2024年8月23日金曜日

2サムエル19.41-20.2

 2サムエル19.41-20.2


「軽く扱われた」と感じるだけで、人間は腹を立て、攻撃的になっていきます。「栄光」とは原語で「重さ」のことです。軽んじられると感じ、他の人が重んじられると僕らは妬みます。自分の栄光(重さ)を求めるからです。


クーデターが終わり、ダビデ王がカムバックする時に、どの部族がヨルダン川を王様を渡らせたか、ということが妬みの原因になりました。ダビデと一緒にヨルダン川を渡ったのはユダ族です。他のイスラエルの10部族が到着した時にはもう渡り終えてしまっていたようです。彼らは怒ります。「なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」(43) 彼らはダビデ王にも文句を言います。



(41節)

するとそこに、イスラエルのすべての人が王のところにやって来て、王に言った。「われわれの同胞、ユダの人々は、なぜ、あなたを奪い去り、王とその家族に、また王とともにいるダビデの部下たちに、ヨルダン川を渡らせたのですか。」



彼らは子どもの喧嘩のように、どちらが正しいか、どちらが偉いか、強いか、と言い合います。



(42節)

ユダのすべての人々はイスラエルの人々に答えた。「王は、われわれの身内だからだ。なぜ、このことでそんなに怒るのか。いったい、われわれが王の食物を食べたとでもいうのか。王が何かわれわれに贈り物をしたとでもいうのか。」



イスラエルの10部族の人たちは、今度は自分たちの方が数が多い、土地も多いと威張りだします。



(43節)

イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王のうちに十の分を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っている。なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。



彼らは赦したり、尊敬し、自分を低くすることとは真逆を行き、文句は文句を生み、怒りは怒りを生み出し、高慢は高慢を産んでいきます。

これが再び国を分裂させるきっかけとなりました。

聖書は、争いの始まりは水が流れだすようだといいます。だから、争いが始まる前に止めるのが賢明です。



(箴言 17章14節)

口論の始まりは水が吹き出すようなもの。争い事が起こらないうちにやめよ。



口論の前に、妬みがあることを認めることが大事です。自分は自分の栄光(重さ)を求めているゆえに、人を妬み、不満に思い、怒っている、と自覚することです。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです。」とおっしゃいます。(マタイ12.34-36)

この嫉妬は、クーデターが収束したハッピーエンドを台無しにしました。むしろもっとひどい分裂を生むことになります。この争いに便乗するかのように、新たな反乱者が登場します。



(20章1節から2節)

1,たまたまそこに、よこしまな者で、名をシェバという者がいた。彼はベニヤミン人ビクリの息子であった。彼は角笛を吹き鳴らして言った。「ダビデのうちには、われわれのための割り当て地はない。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰れ。」

2,すべてのイスラエルの人々は、ダビデから離れ、ビクリの子シェバに従って行った。しかし、ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、自分たちの王につき従って行った。


軽んじられた、と怒っていたイスラエル10部族はアッという間に再びダビデから離れて行きます。神様を求めず自分の罪に流される人は風に吹き回される枯れ葉のように、次々と状況に流されて行きます。原因は神様ではなく自分が中心であろうとすることです。妬みと怒りと争いは「軽く扱われた」ことからはじまります。


僕らが求めるべきは、自分が重んじられることではなく、神様の栄光を求めることです。栄光とは原語で重さのことです。重さ(栄光)は神様にあります。僕ら軽く扱われていいのです。栄光は主にありますように。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩篇115.1)ハレルヤ!




