2024年10月7日月曜日

ザヤ24章メッセージ 「立派な人が招かれるのではありません」

 イザヤ24章メッセージ

「立派な人が招かれるのではありません」


裁きのメッセージだけど、希望あるし、救いがある、というメッセージです。


●イントロ

この世での身分や立場は意味がなくなります。


イザヤは紀元前700年くらいの預言者で、イスラエルが神様に裁かれる、という預言をしています。そして、実際にその通りになりました。それは紀元前のことですが、同時に、この世界の終わりに起こることも預言しています。

世界の終わりにはもう一度イエス様が地上にきて、神様の裁きがある、と聖書は言っています。


イザヤ書 24章1節

"見よ。主は地を荒れ果てさせ、その面をくつがえして、住民を散らされる。"


神様は、この地上をすべて崩壊させ荒れ果てさせ、くつがえすと聖書は預言しています。この世には終わりがあること、そしてその日には神様のさばきがある、という預言です。その時にこの世の身分とか、経済とか、そういう基準、ランクの違いは全く意味がなくなります


イザヤ書 24章2節

"民は祭司と等しくなり、男奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸し手は借り手と、債権者は債務者と等しくなる。"


偉い人もそうでない人も全く同じように神の裁きに会います。


祭司とか、お金貸してるとか借りてるとか、経営者とか従業員か、そういう役目の違い、立場の違いは地上のほんのひとときだけです。イエスさまがこの世に来てさばきをなさるとき、社会的な身分とか、宗教的な身分もなくなるようです。


この世では人は人をランク付して、あの人はいいとか悪いとか、言います。でも、神様の評価基準は僕らが思うのと全然違います。この世で偉い人、こうきな人と思われた人たちも枯れていきます。


4節

地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。地の最も高貴な人たちもしおれる。


●神様でなく自分の考えを選んだ結果


(17-18節)

地上の住民よ。恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。

その恐怖の叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴から這い上がる者は、その罠に捕らえられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。


多くの人は絶望に落とされます。なぜでしょう。

神様は愛してくれる、赦してくれるんじゃなかったのでしょうか?

その答えは、5節にあります。


(5)

地はその住民の下で汚されている。彼らが律法を犯して定めを変え、永遠の契約を破ったからである。


祝福と喜びを与える神様の言葉を知っていながら、勝手にルール変更をして、契約を破ったから、です。神様の教えより自分たちの考えの方が偉い、正しいと思っているからです。


神様は殺してはいけないと言っているけど、いろんな理由をつけて殺していくことが正義であり世界の平和のためだ、と言います。嘘も必要だし、淫らなことも悪くない、とルールを変えてしまいました。


神様の教えは僕らを祝福するために与えたものです。盗んではならない、と神様は言われます。もし、その通りになったら、世界から鍵はいらないくなります。誰も盗まないから。パスワードとか、めんどくさいものは消えていきます。想像してください、盗みのない世界を神様は与えようとしておられます。


もし、姦淫してはならない、結婚相手を裏切ってはならない、みんながそうできたら、世界はどこの家庭も平和になります。恋愛結婚で傷つくことはないし、家庭が壊れて悲しむことも、子供たちが傷つくこともありません。想像してください。全く裏切りのない世界です。全ての人が好意に満ち、相手を尊敬して愛しています。これが神様が与えてくださった祝福のための契約です。


神様の教えは僕ら人間を幸せにし祝福するために与えられました。相手を尊重しなさい、尊敬しなしさい、って教えを守ることができたら、本当ラクです。悪口陰口はないし、そもそも相手のことを悪く思わない世界、人と人が、どんな人同士も相手を喜ぶ世界です。これが神様の願いです。


ところが彼らは神様の教えを無視します。その結果、人が人を裏切り合います。


(16節)

