2023年1月2日月曜日

エレミヤ51.1-19

 バビロンはチグリス、ユーフラテス川流域で豊かな国でした。その豊かさを与えてくださったのも神様ですだのに彼らは自分の手でそれを作ったかのように高ぶり、偶像を作り、エルサレムを破壊します。バビロンは一定期間イスラエルへの懲らしめをする国として神様に用いられたのも事実ですですが、神様からの裁きを受けます。これは神様の復讐でした。


11-13

矢を研ぎ、小盾を取れ。主はメディア人の王たちの霊を奮い立たせられる。御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは主の復讐、ご自分の神殿の復讐だからである。バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。見張りを強くし、番兵を立て、伏兵を備えよ。主は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを実行されるからだ。大水のほとりに住む、財宝に富む者よ。おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た。


バビロンは神様の怒りの前に消え去ります。イスラエルもまた高ぶり、偶像を作り神様に反抗したのに、イスラエルは見捨てられせんでした。両者の違いがはっきりと書かれています。


(4-5)

刺し殺された者たちが、カルデア人の地に、突き刺された者たちが、その通りに倒れる。

しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。


バビロンは滅ぼされたのに、イスラエルは70年の懲らしめの後救われます。「彼らの地は罪過で満ちていた」のに関わらず、です彼らはエルサレムに帰り、回復します。


9-10

私たちはバビロンを癒やそうとした。だが、それは癒やされなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう。バビロンへのさばきが、天に達し、大空まで上ったからだ。

主は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。


バビロンは滅ぼされ、イスラエルは回復するので「不公平じゃないか!」と思う人も多いようです両方とも同じように壊れた器のようです神様に捨てられてもおかしくありません。だのにイスラエルが捨てられなかったのは神様の憐れみです。「は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」と聖書は言います。(ローマ9.16)両者とも滅ぼされてもおかしくありません。だのに、「その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった」のです。(ローマ9.22)


この時、イスラエルと異邦人(バビロン)の区別がはっきりとありました。でも、今は「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(ローマ9.24)今はイスラエル人は良くて異邦人はダメ、ということはありません。両者とも同じく神様のあわれみに招かれています。イエス様の十字架の処刑によって神の怒りは過ぎ越されます。イエス様を信じ、呼び求める人はイスラエル人であっても異邦人であっても救われます。


(ローマ10:12

ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです


僕らはイエス様を信じて赦され、救われました。神様の怒りと裁きに会うことはありません。愛する子どもとして懲らしめられることはありますが、それは僕らが回復し成長するための愛であって裁きではありません。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」(ヘブル12.10)


神様は正しく復讐する方です。でも、イエス様を信じた人は裁かれることなく救われます。今も神様からの愛の懲らしめはあります。が、裁きではありません。ただ感謝しましょう。イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。」(5)僕らはこの選びと同じ赦しと契約に入れていただきました。感謝しかありません。僕らの誇りはありません。ただイエス様の恵み100パーセントです。ハレルヤ!


エレミヤ51.-20-44

 神様は罪を滅ぼしてしまいます。だから神様は僕らに罪から出て逃れよ、と言います。罪の中にいると神様から滅ぼされてしまうからです神様はバビロンという高ぶりと偶像礼拝の国を滅ぼし尽くしてしまいました。


(24-25)

わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、彼らがシオンで行ったすべての悪に、あなたがたの目の前で報復する。──主のことば──全地を破壊する、破壊の山よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。


その時、神様はイスラエル人たちに「バビロンの中から逃れよ」と言われます。そこにい続けると一緒に滅ぼされるからです


(45-47)

わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。

そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。

それゆえ、見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはバビロンの彫像を罰する。この全土は恥を見、刺し殺された者はみなそのただ中に倒れる。


安心安全だと思われていたバビロンは神様の預言の通りに滅ぼされます。人が安心安全だと言っても、です。だからイスラエルには「そこから出よ」と神様は言われました。そして神様は僕らにも、この世の汚れから逃れなさい、とおっしゃっています。僕らはイエス様によって救われ、神様の裁きから逃れました。再び滅びに巻き込まれないように、と聖書は言います