2024年8月22日木曜日

2サムエル19.24-30

 2サムエル19.24-30


神様がよくしてくださったことを考えるとと文句が減ります。なぜなら既に与えられていることへの感謝と喜びの方がずっと大きいからです。

僕らはみんな、神様に裁かれて死んでいく罪人でした。だのに神様は僕らを赦し、愛するだけでなく神様の子どもとしてご王様の食卓に着かせてくださいます。僕らは将来神様の王子として栄光を一緒に頂くことになります。(2テモテ2.10、2テサ1.12、エペソ1.18、ローマ8.17-18など多数)そのことを考えると不満は減ります。むしろ、苦難も目的があって与えられていることの一つとして受け入れるようになります。


サウル王の孫のメフィボシェテでは、敵の子として死刑になってもおかしくないのに赦され、愛され、受け入れられ、王の子どもとされました。「メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をすることになった。」とあります。(9.11)こんなに良くしてもらえる理由は彼にはありません。大きすぎる恵みと愛です。彼にはダビデと神様への感謝しかありませんでした。ダビデ王がアブサロムのクーデターによって逃げているときには、彼はただただ悲しみ、祈りつつ待ち続けました。



(24節)

サウルの孫メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、ひげも剃らず、衣服も洗っていなかった。



足の悪いメフィボシェテは本当はダビデと一緒に行きたかったのに。しもべツィバに裏切られます。ツィバはまるでメフィボシェテがアブサロム側についたように嘘の報告をしてメフィボシェテを中傷しました。



(16章3節)

王は言った。「あなたの主人の息子はどこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、エルサレムにとどまっております。あの方は、『今日、イスラエルの家は、父の王国を私に返してくれる』と言っておりました。」



ありもしない中傷です。そのように家来に裏切られ中傷されました。それでも彼には文句がありません。なぜなら、もともと自分は死刑だった者だと自覚しているからです。今まで赦されてここまで生かされてきたことだけで十分感謝という気持ちが根底にあったからです。



(25節から28節)

25,彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ、あなたはなぜ、私とともに来なかったのか。」

26,彼は言った。「わが君、王様。家来が私をたぶらかしたのです。このしもべは『ろばに鞍を置き、それに乗って、王と一緒に行こう』と言ったのです。しもべは足の萎えた者ですから。

27,彼がこのしもべのことを王様に中傷したのです。しかし、王様は神の使いのような方ですから、お気に召すようにしてください。

28,私の父の家の者はみな、王様から見れば、死刑に当たる者にすぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。ですから、この私に、どうして重ねて王様に訴える権利があるでしょう。」



もともと死んだ者が神様とダビデから憐れみを受け愛されました。それだけで感謝です。「王様は神の使いのような方ですから、お気に召すようにしてください。」と彼は言います。(27)

ダビデ王は彼を愛し、地所を与える約束をしましたが、彼はただダビデが無事に帰ってきただけで充分といいます。


(29-30節)

29,王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分のことをまだ語るのか。私は決めている。あなたとツィバとで地所を分けるのだ。」

30,メフィボシェテは王に言った。「王様が無事に王宮に帰られた後なら、彼が全部取ってもかまいません。」



同じように、僕らも自分のものは何もなく、裁かれて殺されてもおかしくなかった存在です。今は赦され、愛されています。感謝してる人には欲や不満がありません。欲しがる必要もありません。28節の言葉はそのまま僕らが神様に告白することができます。


(28節)

私の父の家の者はみな、王様から見れば、死刑に当たる者にすぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。ですから、この私に、どうして重ねて王様に訴える権利があるでしょう。」



中傷されても赦すことができます。自分はそれ以上に赦されているからです。裏切る人に良いことをすることができます。自分はもっと神様に良くしてもらっているからです。悪に対して善で返すことができます。神様が悪に善で返してくださったからです。


死刑が当然の僕らを愛し、子どもにしてくださり、王の家族として食卓に参加するようにしてくださいました。こんなに愛される理由は僕らにはありません。ただ、イエス様が僕らを命をかけて愛してくださったからです。

僕らも愛しましょう。赦しましょう。感謝しましょう。イエス様がこんなに良くしてくださっているからです。ハレルヤ!






