく、見えないものに目を留めましょう。感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。大丈夫です。信じましょう。ハレルヤ!




2023年9月9日土曜日

使徒20.35、1コリント12.22  小グループリーダー会メッセージ 弱い仲間こそ大切!

 使徒20.35、1コリント12.22  小グループリーダー会メッセージ 弱い仲間こそ大切!


(使徒 20:35)

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」


(1コリント 12:22)

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。


ご存知の通りコリント教会は問題だらけの教会です。派閥争い、性的な罪、離婚問題、秩序がない礼拝などなど、ぐちゃぐちゃです。でも、問題だらけでいつまでも成長しない教会の仲間が「誇り」だと聖書は言います。


(2コリント1.13)

私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。


なんと、問題のある人たちが、イエス様の日には誇りだと聖書は言います。


信仰の赤ちゃんの時は助けが必要です。何もできず、ただ保護されて、口開けて食べさせてもらうようです。困ったら泣いているだけです。そのようにして、まるで教会が親のように信仰の赤ちゃんを保護して育てます。だんだんと成長しますが、ずっと助けが必要な子もいます。人によっては一生の間介護されっぱなしで、自立が難しい神様の子、神様の家族もいるんだと、再認識しました。


成長せず問題だらけの人も、神様の目には高価で尊い子です。神様に愛されている子です。

一方、教会に集まって元気に奉仕ができて、霊的にも成長する人もいます。神様から賜物を授かってそれを積極的に用いる人たちもいます。


どちらが上か、ということはなく、むしろ弱い人、自分で祈れないような人、自分でみことばを食べれないような人、なかなか信仰生活が自立できない人を神様は同じように愛しておられると思わされました。


今朝、祈りの散歩に出たら洗礼を受けたけども教会生活から離れているある人が遠くに見えて、それを見て祈りました。どうやって声かけたらいいですか、どうしたらいいですか?と。お祈りしたらすぐに、これは神様がセットし出会わせてくださったチャンスだとわかりました。


それで、散歩コースの予定を変えてその人と同じ道を歩いて声をかけました。

一緒に歩いて、ちょっと雑談して、そして今度また以前のように一緒に聖書の学びしませんか?と言ったら、すごくうれしそうでやりたいです、と言っていました。


この人は信仰はなくしてはないけども、自分でイエス様を求めることができず、ずっと助けが必要なタイプの人です。助けがないと自分で礼拝に出席できず、自分で聖書も読めず、自分で祈れないタイプ。だけどもでもイエス様に愛されている大事な子ども、という点は確かで失われていません。助けが必要で、ずっと人が食べさせてあげないと神様のことがわからない子なんだ、と改めて思いました。


昨日、うちの義理の父母からSOSがあって、助けに行きました。

昔はなんでもできた人ですが、今は家族の中で助けられながら生きています。

両方とも神様から教えられた感じがしています。

人は元気な時期もあるけど、助けが必要な時もあります。人によっては弱くされた人、弱い人、最初から最後までずっと助けや介護が必要な人もいます。それが家族だな、って思いました。



ローマ 15:1)

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。


(使徒 20:35)

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」


(1コリント12:22)

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。



自立できない弱い信仰者はいます。神様の子供なんだけどもずっと与えてもらって食べさせてもらって、祈ってもらって助けてもらう人がいます。ずっと成長できず、その人はずっと低空飛行で、一生周りに助けてもらい、祈ってもらって教えてもらって連れてきてもらって生きる人かもしれません。それでも神様の目には尊く、決して見放さない神様の保護の中で生きてる人なんだ、という発見がありました。


それで神様はそういう子たちを見放さないし、イエス様が失って自分で戻れなくなっているような迷子を探すなら、キリストの体である教会も探し、受け入れ、連れ戻すのは当然です。



(マタイ18:12-14)

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。


イエス様は自分で歩けない人たちを愛しています。

神様の家族、と呼ばれるのは健康で自分の足で歩ける人たちだけではありません。ずっと介護が必要な家族もいます。イエス様は人を怖れる人とか、神様へのの優先順位が高く思えないとか、全然そこまでいけない人たちを愛しています。


僕らがいつの間にか集まれる人たちだけ、元気な、霊的に成熟した人だけの教会になっているとすればそれは大事な視点を失っています。問題だらけのコリント教会の兄弟姉妹はパウロの誇りです。それがわかるのイエス様の日です。(2コリント1.13)


誘って車に乗せてあげないと集まることもできない人、困った時だけ連絡してきて祈って祈って言う人達。そういう霊的に弱い人たちをやっぱりイエス様は愛しておられるし、私のもとに来させなさいと言っておられるし、小さいものにしたのは私にしたのです、とおっしゃいます。(マタイ25.40)