ああ、悲しい。裏切り者が裏切った。裏切り者が裏切り、裏切った。


人が愛し合い、尊重しあい、祝福されるための神様の教えは、まずはイスラエル人に与えられました。


その次にイスラエル人以外に広がっていき、今日本人の僕らも聖書の言葉を聞いています。

神様は愛するために、愛するゆえに教え、私の民、私の宝、あなたを祝福する、と言ってくださっています。愛と祝福のための契約と教えです。でも、それを知っていながら無視し、自分の考えの方を優先します。それが5節の意味です。


ます。「彼らが律法を犯して定めを変え、永遠の契約を破ったからである。」神様の祝福の約束を無視することは、自分から祝福いらない、平和はいらない、神様いらない、と選んでいるようです。


お望み通り彼らは神様から離れ、苦しんでいきます。神様から離れるなら祝福はないこと、その先は呪いと恐怖しか残っていないことを彼らは知っていながら、自分からお望み通りに呪いの道、破滅の道を進みました。


イザヤ書 24章6節

それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罰を受ける。


自分で選んだ通り、望み通りになります。

神様から離れる人、今も神様の言葉を聞いても嫌がる人います。それは自由だし、お望み通り永遠に神様から離れることができます。

死後の裁きあうし、神様の国に入ることはできないです。願った通りになります。永遠に神様から離れ、愛も喜びもない世界に行きます。


彼らは滅んでいきます。でも、全滅ではありません。僅かな人が残されます。6の後半「わずかな者だけが残される。」


  • ●わずかな者とは


どんな人が残されるのか、助かるのか、イエス様はおっしゃいました。


マタイの福音書 7章13-14

"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。"


消えていくこの世のもうけ、 メンツ、快適さ、肉欲、暮らしむき、そういうことばかり求めて、広くて大きな滅びへの道に向かっている人が多いとイエス様は言われます。

どの食材がおいしいかどの酒がおいしいか、どの音楽が楽しいか、そればかりを求めた当時の様子が描かれています。その先は絶望です。


イザヤ書 24章7~9節

"新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心に喜びのある者もみな、うめく。

陽気なタンバリンの音はやみ、はしゃぐ者たちの騒ぎも消え、陽気な竪琴の音もやむ。

歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒も、飲む者には苦い。"


全てが消え去っていくけども、でも、少しの人たちは残されていて、彼らはこの世界が滅んでも残され、喜びが楽しみの歌声が続いていると聖書はいいます


イザヤ書 24章13~16節

"まことに、大地の真ん中で、諸国の民の間で、オリーブを打ち落とすようなことが、ぶどうの収穫の後に取り残しの実を集めるようなことが起こる。

彼らは声をあげて喜び歌い、西の方から主の威光をたたえて叫ぶ。

それゆえ、東の国々で主をあがめよ。西の島々で、イスラエルの神、主の御名を。

地の果てから、私たちは、「正しい方に誉れあれ」というほめ歌を聞く。


まるで、収穫が終わった後に、全部なくなった後に少し残っている実のようです。

その人たちのなくならない喜びの歌はこの世の歌と違って、14節を見ると主の威光をたたえて歌っています。


●ハイデルベルク信仰問答


質問

生きているものと死んでいるものをさばくためにキリストが再び来られることはあなたにとってどのような慰めですか。


イエス様はこの地上にもう一度来ます。それは恐怖ではなく慰めです。どんな慰めですか?という質問です。


答え

(…略…)すでに私たちのために神の裁きに服し、すべての呪いを私から取り去ってくださった方を待ち望むことができます。


私たちも滅ぼされる罪人でした。

 だけど、イエス様が、すでに、先に私の裁きを既に受けて、十字架で血だらけになって死んでくださいました。良い知らせです。だから、裁きがあっても、イエス様がもう一度この世界の終わりにきても、希望があります。