2024年8月20日火曜日

2サムエル18.19-33

 2サムエル18.19-33


罪の結果は本人が受けなければならないと聖書は伝えています。罪の刈り取りはあるし、必ず神様の裁きを受けます。でもそれは神様にとってスッキリすることではありません。むしろ罪人が苦しみ滅んでいくことは神様にとっての嘆きであり悲しみです。



(エゼキエル書 18章23節)

わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。



クーデターを起こしてダビデ王の命を狙った息子アブサロムは殺されました。罪の報酬は死です。ですが、同時にそれは父親ダビデにとって激しい悲しみです。



(サムエル記 第二 18章31~33節)

見ると、クシュ人がやって来て言った。「王様にお知らせいたします。主は、今日、あなた様に立ち向かうすべての者の手から、あなた様を救って、あなた様のために正しいさばきをされました。」

王はクシュ人に言った。「若者アブサロムは無事か。」クシュ人は言った。「王様の敵、あなた様に立ち向かって害を加えようとする者はみな、あの若者のようになりますように。」

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」



ダビデは悲しみ続け嘆き続けました。ダビデは息子アブサロムが死ぬことではなく、生きて悔い改めることを願っていました。戦いが始まる前、ダビデは隊長たちにアブサロムの命を守るように命じています。



(サムエル記 第二 18章5節)

王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ。」兵はみな、王が隊長たち全員にアブサロムのことについて命じているのを聞いていた。



ダビデは戦況の報告が来ると、真っ先に「アブサロムは無事か?」と聞きます。彼が死ぬことではなく、彼が生きて悔い改めることを願っていたことがわかります。



(18.28-29)

アヒマアツは王に「平安がありますように」と叫んで、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました。」

王は言った。「若者アブサロムは無事か。」アヒマアツは言った。「ヨアブが王の家来であるこのしもべを遣わしたとき、何か大騒ぎが起こるのを見ましたが、私は何があったのか知りません。」



神様は正しく裁かれます。しかし罪人が死ぬことは、神様の悲しみです。ダビデの悲しみは神様の悲しみです。ダビデは「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」(33)と嘆き、罪を犯して死んでいく子を愛されます。同じように、イエス様は不敬虔な罪人を愛されます。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5.8)


イエス様が罪を背負って十字架で死ぬことは、神様の嘆きであり悲しみです。ダビデが泣きながら言い続けた「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」という嘆きは神様の嘆きです。罪の刈り取りはあるし、必ず神様の裁きを受けます。ですが、それは神様にとっての嘆きであり悲しみです。神様は「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 」(2ペテロ3.9)


罪人を愛し、忍耐し、滅びることを願わずに招いておられる神様の心が今日、僕らの心になりますように。



2024年8月19日月曜日

2サムエル18.1-17

 2サムエル18.1-17


罪は自分に返ってきます。何もいいことがありません。

聖書は言います。「人の血を流す者は、人によって血を流される。」(創世記9章6節)「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙 6章7節)「罪の報酬は死です。」(ローマ人への手紙 6章23節)


自分の罪が自分に返ってきます。ダビデは他人の妻を欲しがり、手に入れるために相手の夫を殺しました。(2サムエル11章)預言者ナタンがダビデのもとに来て、この罪を指摘します。(2サムエル12章)ダビデは自分の罪の重大さを知り、神様に対して悔い改めましたが、自分の罪がもたらした結果からは逃れることができませんでした。神様はダビデの家族の中で争いが絶えないこと、また、ダビデの子どもが死ぬという厳しい罰を告げました。(2サムエル12.11-14)本当に、バテシェバとの間の子どもは死に、息子アムノンは兄に殺されます。そしてその兄アブサロムも殺されます。これは、罪はそのまま自分に返ってくることを強く示す実例です。


ダビデは自分の国を愛していました。イスラエルは神様にとって「愛する花嫁」です。ところがダビデは自分でその国を攻撃しなければなりません。しかも愛する息子アブサロムは自分を殺そうとしています。これは神様がおっしゃった通りです。「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。」「あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」(2サムエル12.11-14)ダビデは愛する国民が殺し合う経験、そして愛する息子が殺される経験をしなければなりませんでした。



(6節から8節)

