2022年12月31日土曜日

中学の時の演奏を発見

 40年ぶりに聞いてみて、中学生とは思えないクオリティだし、子どもにこんな複雑な現代曲をやらせる先生にも脱帽です。当時僕は1st トロンボーン。毎日怒鳴られながら軍隊のような練習でした。子どもなのに複雑な曲に慣れてしまって、その後は普通の曲がつまらなく感じたのを思い出します。1981年の全国大会の時の録音。

1981年 全日本吹奏楽コンクール 金賞受賞
北海道代表 旭川市立神居中学校吹奏楽部 / 指揮 栗山 晃

2022年12月30日金曜日

ホセア1章

浮気をし続ける相手を受け入れ続けるのは辛いことです神様はそのような妻をを受け入れなさいと預言者ホセアに言います。これは神様の忍耐とあわれみを表しています。神様は裏切ることを知りながらイスラエルを愛します。当然そこには怒りと悲しみがあります。預言者ホセアも裏切られることを知りながら妻ゴメルと結婚します


(2-3)

主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」彼は行って、ディブライムの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。


イスラエルは神様に背を向け裏切り続ける妻のようです彼女は妊娠して出産します。神様はその赤ちゃんに裁きを意味する名前をつけさせます。神様はイスラエルの王国を終わらせ、その弓(軍事力)を破壊します。そのことを預言する意味の名前をつけさせます。ホセアの妻ゴメルは姦淫をし、今度は他人の子を産みます。ところが神様はホセアに「姦淫の子らを引き取れ。」と言います。(2)そしてその赤ちゃんに「憐れまない」という名前「ロ・ルハマ」と付けさせます。


(6)

ゴメルはまた身ごもって、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さないからだ。


神様は「彼女の子らを、わたしはあわれまない。彼らは姦淫の子らだから。」と言います。(2.4)


妻ゴメルはさらに他人と姦通して妊娠します。神様はその子に「私の民ではない」という名前「ロ・アンミ」と付けさせます。


(8-9)

彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、身ごもって男の子を産んだ。

主は言われた。「その子をロ・アンミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」


この妻のように、神様にとってイスラエルは神の怒りに触れ、追い出され捨てられても当然の女のようです。ところが、その神様が、彼らを憐れみ、忍耐し、そしてイスラエル人のことを「生ける神の子ら」と呼んでくださいます。この箇所を新約聖書は解説しています。


(ローマ9:22-26)

ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。(…中略…)神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」


僕らも自分の過去を振り返るなら滅ぼされて当然、捨てられて当然でした。だのに神様はイエス様の十字架の処刑によって僕らを赦し、もう一度「神の子ども」と呼んでくださっています。神様の恵みと憐れみと忍耐は大きすぎます。誰も威張れません。ただ感謝しましょう。追い出されて当然でした。捨てられて当然でした。だのに愛されています。恵みだけ、あわれみだけです

ホセア3章

 イエス様は罪人を愛し招いておられます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人ですわたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」とおっしゃいました。(ルカ5.31-32)教会は立派な人の集まりでないし、正しい人の集まりでもないです。神様は罪人を憐れんで、見捨てないで、拾って、愛して、癒して、くださっています。だから教会でどっちが正しいどっちが偉いかの議論は全く意味がありません。教会の交わりにはイエス様の犠牲への感謝が流れています。


教会の中心は十字架です。この十字架はキレイなものではなく、イエス様の時代の死刑です。しかも公開死刑です。しかも、なるべく長時間苦しむところ見せるためのものですあの十字架の犠牲が、あの苦しみこそが神様の愛の証です愛とはほんわかしたものでなく、犠牲を払うことです神を裏切り、神を疑い、神を嫌う罪人のために苦しみ命を失うことが神様の愛です


神様は姦通し裏切り続ける続ける妻を愛しなさい、と預言者ホセアに言います。これは神様の犠牲の愛を表しています。


(1)

主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」


この女は夫ホセアを裏切り、ほかの男を求め続けます。性欲のままに獣のように男を貪り続ける妻ですそんな妻を愛しなさい、と神様は言います。彼女は性欲のままに男を貪っているだけでなく、体を提供すれば収入にもなると思って喜んで他の男を求めていました。『私の愛人たちの後について行こう。彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる』とあります。(2.5)