ヨハネ 5:24

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。


神様は罪人の滅びを望んでいるのではなく、 そんな罪ある私たちが救われることを望んでおられます。


2ペテロ 3:9 

あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。


悔い改め、と言うのは、方向転換です。自分が滅びに向かっていることを認め、神様を無視してきたことを認めることです。そして、向きを変えて、イエス様がその裁きを身代わりに受けてくれたことを信じることです。


神様の祝福の教えより、自分の考えを上にして、ルールを勝手に変えたし、破ったし、裁かれる罪人なのに、そんな者だったのにイエス様が私たちのために死んでくださったことによってその呪いが免除されて、ただあわれんでもらって、希望を持って救われるものになったそれだけです。


クリスチャンとはイエス様が神の裁きを先に身代わりに受けてくれて、血だらけになって、 あなたの罪は赦された、と言ってくださった、それを信じる人たちです


●二つのタイプ


僕らが神様の怒りや裁きがあるぞ、って聞いた時に、次の二つのタイプの人に分かれます。


①イエス様の赦しを信じてその福音により頼むタイプ


②自分が良くやってる。自分はがんばってるとアピールするタイプ


キリスト教を学校の勉強みたいにいい点とればいいんでしょって思っている人がたまにいるみたいです。それが誤解です。


②は自分は正しいし、ちゃんと礼拝もきてるし、いい人だし、神様、認めてくれるよね、というタイプです。あの人より私は頑張ってるでしょ。

自分の評価を求めるタイプの人です。

ところがイエス様は自分を高くする人は低くされる、言います。そして自分を低くするものは高くされると聖書はいいます。神様を愛することも隣人を愛することも出来てない、と自覚する人こそ、イエス様の赦しがありがたくて、感謝します。 


隣人を愛してますか?と神様に聞かれたとき、恥ずかしくて顔を上げれない人。そういう人はイエス様の赦しにすがる他ないし、 本気で赦しを求めます。 だから、イエス様の説教の一番最初のことば。 「心の貧しい者は幸いです。 天のみくにはその人のものだからです」


ある方のお母様の最後の祈り、いまも思い出します。子供の時にそのお母さんは家を出てきました。その方は、新興宗教の先生をやっていたそうです。

もう長くない、と言われて一緒に病院に行きました。イエス様の福音を伝え、お母さん、赦されないますよ、信じる祈りをしませんか、とお薦めしました。


「神様 はずかしいです。 はずかしいです。 あっちの宗教こっちの宗教と言って、私、知ってたの。キリスト様を知ってたの。はずかしいです。 この子を育てなかったこと、はずかしいです」 まさに、 イエス様はそのような人を愛し、 赦し、受け入れ、 神様の子ども、天の御国の祝福に招いてくださいます。


あるおじさんの病室での最後の祈りを思い出します。叫ぶように、泣き叫ぶように言いました。「神様、こんな俺を許してください」でした。

救いは罪人のものです。 


●見下されていた異邦人


裁きの日に、神様を賛美している人がいます。よく読むと、エルサレムに住んで、宗教的にちゃんとやってる人ではありません。


イザヤ書 24章14~15節

"彼らは声をあげて喜び歌い、西の方から主の威光をたたえて叫ぶ。

それゆえ、東の国々で主をあがめよ。西の島々で、イスラエルの神、主の御名を。"


西の方からと書いてあります。

この当時、神様の神殿はエルサレムにありました。そこで宗教的にちゃんとやってる人たちじゃない。15節、 東の国々、ユダヤ人からみたら、 あの人たちは、汚れた人たちだ、 と思われていた異邦人。あの人たちはダメだろう、と見下されていた外人が救われ、喜んでいる。 それが神様の愛です。


それが、神様の福音です。 救いです。

神様の救いと関係ないと思われていた人たち。 今風にいうなら、教会でまじめにやってますというでなく、教会から遠くはなれた所で、それでもイエス様にすがるしかない、と求めたひとたち。