兵たちはイスラエルに対抗するために戦場へ出て行った。戦いはエフライムの森で行われた。

イスラエルの兵たちは、そこでダビデの家来たちに打ち負かされ、その日その場所で多くの者が倒れ、その数は二万人となった。戦いはこの地一帯に広がり、この日、剣よりも密林のほうが多くの者を食い尽くした。



ダビデの子アブサロムも同じく、罪が自分に返って来ます。

彼は自分の栄光を求め王権を欲しがり、人々の心を盗み、ダビデを殺そうとしました。(2サムエル15.5-6、17.12-13)その罪ゆえに自分が殺されることになります。しかも、その原因は彼の自慢の美しく長い髪の毛だったようです。



(18章9~10節)

アブサロムはダビデの家来たちに出会った。アブサロムはらばに乗っていたが、らばが大きな樫の木の、茂った枝の下を通った。すると、アブサロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていたらばはそのまま行ってしまった。ある男がそれを見て、ヨアブに告げて言った。「今、アブサロムが樫の木に引っ掛かっているのを見ました。」



引っかかったアブサロムの髪の毛は美しく、「アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。」とあります。(14.25)そして、その髪は長く「刈るときに髪の毛を量ると、王の秤で二百シェケル(2キロ以上)」と書かれています。(14.26)自慢の髪の毛は木に引っかかり、自分を縛り、殺される原因となりました。



(18章14~15節)

ヨアブは、「こうしておまえとぐずぐずしてはいられない」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブサロムの心臓を突き通した。

ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブサロムを取り巻いて彼を打ち殺した。



罪は自分を傷つけ殺します。アブサロムのように自分の栄光や力を求めても、むしろ神様に裁かれ全てを失っていきます。この負のスパイラルは僕らも同じです。「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙 6章7節)「罪の報酬は死です。」(ローマ人への手紙 6章23節)この連鎖から救われるのは、イエス様と一緒に死に、イエス様と一緒に新しく生まれる以外にありません。


イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」「悲しむ者は幸いです。」「義に飢え渇いている者は幸いです。」とおっしゃいます。(マタイ5.3-6)自分が撒いた種で苦しんでいることを自覚し、悲しみ、飢える人は幸いです。「自分はあのことせいで不幸になっている」と自覚して悲しむ人、心の貧しい人は祝福されています。「その人は幸いです」とイエス様はおっしゃいます。


救われるための第一ステップは自分の罪深さを知ることです。過去の罪に目を背けないで、聖なる神様のもとでそれを認めることです。そしてそれを告白することです。そしてイエス様の完全な赦しときよめを信じることです。

信じた人は義とされます。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8.1)罪の結果は地上では完全に消えるわけではありませんが、確実に少なくなっていきます。イエス様の赦しと愛を信じて生きる新しい人生がはじまります。


「あれが悪かった、これが悪かった」という古い人はイエス様と一緒に十字架につけられて死にました。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5章17節)


自分に返ってきている罪を、もう一度ちゃんと告白して神様に明け渡しましょう。イエス様は全ての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1.9)罪人の自分はイエス様と一緒に死にました。(ガラテヤ2.19-20)イエス様は全てを新しくします。罪の影響は今なおありますが、それでもイエス様は言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8.11)

罪は何もいいことがありません。気が付いたら告白してやめましょう。僕らは新しく作られたものです。ハレルヤ!




2024年8月18日日曜日

2サムエル17章23節

 2サムエル17章23節


期待が大きいと、違った時の落胆も大きいようです。また、「こうあるべき」「こうあらねば」が強い人ほど不安が大きく、怒りやすかったり傷つきやすかったりします。

アブサロムの助言者だったアヒトフェルは、「自分の意見が通らなかった」ことで絶望し自殺しました。「意見が通るかどうか」は命に関わるほどに大事なことだったようです。



(サムエル記 第二 17章23節)

アヒトフェルは、自分の助言が実行されないのを見ると、ろばに鞍を置いて自分の町の家に帰り、家を整理して首をくくって死んだ。彼は彼の父の墓に葬られた。



彼は確かに優れた意見の持ち主でした。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。」(16.23)とあります。しかし、神様はそのはるか上のご計画をお持ちです。「彼の助言をあえて採用しない」ことが今回の神様のご計画でした。それは彼が劣っていたからではなく、神様がクーデターを起こしたアブサロムにわざわいをもたらすためでした。