2ペテロ 2:20

主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。


神様に滅ぼされるものには執着せずそれを手放し出ていく必要があります。一緒になって滅びないためです。また「滅ぼされるんじゃないか」という人の噂に怯えて生きる必要もありません。僕くらはイエス様によって赦され愛され受け入れられています。神様が怒り、滅ぼそうとしているものからは離れましょう。神様はこの世の罪を滅ぼしてしまいます。罪から離れ遠ざかることは救いです

詩篇85.10

 神様は恵み深い方です僕らの罪を代わりにイエス様が背負ってくださり、僕らを赦してくださいました。同時に神様はまことです罪をちゃんと指摘してくださいます。十字架の上でイエス様が苦しまれることは、僕ら人間がどれだけひどい罪人であるのかを明らかにしています。神様の恵みとまことは十字架の上で一つになっています。


10

恵みとまことはともに会い義と平和は口づけします。


神様の義は人の罪を指摘し裁きます。同時に神様は平和の方です平和は裁かずに赦し、受け入れてくださいます。神様の義と平和は十字架の上で一つになっています。「義と平和は口づけします。」(10)僕らの罪を裁く義であるイエス様が、僕らのために十字架で死んでくださり、受け入れてくださいました。僕らは神様との平和が与えらています。


恵みとまこと、対立するような2つが一つになっています。

義と平和、対立するような2つが一つになっています。十字架にかかって死んで下さったイエス様だけが僕らに必要な全てを与えてくださいます。イエス様の十字架こそ全てですハレルヤ!

詩篇85篇

 お祈りで大事なことはお願い事だけでなく、「神様はこういう方です」と告白することです。好きな人に「あなたはこういう人」とその良いところを告白するように、神様の素晴らしいところ告白します。祈りは感謝であり賛美であり愛の告白です

詩篇は祈りのお手本です。イスラエル(ヤコブ)は神様を裏切り続けてその土地は敵に滅茶苦茶にされましたが、それでも、神様はその怒りをやめ、もう一度その土地を回復させ罪を赦してくださいます。それを告白しています。


1-3

主よあなたはご自分の地に恵みを施しヤコブを元どおりにされます

あなたは御民の咎を担いすべての罪をおおってくださいます。セラ

あなたは激しい怒りをすべて収め燃える御怒りから身を引かれます


もちろん祈りはお願いも大事です。「こうしてください」と正直にお願いすることです神様の愛や神様のすごさを告白すると、お願いの内容も神様と合ってきます。今日の箇所は「神様は全ての罪をおおってくださる」と信じて告白しているので、「怒らないでください」というお願いも調和しています。「どうせ無理かも…」という不安げなものでなく、「神様はこうしてくださる」と信じつつのお願いです


4-7

帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。私たちへの御怒りをやめてください。

あなたはとこしえに私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは帰って来て私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。

主よ私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。


神様は信じる人を赦してくださいました。「もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」と言ってくださいます。(ヘブル10.17)神様の怒りは過ぎ越されました。そして神様の願いは僕らが喜ぶことです。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5.18)僕らは心から告白できます。神さまは怒ってません。罪は赦されました。滅茶苦茶にされたイスラエルの土地は神様の回復しました。同じように僕らが回復し喜び感謝することを主は願っておられます。イスラエルの産物も、僕らが与えられるものも全て神様の恵みと愛です


12

主が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出します。


僕らも告白しましょう。神様は良い方です。怒っていません。全ての罪をおおってくださいました。イエス様の十字架による救いは完璧です平和と喜びを与えてくださる神様ですこれからも良いものを与えようとしてくださる神様です主は素晴らしいです。ハレルヤ!

詩篇86篇

 ●不安が祈りや願いになることの大切さ


不安なこと、苦しいことは祈るためのものです小さな子どもが何でも言うことは僕らのお手本ですダビデも不安なこと苦しいことを神様に言っています。


(1)

主よ耳を傾けて私に答えてください。私は苦しみ貧しいのです


不安は祈りになります。祈りの中で不安は平安になり、悲しみは喜びと変えられて行きます。自分の貧しさや苦しさを認めて祈るは幸いです。(マタイ5.3)自分ではできないこと、無理なことを認めることは神様を体験する最初のステップです弱さや不安は神様と深く繋がるための恵みです