この妻は家を出て行って、やりたい放題のすえ落ちぶれて売春宿か、偶像礼拝の神殿娼婦として雇われていたようです

普通だったら戻ってきて欲しくない妻ですまるで公衆便所のようになってしまった妻ですあんなところに何十年もいた人と関わりたくない、まして受け入れたくない、と思うのが本音です


ところが神様は違います。夫ホセアにあなたの方からその妻のところに行って、取り戻して、愛しなさい、と言います。理由はそれが神様の愛の現れだからです


(1)

主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」


夫ホセアは言われた通りにお金を払って落ちぶれた、汚れきって醜くなった妻を取り戻します。


(2-3)

それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、

彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」


妻だったら家族だったら連れ戻すのにお金を払う必要がなかったはです。でも、彼は代金を払って奴隷を買い戻すように落ちぶれた妻を取り戻し、もう一度一緒に生活することを決めます。神様がホセアにこれをさせたのは神様の愛を具体的に表すためでした。

神様にとってイスラエルは愛する妻ですでも彼らは裏切り続けます。そして新約聖書は教会のことをキリストの妻、花嫁と表現しています。汚れた罪人がイエス様に犠牲を払って取り戻され、愛されている妻、それが教会です


(エペソ 5:25-27)

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです


キリストは教会を愛し、苦しんで命を捨てて汚れた私たち教会を受け入れ、きよめてくださいました。そのように、今度はあなたもしなさい、と言われています。ホセアが落ちぶれた妻をゆるし、犠牲を払って受け入れたように、イエス様が落ちぶれた私たちのために十字架で苦しんで赦してくださったように、そのように愛し合いなさい、と聖書は言います。


これはガマン大会ではありません。相手のために犠牲を払うことは天で喜ばれ、聖霊による喜びです上記のエペソ人への手紙の箇所は「御霊に満たされなさい」という文脈で書かれています。「互いに愛し合いなさい」の意味は、「あなたの側で忍耐と犠牲を相手のためにささげなさい」という意味です


ホセアが何度裏切られても妻のために犠牲をはらって赦し続けることができたのは、それが神様から与えられる愛だからです

これは人間からは絶対に出てきません。愛は神様から与えられる賜物、プレゼントであって、僕ら人間の中から出るものではありません。愛ゆえの患難や苦しみを喜べる理由は、イエス様を信じた人には、神様の愛が聖霊によって注がれているからです


(ローマ 5:3

患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、(…中略…)なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです


愛するための忍耐はガマンでなく、喜びです聖霊による忍耐と愛は天の喜びです教会の仲間は互いに相手に犠牲を払って重荷をおいなさい、と言います。


(ガラテヤ6:2)

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法(互いに愛し合うこと)を全うしなさい。


あなたの隣人があなたを苦しめ、困らせることがあります。皆さんはその人を無視し、避け、軽んじることもできます。会社なら、難しい人にもう来なくていい、と言います。

でもイエス様は違います。その人を避けず、祈り、向き合い、その重荷や苦しみを引き受けて一緒に歩みます。「罪人を招くために来たのです」と言われます。これは聖霊による愛です。僕らが他の人の罪ゆえに苦しみ、重荷を負わされたなら、それはイエス様が十字架にかかって愛してくれたことのほんの少しだけ体験することになります。イエス様は「互いの重荷を負い合い」なさい、と言います。


イエス様は私たち罪人を招いておられます。教会は立派な人の集まりでないし、正しい人の集まりでもないです

ひどい罪人を神様は見捨てないで、拾って、愛して、癒して、くださっています。不愉快な家族や仲間、兄弟姉妹がいたら、あなたの側が犠牲を払い、赦し、愛し、受け入れましょう。その忍耐は聖霊が与えてくださった忍耐の愛です僕らから出たものではありません。相手が悪くても、あなたの側で重荷や犠牲を引き受けましょう。これがイエス様の愛の表れです。その犠牲は天で喜ばれています。イエス様の御霊があなたの中に住んでおられます。イエス様の愛は、あなたが相手を赦し、忍耐し、祝福する決断と祈りに現れます。


ホセア4章

 僕ら人間は神様のことばを聞いて生きるように作られています。ちょうど、羊が羊飼いの声を聞き分けることで安全な場所や餌場に導かれて生きるようです。人間は神様の羊のようです神様のことばを聞くことはいのちを得ることですイエス様は言われました。