(14節)

アブサロムとイスラエルの人々はみな言った。「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い。」これは、主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。



意見が採用されないことも神様のご計画です。自分の思い通りにならないことも神様のみこころです。人は意見や計画を持ちますが、さらに上を行く神様のご計画だけがなります。(箴言16.1)


今日、がっかりしたり、落胆していることは何でしょう。不安だったり怒ったりしていることは何でしょう。そのことについて、神様よりも自分の計画を押し通そうとしていないか、自分に聞いてみましょう。落胆には高ぶりが隠れています。イエス様の祈りはお手本です。



(マタイ26.39)

わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。



自分の思い通りに通らななくても、それで神様に愛されなかったり、価値がなくなったりしたわけではありません。こうすべき、こうあらねば、と思わなくて大丈夫です。


もともと、僕らは土のチリにすぎないものです。(詩篇103.14)能力や立場も一時的に預かっているだけです。栄光は神様のもの、ご計画や支配は神様のもの、力は神様のものです。教会はずっと祈ってきました。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」(マタイ6.13)


今日も僕らの思い通りでなくて大丈夫です。神様の御心がなりますように。ハレルヤ!


ヘブル3.7-4.13 今日が救いの日。頑固にならないで

 ヘブル3.7-4.13 今日が救いの日。頑固にならないで(召天者記念礼拝 2024.8.18)

今日は召天者記念礼拝です。先輩たちが最後まで信じて天に凱旋したように、同じように神様は今日みなさんを永遠の安息に招いてくださっています。そして、神様が今日何度も僕らに繰り返されるフレーズがこちらです。


(7-8)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。


(15)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。


(4章7節)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」


イエス様だけが天国への道です。イエス様を信じる人は裁かれることなく、永遠の命を持ちます。死から命に移っています。この言葉を聞くなら、頑固になってはいけないと何度も主は繰り返されます。


北海道聖書学院の元学院長の八尋先生の学院での最後のメッセージを聞く機会がありました。

その時、退職間近の先生が最初におっしゃった言葉は「私は、死ぬまで生きていたい。」

僕も周りの人たちも最初はポカーンという感じでしたが、その意味を説明してくれました。一生、死ぬまで、頑固にならず、神様との関係が生きたものでありたい、神様が与えてくださる天からの命につながって感謝して生きていきたい、死ぬまでそうありたい、という意味でした。


先生がそういう理由は離れていく人が多いからです。

一度イエス様を信じて洗礼を受けても、頑固になって、自分は大丈夫、自分は自分でやっていける、そのように高ぶり、過去に戻る時に、神様との関係は終わり、その人は神様が用意されている天の安息にも祝福にも入れなくなります。待っているのは永遠の苦しみです。そのような人が多いし、今日の聖書の箇所はそれを警告しています。


頑なになって、自分が神様より上になり、この世の楽しみや自分の力で自分を生かそうとする人は神様との関係が死んでいきます。神様のことばを聞いても本気にはしません。

神様は今日、僕らを招いておられます。


(4章7節)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」


今日、まだ信じていない皆さんへのメッセージと、すでに信じた皆さんへのメッセージが2つあります。


①信じていないみなさんには、今日神様の声を神様の言葉を聞いたら、頑固にならないで、心が柔らかいうちに信じて下しあ、ということです。今日、聖書は繰り返しています。今日、頑固にならないで信じてください。みなさんは招かれています。永遠の命と祝福に招かれています。