●神様だけを恐れ求める心になるように


ダビデは自分が神様以外、人や状況を恐れやすいことを知っていました。だから「たましいをお守りください」と祈ります。神様だけを恐れ、神様だけを求めるように心を一つにしてください、と言います。


2

私のたましいをお守りください。私は神を恐れる者ですあなたのしもべをお救いください。あなたは私の神。私はあなたに信頼します。


(11)

私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。


僕らも神様以外を恐れやすいものです。人を恐れたり、お金がなくなることを恐れたり、メンツが傷つくことを恐れたりします。あっちを恐れ、こっちも恐れるのではなく、神様に求め神様を優先し、神様だけを恐れる一つの心になりますようにとダビデは祈ります。この時ダビデは横暴な人たちから殺されそうになっていました。


14

神よ高ぶる者どもは私に向かい立ち横暴な者の群れが私のいのちを求めます。彼らはあなたを前にしていません。


不安だから助かるためにいろんな方法を考えます。神様抜きのやり方がちらつきます。自己保身、お金優先、人のご機嫌取り、取引など。だからダビデは祈ります。僕らの祈りの模範です


11

主よあなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。


祈りは神様に向かう心が整えられて行くための唯一の方法です


●信仰を告白する祈りの大切さ


祈りは自分が信じてることを神様に告白することでもあります。ダビデは「あなたは私の神。私はあなたに信頼します。」と神様に告白します。(2)


ダビデの祈りは神様を信頼します、という告白と、助けてください、憐れんでください、という祈りが行ったり来たりしているのがわかります。不安と信仰が行ったり来たりするのも祈りです


(3)

主よ私をあわれんでください。絶えず私はあなたを呼んでいます。


不安の中でも神様に告白しているうちに、神様の大きさや愛が少しずつ入ってきてだんだんと神様の領域が増えてきて、賛美と感謝へと回復していきます。ダビデの願いは喜ぶことです


4-5

このしもべのたましいを喜ばせてください。主よ私のたましいはあなたを仰ぎ求めています。

主よまことにあなたはいつくしみ深く赦しに富みあなたを呼び求める者すべてに恵み豊かであられます。


ダビデは不安の中でも喜ばせてください、と願います。そのために神様がどんなに良いお方か考えています。この試練は神様のさばきではありません。神様はいつくしみ深いお方です。憐れみ、いつくしみ、そして赦しに富んでいます。この神様の素晴らしさを15節でも繰り返しています。


15

しかし主よあなたはあわれみ深く情け深い神。怒るのに遅く恵みとまことに富んでおられます。


神様の素晴らしさを告白して祈るするうちに、だんだんと確信が強くなります。1節では主よ耳を傾けて私に答えてください。」だったけど、7節では「あなたが私に答えてくださる」に変わっています。


7

苦難の日に私はあなたを呼び求めます。あなたが私に答えてくださるからです


神様の大きさを考えて行くと、祈りが確信に変わっていきます。


8-10

主よ神々のうちであなたに並ぶ者はなくあなたのみわざに比べられるものはありません。

主よあなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て伏し拝みあなたの御名をあがめます。

まことにあなたは大いなる方奇しいみわざを行われる方。あなただけが神です


12-13

わが神主よ私は心を尽くしてあなたに感謝しとこしえまでもあなたの御名をあがめます。

あなたの恵みは私の上に大きくあなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるからです


僕らの上にも同じように神様の恵みは大きいし、僕らは救われます。殺されることがあっても「よみの深み」と言われる裁きから救われます。どんなに試練があっても不安があっても、殺されても救われます。


●まとめ

不安や恐れは祈りとなります。祈り求めるための不安や苦しみ、貧しさです。心が神様と一つとなるためです

それは簡単ではなく、不安と確信を行ったり来たりして、でもだんだんと喜びが回復します。これが祈りの生活です不安になったら貧しくなったら祈りましょう。そして神さまがどんなに素晴らしい方か思い巡らしましょう。不安は平安に変えられ、悲しみは喜びに変えられます。不安や苦しみは祈りのためのステップです神様と親しく交わるためのものです。ハレルヤ!