(ヨハネ10:27-28)

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。


旧約の時代は神様のことばは預言者を通して与えられ、預言者や祭司はそれを人々に教え、それによって人々は神様との関係も隣人との関係も守られました。羊飼いの声を聞かなくなった羊はさまよい歩き、危険にも野獣にも気づかずに死んでしまいます。同じように神様のことばを聞かない人は全てに迷い出て滅びます。ホセアの時代、イスラエル中が偶像礼拝や淫行や盗みや殺人が当たり前になっていました。落ちぶれた原因は神様の教えを聞かなくなったことです


(1-2)

イスラエルの子らよ、主のことばを聞け。主はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。呪いと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。


神様のことばを失ったイスラエルは滅びます。本来、神様のことばが彼らのいのちでした。ところが、祭司も預言者さえも神様のことばを教えず、彼ら自身も神様を忘れて、神様に退けられて行きます。


(6)

わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる


今も僕らに必要なのは聖書に啓示された神様のみことばですこの時代、神様を知ることなしに、いけにえなどの儀式や行事だけが続いていました。それはもはや形だけの儀式であって、実際は人々のささげ物が祭司のもうけのためだけになっていました。祭司たちは神様ヌキでささげものだけを貪っています。


(8-9)

彼らは、わたしの民の罪のきよめのささげ物を貪り食い、民の咎に望みをかけている。

民も祭司も同じようになる。わたしはその生き方のゆえに彼らを罰し、その行いのゆえに彼らに報復する。


イエス様の時代も同じく神殿は礼拝というビジネスの場所になっていました。イエス様はそれを激しく怒ります。


(マルコ 11:15-17)

イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」


みことばを失った人々は酒と淫行の中をさ迷い、滅ぼされてしまいます。


(17-18)

エフライムは偶像にくみしている。そのなすに任せるがよい。

彼らは酒を飲んでは、淫行にふけり、淫らなふるまいで恥を愛してやまない。


今も教会は人ごとではありません。みことばは人を守り生かします。(詩篇119.50など多数)みことばを失った教会は酒と淫行にふけり、虚しい儀式や献金目的の虚しい組織だけが残ります。みことばを失うことはいのちを失うことですどんなにこの世で繁栄しても人数が増えても最後に恥となるなら意味がありません。


(7)

彼らは増えるにしたがって、ますますわたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。


みことばは僕らを守ります。今日も僕らがいのちのことばを求めますように。

ホセア5章

苦しみには色々な種類があり意味があります。その一つが「主からの懲らしめ」です。これは罰ではなく教育です神様を慕い求め、神様との関係を最優先するため、僕らを愛し懲らしめます。


ヘブル12:6

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

ヘブル12:10

霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです


イスラエルは神様にとって愛する子どもです。が、彼らは問題があると神様には求めずにこの世の力ばかりを求めます彼らはアッシリアという超大国を求めアッシリアに莫大なお金を払って助けを求めました。ところがイスラエルは逆に大国アッシリアに苦しめられる結果になります。


13

エフライム(イスラエル)は自分の病を見た。ユダは自分の腫れものを。エフライムはアッシリアに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたを癒やすことができず、あなたがたの腫れものも治せない。


実は神様はアッシリアを使ってイスラエルを懲らしめていました。アッシリアは神様の怒りの杖であり、ムチでした。(イザヤ10.5)神様の怒りは教育です。苦しめるのが目的ではなく、彼らが神様以外に助けはないことを知り、彼らが神様に帰ってくるためのものです


14-15

わたし(神様)が、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。

わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」


神様は僕らを愛しておられます。神様を慕い求め、神様との関係を最優先するため、僕らを愛し懲らしめます。

今日、苦しみがあったら神様をまず求めましょう。神様を何より慕い求めるために与えられた苦しみです愛のゆえです。感謝して神様を最優先して求めましょう。神様は苦しみを通して僕らがますます主と親しくなることを求めておられます!