②そして、すでに昔信じたみなさんへのメッセージがあります。それは、再び頑固になって落ちていかないように、です。


フラー神学校のロバートクリントン教授によると、聖書に登場する指導者でさえ、最後まで信仰を持って走り抜いたのは30パーセント以下だと書いているそうです。


僕はその話を聞いて、イエス様によると25パーセントだと思いました。イエス様の話はこうです。

ある人が種を蒔きました。その種は神様の言葉でであり、救いの言葉であり、いのちのことばです。ある種は岩の上の薄い土地に落ちて発芽したけど枯れました。ある種は道端に落ちて鳥に食べられました。ある種は発芽したけど雑草に塞がれて枯れました。ある種だけが良い土地に落ちて発芽し成長し実を結びました。イエス様によると、発芽して成長して最後まで実を結ぶ種は25パーセントです。


東栄教会今年50周年を迎えました。記録を見たら洗礼受けた人は200人を超えています。先に天に召された先輩たちが多くいます。でも一方では信仰を捨ててしまった人もたくさんいます。


今日は阿部先生、樽井さん、菅野さん、馬場さんの納骨をします。最後まで信仰を持って生涯を終えた先輩たちです。イエス様がおっしゃった通りに天に用意されている安息に住まいに招かれ、永遠の祝福に入れられています。


(4章1節)

こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。



●安息に入れなかった先輩たちの実例


(7節から11節)

7,ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、

8,あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように。

9,あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。

10,だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』

11,わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」


神様はイスラエルの先祖たちに、祝福の土地を与える、そこに導くと言われました。

そこは「乳と蜜の流れる地」と言われる地です。祝福の土地、安息の土地です。この地は神さまとの約束の成就として与えられる土地です。ところが、先輩たちは頑固になって、招き入れられる約束を信じなかったし、いつも目先のことで文句ばかり言い続け、逆らい続け、安息の地に入ることができませんでした。


(16-19)

16,では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。

17,神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。

18,また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。

19,このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。


神様が当時与えてくださったカナンの土地は天の祝福を表しています。僕らが招かれている天の安息を示すかのように書かれています。


※当時の様子


(ヨシュア1章3節)

わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。


神様は時間を超えています。だから。まだ与えられてなくても、すでにあなた方に与えている、と言われます。ヨシュアとイスラエルの民はその言葉を信じて、歩み出しました。必ず与えられるのですが、聞いた人たちはただぼーっとしているのではなく、信じて、出発して、戦って、その土地を手に入れる、というプロセスが必要でした。信じることと従んで歩み出すことはセットです。神様の言葉はあなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている」です。


彼らは祝福の地を偵察して報告します。神様がおっしゃった通り素晴らしい土地でした。

ただ、偵察隊12人のうち10人が、その土地に行くことに反対します。理由はそこにいる人たちは自分達より強いから、そこに入っていくのは無理だ、というものです。

そうすると、報告を聞いた人たちの顔は見る見る曇っていきました。


(民数 13:31)

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。

あの民は私たちより強いから。」


彼らは「攻め上れない」といいます。


(民数 13:32)彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。

「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。

私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。


悪いことが起こるという想像力のはすごいです。まるで、それが確定事項のように言い切ります。神様は必ずそこに招き入れるとおっしゃったのに、彼らは無理だと宣伝します。そしてそれは人々に広がり、不安になり、嘆き、悲しみ怒り始めます。神様の言葉は希望と喜びを与える言葉です。人が作った悪い想像は不安と絶望と怒りを与える言葉です。


私たち人間は不思議なことに、神様の言葉は信じないけど不安なこと、悪い想像は信じやすいものです。思い煩いを作り出しては怒り、ありもしないことを想像して悲しみます。


イエス様は「私は平安を与える」とおっしゃいます。神様は安息を与える、と何度もおっしゃいます。

安息や平安の反対は不安、焦りです。神様から離れると平安からも離れます。神様につながっていると、喜びと愛と平安がありますが、神様から離れると悲しみと不安と怒りがあります。それを克服するために、神様以外で満たされようと安心しようとして、何かに誰かに愛されようとしてこの世にすがります。

それが、旧約聖書に書かれた先輩たちの姿でした。


(9-12)