いつもイエス様は弱い人、社会的に阻害されている人のとこに行って、愛して助けて祈ってくださいました。癒されて、助けられても感謝しない人もいました。それでも、イエス様の側では助けてくださるし、愛するのをやめる方ではありません。


労力がかかって、時間を人よりも何倍も時間がかかる人を愛しておられます。九十九匹も、1匹も同じく大切にしてくださるイエス様です。


いつまでもくれろ、くれろ、といい続ける人もいます。この教会はあれしてくれない、これしてくれない、とずっと子どもみたいに求めてばかりいる人もいます。

それでも神様は見放さないし、やがてその人も「受けるよりも与える方が幸い」と理解する日が来ると期待します。それは終わりの日かもしれません。手がかかっても尊い家族です。愛していきましょう。


2023年9月8日金曜日

2コリント1.1-11

 2コリント1.1-11


復活進行!という歌の歌詞です。「復活、それは一度ダメでも2度目があるということ」「復活それはダメなように見えてもその先があるということ」聖書が教える希望とか慰めとはこれです。

この世の慰めや希望は「苦しまないようにしよう」「苦しみを和らげよう」というものですが、聖書が教える慰めは死んでもその先に復活がある、だから希望がある、というものです。


僕らは苦しいのはイヤです。でも、「もう無理」「うつ手なし」「八方塞がり」にならないと僕らは本気で神様に求めないし頼らないものです。神様は僕らのお手伝い程度の神様になることは願っていません。僕らの存在の全てになることを願っておられます。そのために、もう自分に頼らず神様に頼るために苦しみは与えられます。


(8-9)

8,兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。

9,実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです



自分には希望がない、自分には命がない、自分には力がない、もうダメ、というところまでいくと、あとは100パーセント神様の計画、神様の命、神様の力だけです。もし文字通りに死んでも大丈夫です。苦しみには目的があります。「それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。」(9)


聖書は「苦しまないよ」「幸せになるよ」とは教えていません。キリストが模範です。全てを失い、手放し、神様に明け渡し、苦しんで死なれました。そのキリストの苦しみは僕らも参加します。でも、その先に復活があります。どん底を経験しますが、回復します。


神様の恵みとか愛とか憐れみは、ラクに通過できるよ、ではなく、一緒に苦しむけどその先に回復があるよ、というものです。これが神様のめぐみ、憐れみ、愛、慰めです。


(2-4)

2,私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

3,私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

4,神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

5,私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。



どん底も通過点です。その先があります。死にますが、復活します。失いますが、それ以上のものを得ます。

神様は「あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神」です。苦しみはあります。でも、希望と慰めも溢れています。死の向こうに希望が用意されています。ハレルヤ!

2023年9月6日水曜日

ルツ4章

 ルツ4章


僕らは前例が好きでです。「ああ知ってる」「前もこうだった」という安心感があります。自分の理解や経験の範囲の中にいたがるのが僕らです。でも、神様は違います。いつも前例を超えて新しいことをなさいます。神様のなさることは特例だらけです。しかも「これ律法と違うじゃん」と思うこともちょいちょい起こります。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」と聖書は言います。(1コリント2.9)僕らに問われるのは神様への信頼です。神様はルールや前例に縛られることのない方です。


ユダヤ人ナオミが飢饉のために偶像礼拝の国モアブに引っ越しを余儀なくされたことは想定外でした。(1.1)そこで夫が死んだことも、2人の息子がモアブ人女性と結婚したことも想定外でした。しかも律法違反でした。さらに、二人の息子が死んでその嫁たちだけが残されたことも予想外です。(1.5-7)思い通りにならないことだらけです。


そんなナオミの人生でしたが、神様は残された嫁であるモアブの女ルツを用います。ベツレヘムの有力者ボアズは律法に従って公式にナオミと死んだ夫、息子たちの所有物と土地を買い取り、残されていたモアブ人の嫁ルツもボアズのものとなり妻となりました。


(9-13)

9ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。

10また、死んだ人の名を相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです。今日、あなたがたはその証人です。」

11門にいたすべての民と長老たちは言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。

12どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」

13ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。



町の人たちも長老たちもボアズを祝福し、ルツとの結婚を祝福しました。ボアズとルツへの祝福の言葉に先祖たちの名前が出てきますが、どの人も想定外の、しかも問題の多い人たちです。