ホセア6.6

僕らはすぐ愛の心を忘れてしまいます。うわべだけの行動になりがちです。神様が願っておられるは僕らが心から神様を愛し愛される関係ですそして人と人が愛し合う関係です表面だけの良い行いやルールを守ることよりも、神様が願っておられるのは真実の愛です


(3)

私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。


「主を知る」とは神様と親しく心から交わることです


(6)

わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。


イエス様もホセア6章6節を何度も引用されています。イエス様が願ったのは罪人が神様と交わりを回復することですルールを重んじることで「私は正しい」と思う人たちは罪人と交わるイエス様を非難しました。でも、イエス様はホセア書の言葉を引用して答えます。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは正し い人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 (マタイ9.13)イエス様の願いはルールを守ってカタチを整えることではなく罪人が神様と交わり、人々が真実に愛し合うことでした。神様は今日も僕らが心から神様と交わることと、人と人が心から愛し合うことを願っておられます。


僕ら人間はいつも見える形にとらわれ人をさばきます。弟子たちが安息日に麦畑の穂を摘んで食べていた時も律法学者はさばきました。ルール違反だ、と。その時にもイエス様はホセア6章6節を引用されます。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』ということがどうい う意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。」(マタイ12.7)ここでもルールを重んじることよりも神様が愛とあわれみを喜んでくださることを説明しておられます。イエス様はおっしゃいました。『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽 くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物 よりも、ずっとすぐれています。」(マルコ12.32-33)ここでもホセア6章6節のことを言っています。


僕らはすぐ愛を忘れてうわべだけ良く見える行動になりがちです真実の愛こそ神様が願っておられることですカタチではありません。僕らの全ての行動が今日も神様が与えてくださる真実の愛によりますように。


ホセア7.8-16

 神様はいつも近くにいてくださいます。だのに僕らはそれに気がつかずに人間的な解決方法ばかり探し回ります。神様よりも人の力や知恵による解決を求めるのは人間の高慢です神より人間を信じ従うのは人間が「神のようになれる」と嘘を信じてしまっているからです。(創世記3.5)


10-11)

イスラエルの高慢はその顔に表れている。彼らは、自分たちの神、主に立ち返らず、このすべてがあっても、主を尋ね求めない。エフライムは愚かな鳩のようで、良識がない。エジプトを呼び求め、アッシリアに飛んで行く。


高ぶるイスラエルは神様に従うことも頼ることも求めることもせずに人間的な解決ばかりを求めます。強国エジプトを求め、アッシリヤを求めるのに、近くにいてくださる最強の神様を無視します。何かもらえるとか、収益の話になると急に積極的になり行動しますが、神様のみことばには見向きもしません。


(14)

穀物と新しいぶどう酒のためには群がって来る。しかし、わたしからは離れて行く。


神様はそんなイスラエルに懲らしめを与え、人でもモノでもなくまず神様を求めるように訓練されます。


(12-13)

彼らが赴くとき、わたしは彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き降ろす。彼らの群れの音を聞くとき、わたしは彼らを懲らしめる。わざわいだ、彼らは。わたしから離れ去ったのだから。彼らは、踏みにじられるがよい。わたしに背いたのだから。わたしが贖い出そうとしているのに、彼らはわたしに向かってまやかしを言う。


神様の願いは僕ら神様を求めることです人は収入や食べ物で生きているのではなく、神様のことばによって生かされています。(マタイ4.4)神様の側が今日も僕らを待っていてくださいます。「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」と神様は言われます。(詩篇145.18)こんなに近くにいて、しかも「わたしを呼べ」(エレミヤ33.3)と願ってくださっています。


僕らがイヤなこと、苦しいことに直面するとき、まず求めるのは神様です。神様に向かうための苦しみです知恵のあるあの人この人ではなく、あの方法この方法でもなく、あの先生でもなく、まずは神様です。「 主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」です。(詩篇 34:10)主を求めましょう。

1ヨハネ4.16-21

 神様を愛しましょう、とか隣人を愛しましょうとか言うけど、僕らの中からは愛は出ません。出たとしても少しだし、ちょっとイヤなことだがあると枯れてしまいます。聖書には「私たちが神を愛したのではない」とあります。逆に「神が私たちを愛し」とあります。愛は神様から与えられるものです


10

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです


●あなたは神様に完璧に愛されています。


神様の愛は完璧です。神様は僕らに対して怒りさばく神様ですだのに、その怒りをなだめるためにイエス様を「宥めのささげ物として」十字架の上で殺してくださるほどです罪や汚れのある僕らへの命がけの愛です