詩篇87篇

 エルサレムは神様を礼拝するための神殿があった場所です人間が神様を愛し礼拝し感謝することは神様にとっても人間にとっても喜びです。夫婦が愛し合う以上に、親子が愛し合う以上に、親友同士が喜び合う以上に、人間が神様を愛し賛美し礼拝することは天の喜びです


罪があり不完全になってしまった僕らですが、それでも神様との喜びの関係を回復途中です。もともと、人間は神様と愛し合い祝福し合い喜び合うように作られました。神様は人間を赦し受け入れ交わる場所としてまずシオン(エルサレム)を選ばれました。神様にとってシオンは喜びの場所です


1-3)

主の礎は聖なる山にある。主はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。神の都よあなたについて誉れあることが語られている。


神様は最初にイスラエル人たちを選び彼らを祝福されました。イスラエル人たちは神様の子どもであり、神様の家に生まれた祝福された人たちです

そしてなんと!あらゆる国の人たちが同じくこの祝福の子どもとして招かれています。


(4-5節)

「わたしはラハブとバビロンをわたしを知る者として記憶しよう。見よペリシテとツロクシュもともに。『この者はこの都で生まれた』と。」しかしシオンについてはこう言われている。「この者もあの者もこの都で生まれた。いと高き方ご自身がシオンを堅く建てられる」と。


4節にあるラハブはカナン人、バビロンもペリシテもツロクシュも全部神様に敵対していた人たちです

だのに、神様は彼らを招き、まるで自分の家の子どものように『この者はこの都で生まれた』と言ってくださいます。僕ら日本人も同じですどんなに神様に敵対してた人であってもイエス様を信じる人は神様の子どもとして新しく生まれた人です


(ローマ 9:26

『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」


(ガラテヤ3:26

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです


僕ら日本人もどんなに神様に敵対していたとしてもイエス様を信じた時に新しく神様の子どもとして生まれます。イエス様は「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。」とおっしゃいました。(ヨハネ3:3,5)信じた僕らは神様の都で生まれた人として登録されます。信じた僕らの国籍は神様籍、天国籍です


(6-7)

主が「この者はこの都で生まれた」と記して国々の民を登録される。

歌う者も踊る者も「私の泉はみなあなたにあります」と言う。


神様の子どもとして新しく生まれた人は、力も命も神様から出てきます。今までの自己努力型の力の出どころとは全然違います。それは神様から出る新しい命の泉です僕らは神様の子どもとして新しくされました。神様との交わりには喜びがあり歌があり踊りがあります。神様との愛の交わりは僕らが思うより全然楽しく喜びと力に満ちたものです。今はまだ不完全で実感に乏しいかもしれません。でも事実は僕らは神様との愛の交わりがスタートしています。礼拝することは神様の喜びです。そして僕らにとって喜びます。まさに歌う者も踊る者も「私の泉はみなあなたにあります」と言うのが礼拝です。ハレルヤ!

詩篇1篇

 なくなる幸せ、なくならない幸せ。詩篇1篇


1,幸いなことよ


「幸いなことよ」とありますけども、これはすごく強調された感嘆文で、あぁなんて幸せなんだろう!!と言う表現だそうです。アダムクラーク先生がこんなことを書いていました。


1. 神は人を幸福のために創られた。

2.すべての人は幸福になりたいという願望を持っている。

3. すべての人は、不幸を忌み嫌う。

4. 幸福は、すべての人の間で追求される壮大な目的である。

5.しかし、人間の心は非常に歪んでおり、幸福が見つからないところに幸福を求める。不自然で不道徳であり幸福を運ぶのに不適切なものに幸福を求める。

6.幸福を得るための本当の方法がここに示されている。


全体を読むと、なくなってしまう幸せとなくなることのない幸せが書いてあります。


●なくなる幸せ


1,幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。


一節の「はかりごと」と言うのは助言とかアドバイスと言う意味です。

悪しき者のアドバイス、助言はなくなってしまう幸福です。どのぐらい中身がないのか、後半に書かれています。


4,悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。

5,それゆえ悪しき者はさばきに罪人は正しい者の集いに立ち得ない。

6,まことに正しい者の道は主が知っておられ悪しき者の道は滅び去る。


籾殻は中身がありません。穀物の大事なところはすでになく、中身がなくて軽いものです。

この当時農夫たちは脱穀した後、いらないゴミとそして、それを分けました。空中に放り投げて、そして風でその入らないものは飛んで行き、消えて行きました。そのようなものだといいます


良さそうに見えるアドバイスなんだけども、ひとときだけで後でがっかりさせる助言です。

素敵なプレゼントをと思ってリボンついて包装紙バッチリの箱が箱だけだったって言う経験ありますか?