9,あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。

10,だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』

11,わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」

12,兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。


イスラエルの先輩たちは何度も神様に救われていたし養われていました。それが事実です。

でも、その恵みや愛をを見ようともしません。何もないはずの荒野で、40年間水があたえられ続けました。


僕も去年イスラエルの荒野をちょっとだけ歩きました。ガイドさんはバスを降りる度に、絶対に水を持っていくように言います。そこで30分も歩いたら喉カラカラです。暑いのに汗もかかないような乾燥地帯です。そのような何もない荒野で、40年の間水が与えられ続け、パンも肉も与えられ続けました。それでも、彼らは神様を疑い逆らい続けます。

自分から選んで神様から離れて安息の土地、素晴らしい祝福の土地に入ることができませんでした。


●私たちへの警告


(15-17)

15,「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。

16,では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。

17,神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。



今日納骨をする先輩たち、そして先に召された先輩たちは天の故郷、天の住まいに入れられています。今日の箇所では安息と表現します。


(4章1節)

こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。


あの素晴らしい乳と蜜の流れる土地のことも安息の地というし、僕らが地上の人生を終えて迎えられる天の故郷も安息です。天のふるさとは究極の霊的な祝福です。それを安息と言います。


(9-11)

9,したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

10,神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。

11,ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。


神様はこの世界をお作りになったときに7日目に休まれてその世界を祝福されました。神様にとっては7日目は祝福と喜びの日です。悪いことが何もない祝福の世界を表す日です。


(4-5)

4,なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、

5,そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。


その祝福と喜びの日、完璧な安息の世界に入れないことを警告しています。


※目先のことで判断しないように


僕らは目先のことで一喜一憂しがちです。でも神様はもっと長期的に見ておられます。僕らは人間なので、神様のように時間を超えて物事を見ることができません。

現時点では私たちの願いが叶わなかったように見えます。現時点では不幸に見えます。でも、神様はもっと良いことをしようとなさっています。だから、信頼しなさい、と言います。これが聖書が教える忍耐です。忍耐はやせ我慢ではなく、希望を持って信頼し続けることです。


(ローマ8.28)

神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。


神様良い方です。僕らの計画通りにならない時も僕らのことを考えてさらに良いことを成そうとしています。


なんで神様、今日それをしてくれないのかどうして待たされるのか、私たちは不満を言います。でも神様はもっと良いものを与えようとなさっているわけです。


※苦しみの先に栄光がある実例


イエス様の親友ラザロが死んだ時、イエス様は彼の墓に行きました。そして死んだラザロの姉と妹、マリアとマルタに迎えられ、彼女たちは不満を言います。


もっと早く来てくれれば、弟は死ななかった。言葉は柔らかいけど、何を今更どうして早く来てくれなかったのか。そのようにいいたげです。


(ヨハネの福音書 11章21節)

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。


でもイエス様はあえて、死ぬ前に助けに行かなかったようです。


(ヨハネの福音書11章3-6節)

3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

4これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(…中略…)

6しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。


神様の栄光を表すために、死んだ者が蘇る希望を表すために、イエス様はあえてラザロが病気になってもそこに行かず、時間をかけたわけです。愛する弟が死んでしまう、という最悪を通ることによって、イエス様は復活の事実を見せようとしておられました。僕らが絶望と思うことさえ、神様は良いことのために通らされます。絶望は祝福のための通過点です。


この後ラザロは復活します。


(ヨハネの福音書11章43-44)

43イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。


だから、今日、あなた方の心を頑にしてはいけない、と御霊が僕らに言われます。

先輩たちが荒野で苦しんだ時、どうして神様、こんなことをさせるるのだ、と頑固になって祝福を失ったように、そのようにあなたはなってはいけないと繰り返して言われます。

その先に神様の栄光があるからです。

確かに人生には苦しみがあります。それでも、その先にある神様の安息はなくなっていません。


確かに荒野で先輩たちがが苦しんだのは事実です。その苦しみにも意味があります。神様は言われます。


(申命記8.3-7)

3,それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

4,この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。(…中略…)

7,あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。


苦しみの目的は神様のことばが本当に実現することを知るためでした。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(3)「あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。」(7)