ここに愛があります。僕らは悪いことしかしてないのに、神様を愛してないのにその愛を知らされて信じました。そのままで愛され、受け入れられ、赦され、喜ばれています。この愛を信じる人は神様にとどまる人です神様と一緒にいることは愛と一緒にいることです。神=愛です


16

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。


もう裁かれていません。怒られてもいません。人から攻撃されたり、苦しみを受けることはありますが、神様のさばきでも罰でもありません。僕らは神様の愛の中にいます。神様の愛は僕らのために命を捨ててくださることで完璧になりました。


17

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです


裁きの日、終わりの日、全ての人が裁かれるときに、なんと、僕らはキリストと一緒に復活し、どんな欠点も汚れもない栄光を持ち、キリストと一緒に勝利することが決まっています。この世ではキリストと一緒に苦しみ、人から嫌われたり、時には殺されたりすることもあります。「この世において、私たちもキリストと同じようである」からですキリストが罵られても罵り返さず、それでも忍耐して愛してくださったような者にされています。


僕らが神様を愛したのではありません。神様が僕らを愛してくれました。そのままで、汚れたままで愛してくださいました。これが神様の愛です


●神様の完璧な愛は恐れを締め出します。


18

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです


僕らは恐れる必要がありません。もう、神様は罰していません。他人は責めるかもしれないし、自分で自分を責めるかもしれません。でも、神様は僕らを責めてないです。もし、誰からからキリストのために罵られたり悪口を言われたらよろこびなさい、とさえ聖書は言います。(マタイ5.11-12)悲しいこと苦しいことはあるけど、恐れる必要はありません。イエス様がどんなに苦しんで愛してくださったかを考えると恐れは消えて行きます。地上では苦しみがありますが、イエス様はもっと苦しみ忍耐して愛してくださいました。僕らの苦しみは罰でも裁きでもなく、神様の忍耐に少しだけ参加することです


恐れる人もいます。神の罰を受け切り捨てられると考えると恐れます。つまり、恐れる人は見捨てられるかも、と思って神様の愛が心に入ってこない状況です神様の完璧な愛や赦しを信じられないなら恐れます。


僕ら人間は恐怖を感じると変なことをします。相手に対して必要以上に攻撃したり武装したり、逆に逃げたりします。かです過剰な武装や攻撃は恐れている証拠です何も持っていないイエス様を逮捕する時に、恐れる人々はまるで暴漢を捕まえるかのように武装してきました。恐れるペテロは剣で相手に斬りかかりました。恐れは怒りや攻撃を生み出します。(マルコ14.47-49)怖くなると人間は必死で頑張るようです。逆に、逃げる人もいます。ところが、神様の完璧な愛と受容の中にいる人は逃げる必要がありません。相手をやっつける必要もありません。神様が自分を命がけで全肯定して喜んでいてくれているからですどんな結果になっても、たとえ殺されても、僕らは神様に受け入れられています。愛は恐れを締め出します。


18

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです


●神様の完璧な愛は兄弟姉妹に流れます。


教会の仲間はイエス様が「正しい人でなく罪人を招く」(マタイ9.13)とおっしゃった通りり変な罪人が多いのが事実です。そのような変な仲間こそ神様が命がけでゆるし、招き、新しく生まれた神様の子どもです。だから僕らも兄弟を愛したいと思うようになります。イエス様が命がけて自分を、そして相手を受け入れ、愛してくださったからです神様を愛することは、神様の子どもたちを愛することです


(5章1-2節)

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです


(4章20-21節)

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです私たちはこの命令を神から受けています。


しかも、歯を食いしばって、愛さなければ!って頑張ることではありません。愛は僕らから出るのではなく神様からの新しい心です神様からの源泉掛け流しなので負担にならないです。(5.3)イエス様は相手を愛しています。そのイエス様の御霊が僕らの心に注がれてしまっています。僕らが神様の愛にとどまり、神様の愛に浸かっています。自分は相手が嫌いでも、神様は相手を愛し、ゆるし、祝福しています。それが僕らの心に与えられ、態度に出てしまいます。


目に見えない神様の愛は見える形で現れます。これが神様から生まれた人の特徴です。神様の愛は僕らが思う以上に完璧です。自分に愛がなくても大丈夫です神様は完全にあなたを受け入れ喜んでいます。そして相手を受け入れ、喜んでいます。安心しましょう。自分で何とかしようと思うのは疲れます。無限の神様の愛に浸かりましょう。いや、もう浸かりきってます。完全に僕らを愛してくださった神様は、そのように兄弟を愛する新しい心に浸してくださいます。兄弟を忍耐することも愛です。神様のために苦しむことも愛ですハレルヤ!