いつの間にか、 教会の中にもあの人はちゃんと奉仕する人、 あの人はしない人、 あの人はちゃんと聖書を学んでいる人、あの人は学んでない人。 そういうランクつけがあるなら、

それで救いが決まるのではない。むしろ、私はちゃんとやってます、という人は危ないです。牧師は特に威張りやすくて危ないです。 

最初に読んだ立場の違いは何の意味もなくなります。 


もちろん、聖書学びましょうと聖書が教えているし、 礼拝は大切です。 礼拝に出席しましょう。 それは主に喜ばれることです。教会が聖書を互いに教えあう交わりになるように、互いに祈り合う祈りの群れとなっていくようにいつもおすすめします。

ですが、一方で、それによって 「聖書を学んでいる人が偉い人」」 「祈り会に出てる人がえらいひと」という価値観やランク付けが出来上がるなら、聖書の教えとは違います。


ただ、聖書を学んで行くことは、自分がいかに罪人でありイエス様の憐れみによってだけ救われるということを知ってへりくだって感謝する人になることです。


聖書を学んで、 私は偉い人になるなら、 本当には学んでいない。 礼拝する、 というのは、威張ることではなく、ひれ伏すこと。 ただ、イエス様の十字架の処刑しかすがることがありません、というのが礼拝です。


救いはただ、イエス様のあわれみ。 愛。イエス様にすがる罪人だけが救われます。 


聖書を学び、 祈りをするその結果、 あの人がどうだ、こうだ、ということは消えて行き、 ただ、 イエス様の前に滅ぼされる罪人にすぎません。 私は罪人。 あの人も罪人。 ただ、 イエス様の赦しに感謝。 それしかありません。


わたしは何をしたかにをした、というのは消えてきます。 わたしは祭司だ、 社長だ、 奴隷だ、ということも消えていきます。 ただ、 借金があるとか、 お金をもってるとか、そういうことも消えていきます。 ただ、 イエス様にすがることだけが永遠の救いです。


天に招かれる人は自分は正しいという人ではない。自分を正しいとして高ぶる人は低れ、 自分の罪を知る人は招かれます。


感謝しましょう。信じましょう。イエス様に方向転換しましょう。


イザヤ25章

 イザヤ25章


僕らは目に見えるもので守られたいと思い、力やお金、人間の技術などを求めるし頼ります。モアブという国は自分たちの力に頼りそそり立つような要塞を作りました。これさえあれば自分たちは守られると思っていました。ところが、神様を無視したままの技術や建物は、神様はまるでゴミのように消し去られます。



(イザヤ書 25章11~12節)

主は、その手の巧みさも、その高ぶりも低くされる。

おまえの要塞、そそり立つ城壁を主は引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにまでされる。



(2節)

あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう永久に建てられることはありません。



神様を忘れ、技術や力で高ぶるなら神様はそれをストップさせ、時には破壊されます。反対に、自分を守ってくれるものも人も技術もお金もないと感じる時、僕らは平伏して神様を求め、主はその祈りと願いに応えてくださいます。僕らは神様の救いを体験することができます。



(イザヤ書 25章4~5節)

あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられました。横暴な者たちの息は、壁に吹きつける嵐のようです。

砂漠の日照りのように、あなたは他国人の騒ぎを抑えられます。暑さが濃い雲の陰で鎮まるように、横暴な者たちの歌は鎮められます。



最後には神様の愛と恵みだけが救いです。涙は拭い取られ、恥は取り除かれます。そして感謝と賛美は神様だけに捧げられます。



(1-3節)

1,主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。

2,あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう永久に建てられることはありません。

3,それゆえ、力強い民もあなたをほめたたえ、横暴な国々の都もあなたを恐れます。


(イザヤ書 25章7~9節)

この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、

永久に死を吞み込まれる。神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。主がそう語られたのだ。

その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」



神様を待ち望む人は幸いです。弱い人は幸いです。僕らは目に見えるものを求めがちですが、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって待つのです。」(ローマ8:24-25)見える守りがないように思える時はチャンスです。神様だけを求めましょう。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」(9)ハレルヤ!