それでも人は目先のことだけを見て心を頑にしがちです。

神様がよくしてくださったことには目を留めず、いつも不満を探しつぶやきます。

どうせ私たちは祝福されないんだ。どうせ滅ぼされてしまうんだ。彼らは自分で願った通り、自分で選んだ通りに滅ぼされて行きました。何を選ぶかです。神様のことばを聞いて信じることを選ぶか、無視することを選ぶかです。


不平不満を言うのは簡単です。礼拝しなくなるのは簡単です。それは神様がしてくださったことよりも、神様があれしてくれなかったこれしてくれなかった神様がしてくれないことを数えていればすぐに感謝せず、礼拝しない人になれます。

すぐに不満と不安と怒りに取り付かれた人になれます。

神様には平安があります。そして、神様から離れた人には不安があります。この世で満たされようと必死になります。食べ物や、人に愛されることや、見た目や業績やお金で満たされようとします。


神様がくださるのは安息です。完全な安心と休みです。その平安を望まない人はお望み通り永遠に平安から、安心から、祝福から切り離されてしまいます。自分で選べます。聖書は何度も安息に入る、と約束しています。


天の安息に入れない人がいることをはっっきりと伝えています。

イエス様は私たちを見放すことはありませんが、私たちの側では選択することができます。

選べます。


●愛し合い励まし合うことの大切さ


落ちていく人を放っておきなさい、とは神様は言われません。

むしろ、一人も落ちることがないように励ましあおうというのが12節と13節です


(12-14節)

12,兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

13,「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。

14,私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。


お互いに助け合う役目と責任があります。神様から離れていく人を放っておかないで助け合いなさい、と言います。13節「日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」


(ヘブル人への手紙 10章25節)

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。


今日皆さんが集まるのはすごく大事です。教会は牧師さんの話を聞くだけの集まりではありません。集まって、互いに愛し、助け、励ましあい助け合うのが聖書の教える家、神様の願いそのものです。


聖書は個人主義は教えていません。個人では愛し合うことができないからです。個人では励まし合うことができないからです。私は個人的に神様を信じています、教会には集まりません、というなら、聖書はそれに倣ってはいけないと言います。


聖書は、終わりの日が近づくと、ますます愛は消えていきますといいます。個人主義の時代になります。

愛さない、関わらない、自分さえ良ければいいという時代になると聖書は言います。しかも、偽の教えが流行って多くの人を惑わします。だからこそ日々互いに集まって、愛し合い、伝え合い、励ましあうことが必要です。


私たちは教会に集まって、お互いのために今日あなたのために何を祈ったらいいかになったらいいか教えてください、と言います。あなたのために祈らせてください、と集まります。人のために祈る事は愛することです。祈りがなければ愛は与えられません。反対に、神様からの愛がなければ他の人にのことを祈りたいなんて思いません。祈りと愛はセットです。祈ってもらうのも愛です。


これがキリストの教会です。イエス様の体です。イエス様が私たちの家に住んでおられます。神は愛です。そして教会は祈りの家と呼ばれます。個人主義では励まし合うことができません。


人間は孤独な時に罪を犯します。誰も見てないときに本性が出ます。だから集まって励ましあいなさいと言うのです。集まって愛し合いなさいと言うのです。神様は「人が1人でいるのは良くない」とおっしゃるのです。


●まとめ


(7-8節)

7,ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、

8,あなたがたの心を頑なにしてはならない。


聖霊は「まだ心が柔らかい間に、イエスに応答しなさい」と言っているんだ。今迷っている人は、選べます。信じて、永遠の安息に入ることができます。拒否して心が硬くなっていくこともできます。平安はどんどんなくなります。


やがて神様の前に立たされます

僕らは全てを弁明します。その時に言い訳をしても遅いのです。全てがさらけ出されています。


13,神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。


今日、あなたは決断の縁に立っています。安息に入るか、永遠の滅びと苦しみに入るかです。

今日、イエス様を信じることを決断しましょう