ホセア10.12-13

 正義とは、神様との関係を何よりも求めていることです。「朱に交われば赤くなる」ということわざ通り、僕らは交わる相手によって良くも悪くもなります。神様と交われば必ず神様のご性質がいただけます。与えられるものは誠実です。これは「真実の愛」とも訳されています。

神様が求めているのは僕らが神様と親しく交わり知ることです。「わたしが喜びとするのは真実の愛(誠実)。いけにえではない。」と聖書は言います。(ホセア6.6)神様と交わると真実な愛の実を実らせます。神様を求める人には神様は必ず答えてくださいます。


12

あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。


開拓する耕地とは何もない場所です何もないところまず神様を求めなさい、と聖書は教えます。自分からは何も出てこないことを認めて、神様を求めることこそが正義ですところが僕らは神様でなく自分の力を求め、自分に頼ります。力は神様からのプレゼントなのに、まるで自分のもののように誇ります。その結果与えられる実は不正です


13

あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べた。それはあなたが自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだからだ。


イスラエルは神様から良いプレゼントを与えられるたびに、神様に感謝せずに偶像を作り、偶像のおかげだと言いました。これこそがウソです。「神様のおかげ」が真実です


1

イスラエルは生い茂るぶどうの木。それは多くの実をつけた。実が増えるにしたがって祭壇の数を増やし、その地が豊かになるにしたがって石の柱を豊かにした。


全てのよいものは神様から与えられたプレゼントです神様に感謝し、神様を求めましょう。高ぶらず、全てが神様から与えられたものであることを感謝しましょう。自分で作り上げたものは何もありません。全てが神様の恵みです主を求めましょう。何もなくても神様は全て与えてくださいます。ハレルヤ!


ホセア11.1-8

 イスラエルは神様が作り育てた大事な子どもたちです奴隷だったエジプトから救い出し、守り養ってくださったのは神様ですだのに彼らはそれを知らずに偶像を拝みます。それでも神様は愛し養うことをやめません。


(1-4)

「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。

彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。

このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。

わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。わたしは彼らにとってあごの口籠を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた。


彼らはこんなに愛されているのにガンコに神様に反抗します。それでも神様は愛することをやめません。彼らを見捨てることができない、と聖書は言います。罪深いイスラエルなのに、神様の心は「あわれみで胸が熱くなっている」と書かれています。


(7-8)

わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。


この神様の愛とあわれみは僕らにも注がれています。僕らが神様を知らず、反抗していた時から神様は僕らを愛し、あわれみで胸が熱くなり、心が沸き返るほどでした。僕らが神様を愛したのでなく、神様が愛し抜いてくださっています。今日もそうです僕らのことを考えて「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」と言ってくださっています。僕らが思う以上に愛されています。神様の愛は大きすぎます。僕らに代わって命を捨てるほどです感謝しましょう。ハレルヤ!

ホセア12章

 光も空気も水も神様からのものです。今生きていること、必要な食べ物があること、暖房があることもです良いものは全部神様から与えられている恵みです読み書きができること、話せること、少しばかりの計算ができることなど、神様は僕らを育てる大人を通して教えてくださったものです


同じように、イスラエルも彼らから出たものは何もありません。先祖ヤコブが神様から「あなたを祝福する」と言われ、その通りに祝福された民族です。7節に「ベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた。」とあります。そこで語られた祝福は素晴らしいものでした。


(創世記28.13-15)

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」


だのに、その子孫であるイスラエルは自分の力で何かを得たかのように高ぶります。


8

エフライム(イスラエルの部族の名。イスラエルの代名詞として)は言った。「確かに私は富んでいる。私には力がある。私のすべての勤労の実があれば、私のうちに、罪となる不義は見つからない。」