人々は祝福して言います。「あなたの家に嫁ぐ人(ルツ)を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。」(11)ラケルとレアとは、イスラエルの先祖ヤコブの二人の嫁の名前で、しかもこの二人は実の姉妹でそれゆえにヤコブを取り合い、妬み合い、争い、トラブルが絶えない家族になってしまいました。それでも、神様は問題だらけのラケルとレアを通して12人の子どもを与え、その12人はイスラエルの12部族の先祖となりました。人々は「イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。」とルツを祝福します。



また、人々は「主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」と祝福します。(12)このタマルもユダも問題のある夫婦です。タマルとはユダの息子の嫁ですが、その息子は死んでしまいました。夫(ユダの息子)を失ったタマルは売春婦を装って義父ユダと関係を持ち妊娠します。そのようにして生まれたのがペレツです。予想外の不幸に加えて人間の罪や肉欲が入り混じった中で生まれたのがペレツです。このペレツがボアズの先祖となりました。


人々が祝福の代名詞のように持ち出すラケルもレアもタマルもユダも罪深い人たちです。

それでも神様の愛と恵みは人の予想を遥かに超えて与えられます。罪深く、予想外の出来事から良いご計画をなさる神様を人々は誉めたえます。元々偶像礼拝の国モアブの出身だったルツはナオミにとって祝福された愛する嫁になりました。ルツも義母ナオミを誰よりも愛し仕える嫁となりました。人々はナオミを祝福して言います。



(14-15)

14女たちはナオミに言った。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。

15その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」



僕らは自分の理解や経験の範囲の中で安心したがります。でも、神様のなさることは大きすぎて僕らの予想には入りません。神様の恵みは人の欠点や過去に縛られず、むしろ、そのようなトラブルを恵みに変える方です。罪の増し加わるところに恵みも満ちあふれます。(ローマ5.20)予想外の悪い出来事も神様の想定の範囲内です。今日も絶望せず、不平、不満ばかり見つめるのではなく、神様に信頼しましょう。死んだ骨が生き返り、荒野に川を流す神様です。僕らの苦しみは通過点です。大丈夫です。ハレルヤ!



2023年9月5日火曜日

ルツ3章

ルツ3章  祝福される一歩は神様の言葉に従って行動し始めることです。祝福された結婚をしたい人は見かけとか収入よりも神様に誠実な人を選ぶことです。夫と息子が死んでしまったナオミは残された息子の嫁ルツの幸せを願います。そして、ルツが幸せな再婚ができるように、神様の律法に従って行動するようにルツに言います。


旧約聖書の律法によると、子どもがいないまま男性が死んだ場合は、残された妻を買戻しの権利のある者と再婚し、子どもを産んで死んだ者の名を残すようにと定められています。(申命記25.5-10)その町の有力者ボアズはルツにとってまさに買い戻しのある親戚でした。ルツから見ると親子くらいかそれ以上歳の離れた男性ですが、彼は神様に誠実な人でした。そこで、ナオミはルツにボアズの近くにこっそり行って寝て、ボアズに従うようにと言います。


(1-5)

1姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。

2あなたが一緒にいた若い女たちの主人ボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。

3あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。

4あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」

5ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」



近づいて寝ることで不法侵入として捕まったり、追い出される可能性は十分あります。今まで落穂拾いをさせてもらいましたが、今後出禁になるかもしえません。しかもルツは外国人です。再婚させてもらう可能性は人間から見ると低すぎます。むしろ今までの信頼を失うかもしれません。人から見るとリスクだらけです。それでも、義母の言う通りに従い、こっそり近づいてボアズの近くに寝ます。理由はボアズが聖書が教える買い戻しのある親類だから、です。唯一の理由は聖書です。ボアズは夜中に気がついて驚いて起き上がります。


(8-9)

8夜中になって、その人は驚いて起き直った。見ると、一人の女の人が自分の足もとに寝ていた。

9彼は言った。「あなたはだれだ。」彼女は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」



ボアズは追い出しませんでした。むしろ、ルツの行動に誠実さを見出し感心しました。この世の魅力とか富とか損得でなく、ただ神様のみことばに誠実であろうとし、ユダヤ人である義母に教えられた律法に従い、歳の離れたボアズのところに来たことに感心しました。


(10-13)

10ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。

11娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています。

12ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。

13今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」


この行動から始まり、ルツの孫からダビデが生まれ、その子孫からイエス様が生まれます。神様は僕らを苦しめるのではなく祝福しようとなさっています。そして祝福される一歩は神様の言葉に従って行動することです。神様のご計画は僕らが考える計画よりもずっと優れています。僕らの選択が今日も人の考えにまさる神様のことばに従うものでありますように。ハレルヤ!