2024年10月4日金曜日

イザヤ22.15-23

 イザヤ22.15-23


カギは、家を施錠したり開けたりします。カギを持つことは、その家の権威を持っていることと同じです。車のカギを持っている人が車を動かせます。ダビデが王宮はエルサレムにありましたが、その家のカギを持つ人はその宮廷の権限を預かっているすごい人です。エルヤキムという人はこの権限を預かりました。



(20節から24節)

20,その日、わたしはわたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、

21,彼にあなたの長服を着せ、彼にあなたの飾り帯を締め、彼の手にあなたの権威を委ねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。

22,わたしはまた、彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。

23,わたしは彼を杭として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。

24,彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢からすべての壺に至るまで。



エルヤキムは王の家に人を入れたり、禁止したりするカギを預かっていました。なんと、これと同じようなカギが僕らにも預けられています。イエス様は天の国のドアを閉じたり開いたりするカギ、人を入れたり閉じたりするカギを教会に預けるとおっしゃいました。



(マタイ16.19)

わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」



(マタイの福音書 18章18~20節)

まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。

まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」



イエス様こそ天のカギを持っている方です。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。」(黙示録3.7)主は御国のドアを閉じたり、開いたりする権威をもっておられる方です。それほどの権威を僕らに預けてくれました。地上で生活していても、天が閉じて暗くなっている時もあるし、天が開けて光が差し込み照らされて感謝し賛美し喜んでいる時もあります。そのカギを持っているのは僕ら教会です。イエス様は「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14.13-14)とおっしゃいます。


天の王国が開かれるか、それとも天が閉ざされるか、それは僕らがイエス様の名によって祈り求めるかどうかです。イエス様の御名はイエス様の権威です。すごいカギを預かっています。

反対に、このカギを奪われた人がいます。シェブナという執事はダビデの王宮の権威を預かっていましたが、高ぶって自分の名をあげようと、名声を残そうとしました。高ぶる人は低くされます。



(15-19)

15,万軍の神、主はこう言われる。「さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。

16,『あなたは自分のために、ここに墓を掘った。ここはあなたに何の関わりがあるのか。ここはあなたのだれに関わりがあるのか。高いところに自分の墓を掘ったり、岩に自分の住まいを刻んだりして。

17,ああ、勇者よ。主はあなたを遠くに投げやる。あなたをわしづかみにし、

18,あなたをまりのように丸めて、広々とした地に投げ捨てる。そこであなたは死ぬ。そこであなたの誇る戦車も。あなたの主人の家の恥さらしよ。

19,わたしがあなたをその立場から追放する。あなたは自分の地位から引き降ろされる。



御国と力と栄光はイエス様のもの、神様のものです。名声は僕らが受けるべきものではありません。天が開かれるように、へり下ってイエス様の御名によって願い求める時に、天は開かれます。

すごい権威を預かっています。僕らの権威ではないけど、すごいカギを預かっています。今日も御国が来ますように。天が開かれ、闇の中を歩んでいた民が大きな光を見ることができますように。(イザヤ9.2)イエス様の御名によって求めます!ハレルヤ!



2024年10月3日木曜日

イザヤ21章

 イザヤ21章


預言者イザヤの時代、最も強く栄えていた帝国がバビロンです。バビロンは高い城壁に囲まれていて、自分は絶対に安全だと思い、エルサレムから奪ってきた主の金の器で宴会をし、飲みながら金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美し歌い、イスラエルの神様を笑っていました。その様子がダニエル5章に書かれています。



(ダニエル5章2-4節)

2ベルシャツァルは、酒の勢いに任せて、父ネブカドネツァルがエルサレムの宮から持ち出した金や銀の器を持って来るように命じた。王とその貴族たち、および王の側室たちや侍女たちがその器で飲むためであった。