もともと先祖ヤコブは自分の力を頼り、兄エサウを押しのけて長男の権利を奪ったり、盲目になった父イサクをダマして長男の祝福を奪うような人でした。そんな彼が神様と出会い、神様と格闘し、もものつがいを外され、弱くされ、それでも神様に泣きながら私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32.26)と懇願します。自分の知恵と力に頼る彼が変えられ、神様に泣いてお願いするような人にされました。そのように「あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」と聖書は言います。(6節)


イスラエル人たちはエジプトで奴隷にされ、何もなかった経験があります。何も持たない彼らに神様は天からの食べ物を与え、天幕に住ませてくださいました。ここまで来れたのは全部神様の恵みですだのに彼らは自分の悪知恵に頼ります。「商人は手に欺きの秤を持ち、虐げることを好む。」(7節)神様はエジプトから出てきた時のことを思い出させようとします。


9

「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。例祭の日のように、再びあなたを天幕に住まわせる。


イスラエル人たちは富み、立派な家に住んで神を忘れ、偶像を作り拝みます。富んで神を忘れるくらいなら、何も持たずに簡単な天幕に住んで神様に感謝する方が良かったです高ぶるエフライム(イスラエル)に神様は怒ります。


14

エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。彼の主は、その血の責任を彼の上に下し、彼のそしりに報いを返される。


イスラエルは何もない民族でした。与えられたものは全部神様からの恵みでした。威張れる理由などありません。感謝しない理由などありません。今まで来れたは100パーセント神様の恵みです。僕らも同じく、自分で手に入れたものなど一つもありません。もう一度神様に戻りましょう。全てを感謝しましょう。何もなかった時のことを思い出しましょう。今あるものは全部神様からのプレゼントです感謝しかありません。ハレルヤ!

ルカ1.1-24

クリスマスはイエス様がこの地上に来てくださったことを感謝するですが、イエス様は約2000年前に思いつきで突然来られたのではありません。それは旧約聖書の時代から何度も預言されて来たことです旧約聖書によるとイエス様がこの世に来る前に、預言者エリヤと同じ霊に満たされた人、預言者ヨハネが現れることが書かれています。(マラキ4.5-6)旧約聖書の預言の通りにヨハネは生まれます。今日の箇所はヨハネが生まれることが父親になるゼカリヤに告げられる箇所です


(7-12)

しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。


父親になるザカリヤはも神殿の中で祭司として香をたく奉仕をしていた時に、神様の使いから奥さんの妊娠を伝えられます。子どもが与えられるようにずっと祈って来たし、その祈りは聞かれました。しかも、その子は聖霊に満たされて、イエス様のために人々を立ち返らせる人になります。全て旧約聖書の預言の実現でもありました。


(13-17)

御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

その子は主の御前に大いなる者となるからです彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」


祈って来たことなのに、いざ本当になるとザカリヤは信じられませんでした。そして信じなかったことで一時的に口が聞けなくされます。それでも、神様の使いが言った通りに奥さんエリサベツは妊娠します。神様にとっては、年寄りだから、とか、ああだから、こうだから、という人間的な事情は障害にはなりません。神様には不可能は一つもありません。これは無理、あれは無理、と決めつけるのは人間の側です


18

ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」(…中略…)

見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」(中略やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。


イエス様がお生まれになる少し前に、預言者ヨハネが生まれます。全てが神様が計画された預言の実現です

父親ザカリヤは話せなくなり、不自由な生活をする中でもう一度神様の偉大さを、不可能はないことを、そして自分が神様を小さく考えすぎていたことなどを考えさせられたと思います。神様がおっしゃったことは必ず実現します。やがて、ヨハネが生まれたときにゼカリヤは再び話せるようになります。その時にはああだから無理、などとは言わず、ただ神様の偉大さを賛美しました。


64

すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。


神様の預言は必ず実現します。イエス様がこの世にお生まれになったのは全てが預言の実現ですその直前にヨハネが生まれたのも預言の実現です神様のことばは必ず実現します。そして、僕らの考えよりもずっと大きく、人間の事情を超えて実現します。

神様のことばが確かであることを僕らがますます知っていきますように。


4

それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。

ルカ1.67-80

 イエス様は今から約2000年くらい前に地上に来られましたが、それは何千年も前からの預言(旧約聖書に書いてある預言)の実現でした。その預言を知っていたユダヤ人たちにとっては「神様の預言は本当だ!」という喜びですイエス様がお生まれになる少し前に祭司ザカリヤは聖霊に満たされて(神様の霊に満たされて)次のように言って賛美しています。(ザカリヤという人は、預言者ヨハネの父親です。)