3そこで、エルサレムの神の宮の本殿から持ち出した金の器が運ばれて来たので、王とその貴族たち、および王の側室たちや侍女たちはその器で飲んだ。

4彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。



この国には絶対に逆らうことができず、世界全体が恐れおののいていました。ところが神様は「万軍の主」です。(10)どんなに強い国も神様によって裁きを受けます。神様はメディアとエドム(ペルシャのこと)を使ってバビロンを滅亡させますが、それが起こる200年も前からそれを預言していました。



(1-4)

1,海の荒野についての宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは荒野から、恐ろしい地からやって来る。

2,厳しい幻が私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディアよ、囲め。すべての嘆きを私は終わらせる。

3,それゆえ、戦慄が私の腰に満ち、子を産む時のような苦しみが私をとらえる。私は心乱れて、聞くことができない。恐ろしさのあまり、見ることができない。

4,私の心は迷い、戦慄が私を襲った。私が恋い慕ったたそがれも、私をおびえさせるものとなった。



バビロンは神様によって突然滅ぼされます。それが確実であることをイザヤは前から預言していました。宴会が盛り上がる真っ最中に見張りがバビロンの終わりを告げ、神々の偶像が地に砕かれることを預言しています。



(5-10)

5,彼らは食卓を整え、座席を並べて、食べたり飲んだりしている。「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」

6,主は私にこう言われた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。

7,戦車や二列に並んだ騎兵、ろばに乗る者やらくだに乗る者を見たなら、よく注意を払わせよ。」

8,その人は、獅子のように叫んだ。「主よ。私は昼はいつも見張り場に立ち、夜ごとに自分の物見のやぐらについています。

9,見てください。今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵が来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その国の神々の、すべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と。」

10,踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。イスラエルの神、万軍の主から聞いたことを、私はあなたがたに告げたのだ。



この「倒れた。バビロンは倒れた。」(9)という表現は、当時のバビロンの滅亡のことを預言しています。そしてもう一つ、バビロンのことを黙示録は「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」と言います。(黙示録17.5)バビロンがイスラエルの神様をバカにしながら宴会をしていたように、黙示録にあるバビロンも「この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。」とあります。(黙示録17.6)クリスチャンたちを苦しめ、殺し、世界をお金と肉欲で支配する悪そのものです。そしてそれは神様に滅ぼされます。



(黙示録18.2-3)

2,彼は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンは倒れた。それは、悪霊の住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた憎むべき獣の巣窟となった。

3,すべての国々の民は、御怒りを招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と淫らなことを行い、地の商人たちは、彼女の過度のぜいたくによって富を得たからだ。」


今も神様に敵対する霊的な力がこの世界を支配しています。「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」と聖書は言います。(エペソ2.2)悪魔も悪霊も僕らを攻撃しようとしています。イエス様でさえ攻撃されました。(マタイ4章)でも、それらは倒されます。すでに負けることが決まっています。バビロンに象徴される悪の力はあります。本当の神様に挑戦し、イエス様の働きを妨害する力はあります。でも大丈夫です。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント4.8)


大丈夫です。バビロンは倒れます。



Amazing Grace ケビン、ジェシカと演奏させてもらいました。

Amazing Grace ケビン、ジェシカと演奏させてもらいました。
本当に素敵な二人です。みくに祭りにて





 

2024年10月2日水曜日

イザヤ20章

 イザヤ20章


この世には、消えていく誇りと、消えない誇りがあります。消えていくものを誇りとする人は惨めです。神様は聖書を通して実例を見せてくださっています。僕らの人生が恥で終わらないためです。


イスラエルは、強いエジプトと同盟を結んでいることを自慢し、エジプトの強さをまるで自分の誇りのように思っていました。その結果は惨めです。エジプトは、アッシリアに滅ぼされ裸で歩かせられて連行されます。神様以外を求める人の最後はそのようです。



(3節から6節)

3,主は言われた。「わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間裸になり、裸足で歩いたように、

4,そのように、アッシリアの王はエジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にして、裸足のまま、尻をあらわにして、エジプトの恥をさらしたまま連れて行く。

5,人々は、クシュを頼みとし、エジプトを誇りとしていたゆえに、打ちのめされ、また恥を見る。

6,その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリアの王の前から逃れようと、助けを求めて逃げて来たわれわれの拠り所がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか』と。」



どんなに強い国も人も軍事力も技術も神様ではありません。この世の力に頼る人は逆に恥を受けます。



(31章1節、3節)

1,ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬に頼り、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。

3,エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。主が御手を伸ばされると、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、皆ともに滅び果てる。



僕らの助けは神様です。なくならない誇りは神様を頼る人に与えられます。神様以外に頼るものがない貧しい人、悲しむ人、飢え渇く人は祝福されているとイエスはおっしゃいます。神様だけを求めやすいからです。(マタイ5章)神様は、この世の知恵ある者とか強い者を恥じ入らせるために、わざわざ弱いものを選んでいます。



(コリント人への手紙 第一 1章26~27節)

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。



神様は「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」とおっしゃいます。(2コリント12.9)弱い時、時間がない時、お金がない時、力が出ない時はむしろ神様の時です。神様に頼り、神様の救いと力を体験できるからです。「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」(イザヤ49.23)「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(2コリント12.9)弱い時こそ最強の時です。今日も大丈夫です。「ハレルヤ」は直訳すると、「主を誇れ」です!

イザヤ19章

 イザヤ19章


痛みがひどくなければ病院に行かないように、僕らは苦しみがなければ神様を求めないようです。それまでは自分の方法や力でなんとかしようとしがちです。でも、僕ら人間はもともと神様と生きるように作られています。神様はエジプト人に苦しみを与えることを預言していますが、それはただ懲らしめるためでなく、彼らが悔い改めて神様に癒され、しかも祝福するためです。



(20節から22節)

彼らが虐げられて主に叫ぶと、主は彼らのために戦い、彼らを救い出す救い主を送られる。

そのようにして主はエジプト人にご自分を示し、その日、エジプト人は主を知る。そしていけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。

主はエジプト人を打ち、打って彼らを癒やされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らを癒やされる。



試練は苦しいけれども必要なことです。神様は試練を通して、僕らをきよくし、癒し、祝福しようと願っておられます。試練の先に神様が次のように言われることが書かれています。



(25)

万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエルに祝福があるように。」



(1ペテロ1章6節-7節)

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。



偶像礼拝するエジプトに神様は多くの苦しみを与えました。1つは内部分裂です。「わたしはエジプト人を駆り立てて、エジプト人にはむかわせる。彼らは、兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と争い合う。エジプトの霊はその中で衰える。」とあります。(2節から3節) それでも彼らは神様に戻ることなく、彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てました。(3節)


2つ目は、恐ろしい支配者(4節) 、3つ目は恐ろしい自然災害(5節から9節)、そして、4つ目はリーダーたちに「混乱の霊を吹き入れられ」「酔いどれが吐きながらよろめくように」国が混乱し弱くなっていくことです。(11節から14節)


苦しみは僕らが神様に戻るためです。神様は愛する人の浮気や二股を許さない方です。試練は神様の癒しと祝福のためです。神様から離れていることに気づかせ、悔い改めて祝福されるための神様の方法です。


放蕩息子はすべてのお金を失い、食べ物がなくなってやっと実家に戻り「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」と謝りました。そんな息子をお父さんは走りよって受け入れて、愛し、祝福します。(ルカ15.11-24)

苦しい時、他の方法を考える前に、まず神様のところに行きましょう。祈り、求め、手放すべきことが示されたら手放しましょう。神様は僕らを癒し、祝福したいと願っておられます。