(67-70)

さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。


生まれてくるイエス様のことを「救いの角(つの)」と言っています。救いの力、という意味です。このイエス様が「ダビデの家に立てられた。」と言っています。ダビデという人はこの時代のさらに約1000年前のイスラエルの王様です。神様はそのダビデの家系の子孫の中から「永遠の王様」が生まれる、と何度も預言しておられました。少し旧約聖書を紹介します。


(1歴代誌 17:11-14)

わたし(神様)は、あなた(ダビデ)の息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。(…中略…)わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。(…中略…)わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。


ユダヤ人(イスラエル人)ならみんなこの預言も知っています。ザカリヤも知っていました。だから、神様は預言通りに救いの力をダビデの家系の中から立ててくださった!と喜んでいます。しかも、この救いの王の王座は「とこしえ(永遠)までも堅く立つ。」と繰り返されています。ユダヤ人みんな、この救いの王が生まれる預言を信じて待ち望んでいました。だからザカリヤは神様が「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」(70)と感謝して賛美しています。


新約聖書はイエス様がダビデの子孫であることを強調して「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」と書き始めています。(マタイ1.1)これによってユダヤ人たちは「やっぱり!」「本当だ!」と神様の預言のことばの真実さをほめたたえます。「このすべての出来事(イエス様の周辺で起こったこと全部)は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」と聖書は言います。(マタイ1:22


預言はダビデの時代だけでなく、そのさらに1000年くらい前(BC2000年くらい)のユダヤ人の先祖アブラハムに対する預言や契約の実現でもありました。だからザカリヤは感謝してい言っています。


(72-73)

主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。


神様はこのアブラハムに、あなたを祝福する、あなたの子孫も祝福する、と約束(契約)をされました。その子孫がイスラエル人たちです。でも、この時代のイスラエルはローマ帝国に支配されて、とても惨めな時代です。それでも神様は契約を忘れていないし、必ず祝福する、という誓いを忘れる神様ではありません。旧約聖書に書かれている預言(契約)はたくさんありますが、その一部を紹介します。


(創世 12:2-3 

わたし(神様)はあなた(アブラハム)を大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」


(創世 22:18)

あなた(アブラハム)の子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。


イスラエル人が一人の子孫によって祝福されるだけでなく、その子孫は世界の全ての国々を祝福する、とあります。これは一体誰のことだろう、とユダヤ人ならみんな関心があったし期待がありました。新約聖書はこう解説しています。


(ガラテヤ3:16)

ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです


ザカリヤは神様がアブラハムに言われた約束(契約)に対する信仰と感謝があって賛美しています。


(72-73)

主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。


僕たちの世界は罪と悪に支配され、暗闇の中にあります。でも、イエス様は完全に悪に勝利し、罪を赦し、きよめてくださるためにこの地上に来てくださいました。「敵」とは罪や悪で人間をコントロールする悪魔ですやがて生まれる女の子孫の中からこの悪魔を踏み砕く救い主が来ることは創世記から預言されていました。


(創世 3:15

わたし(神様)は、おまえ(悪魔)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(イエス様)との間に、敵意を置く。彼(イエス様)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」


イエス様は悪魔に勝利します。悪魔は敗北が決まっています。が、まだその時が来ていないので今はまだ泳がされています。イスラエル人だけでなく、イエス様を信じる人はイスラエル人への祝福と同じ祝福と勝利が与えらると聖書は言います。(ガラテヤ3.7-8など)

イエス様を信じる人は先に悪魔の支配から解放されて救われた人たですザカリヤはイエス様によって敵から勝利することを先取りして賛美しています。


71

この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。


74

主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。


クリスマスは希望です悪魔に支配されている人たちが解放されます。死と苦しみと闇のこの世界にいのちの光が朝の光のように訪れました。イエス様を信じる人は罪が赦され、救われます。救われた人たちは永遠のいのちと平和に入っています。


(78-79)

これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」


クリスマスは希望です。クリスマスは勝利ですクリスマスは神様の預言の実現です。感謝しましょう。ハレルヤ!