すごくよく見えるかもしれません。期待させるかもしれません。でも神様の前には何の意味もないむしろ滅ぼされ捨てられてしまうアドバイスです。そういう話に乗らない人はなんて祝福されているんだろう、聖書は言います。


1 罪人の道に立たない人。


罪には的外れと言う意味があります。すごく良さそうな話なんだけどもでもそのゴールはずれています。

矢を放つ時には、その時はあってると思うけども、30メートル先の的にはずれています。同じように、良さそうに見えても、神様の前には完全にずれている、そのような道に立たない人がなんて幸いなんだろうと言っています。


そして 1あざける者の座につかない人。


神様の言ってることを見下して馬鹿にしたり、あるいは神様の言葉を信じて喜んでる人たちを上から見下すそういう人は不幸です。その人に幸せはありません。共通してるのはみんな一見良さそうに見えると言うことです。高ぶって嘲る人の話は一見勝ち組に見えるかもしれません。神様のことを考えないアドバイスは一見幸せに見えるかもしれません。でも中身のない穀物のように軽くて、表面だけの話です。その通りにしてみたらあまり幸せではなかった、とか、長持ちしなかったと言うものです。


私たちみんな幸せになりたいんです。さっきアダムクラーク先生の言葉を紹介した通りです。


5.しかし、人間の心は非常に歪んでおり、幸福が見つからないところに幸福を求める。不自然で不道徳であり幸福を運ぶのに不適切なものに幸福を求める。

6.幸福を得るための本当の方法がここに示されている。


聖書は言います。悪しき者のアドバイスに歩まない人はなんと幸せだろう、と。

逆に言うと悪しき者のアドバイスに従う人は不幸だと言うことです。


手に入れてみたら幸せじゃなかった、と言うことは私たちの周りでも経験します。お金があれば幸せになれると思った、でもお金を持てば持つほどストレスと不安が増えていったとか、あの会社に入れば、あの大学に入ればあの資格を持てば幸せになれると思った、でもそうでもなかった、など。僕もイエス様を信じるまでは必死でした。認められたくて、幸せになりたくて。僕の場合は音楽で認められさえすれば幸せになれると信じて欲しくて欲しくて努力しました。たまに「すごいね」って言われて嬉しいんですが、でも、ほんとにはかない一時的な満足感です。だから、次々と満足を手に入れ続ける必要があります。


聖書に出てくるサマリアのある女性は異性に幸せを求めました。いろんな男と結婚して今は6人目と同棲中。彼女は男が私を愛してくれると言うことに満足を得ていたからです。でも男性による満足はつかの間でした。この人も違った、あの人も違った、別れては次の人と一緒になって、を繰り返し、すごく渇いていたけども、本当の幸せ知らなかった人です。


飲んだり、食べたりすることで満足を得るのは一番簡単かもしれません。でも幸せであり続けるには食べ続けなければならないし、飲み続けなければなです。


CS ルイスは、次のように書いています。

「神様は、私たちの幸福への欲望が弱すぎると感じておられます。私たちは中途半端な生き物で、無限の喜びが提供されるのに、その前に酒とセックスと野心と海での休日を楽しむことであまりにも簡単に満足してしまいます。」


聖書の中にも実例はたくさんあります。


あるところにお金持ちがいました贅沢に過ごしていました。(ルカ 16:19)

(ルカ 16:24)

彼は叫んで言った。(…中略…)私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』『私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』


彼はお金持ちで、なんでも願いが叶い嘲るものでした。貧乏な人、能力のない人、家の前にいる乞食ラザロを嘲っていました。

聖書は、高ぶりの座につかなかった人こそが幸いと言います。高ぶりの座につく人の最後が悲惨だからです。


(ヤコブ 5:1-3)

聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。

あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、

あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。


宝は天に蓄えなさい、とイエス様は言われます。

どんな富も名誉も美しさもそれが神様を誉めたたえないものなら虚しく消えていく籾殻です。


どんな人も老いて弱くなっていきます。いくら人気があっても、神様の前に富まないならその最後は悲惨です。


1,幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。


4,悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。

5,それゆえ悪しき者はさばきに罪人は正しい者の集いに立ち得ない。

6,まことに正しい者の道は主が知っておられ悪しき者の道は滅び去る。



●なくならない幸せ


さていよいよなくならない幸せです。


2,主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

3,その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。


でも今回僕大発見がありまして、これはディボーションしなさい、とか聖書通読しなさい、と強制的に言ってることと全然違ったな、ということです。本当に祝福された人幸いな人と言うのはまず喜んでいます。牧師がうるさいから聖書を読むこととは全然関係ありません。喜んでいるんです。


原文を調べると求めている、とか願っている、望んでいると言う意味もあります。その人が自分から欲しがって、それを喜んで、昼も夜も神様の教えを欲しい、欲しいと思っている人こそ幸いです。人が何かを楽しんでいる場合、それをやるように言う必要はありません。彼はそれを自分からします。


じゃあ、どういう人が神様のことばを喜び、もとめるか。その人は自分の中から良い言葉も行動も出ないことがわかってる人です。自分の言葉に満足している人は求めません。自分から良い言葉も愛も出てこないことを知って、心が渇いて、主の教えを欲しがり、喜ぶ人です。その人こそ与えられて「なんて幸なんだ」と聖書が言います。


しかもよく読むと3節読むとその人は流れのほとりに植えられた木って書いてあります


大事なのは「植えられた」って言うことです。受け身です。自分で移動してきたんじゃなくて、植えてもらったんです。一番いいところに。その人が幸いだと聖書は言います。

神様によって1番いいところに置かれている人こそ祝福されています。

自己努力ではなく神様によってそこに置かれました。最高の水の場所にもう置かれています。


この流れは神様から流れる命の水の川です。命の水が僕らを癒し僕らを生かし新しくします。神様から流れる川が全てを変えてくださいます。そのことは聖書で何度も預言されています。


イエス様がおっしゃった言葉


ヨハネ 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


イエス様が「聖書が言っているとおり」と言うと旧約聖書の預言とか律法です。そして生きている水の川が流れ出て、人々を生かし癒すと言う預言が沢山あります。


エゼキエル 47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。


エゼキエル 47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。


同じような預言はイザヤ書にもたくさんあります。


イザヤ 44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。


潤いのない地に、です。乾いた地に、豊かな流れを与えてくださいます。潤いのない人手をあげてください。その人に豊かな霊的な水が流れてきます。


続きが素晴らしいです。「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

さっきのエゼキエルでは、神様の命の水の川が流れるとその中の生き物もその周りの植物も非常に良くなると言い、そして、イザヤ44.3ではいのちの水のことを「私の霊を注ぐ」と言い換えています。さらに言い換えて、「祝福」を注ぐ、と言っています。


イエス様はそのことを指して、


ヨハネ 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


そしてその続きを読むと、これは御霊のことを言っていることがわかります。


ヨハネ 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。


今日の箇所はその水の川、御霊の川のほとりに植えられた木だと言います。

「植えられた」誰が僕らを川のほとりの木のように植えてくださったのか?それは神様です。

木は自分で移動できない。神様がそのほとりに植えてくださいました。


本当は干からびて死んでいくだけの命だったのに、神様が新しく川のほとりに植えてくださいました。聖霊の注ぎをいつも受けて新しくされるようにしてくださった。これが僕らの特権だし祝福です。


自分からは何も出てきません。自分で自分を成長させることはできない、自分からは何も生まれない、と言う自覚のある人は幸いです。

イザヤも言いました。潤いのないところに豊かな流れを、乾いているところに私の霊を注ぐ、わたしの祝福を注ぐ、とおっしゃいました。


イエス様はおっしゃいました。


ヨハネ 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

ヨハネ 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


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2,主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

3,その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。


そのうまくいかなくても永遠の喜びを得ています。この世では評価さないかもしれません。

でも、神様はご存知です。


6,まことに正しい者の道は主が知っておられ


何か良いことをしたとしても、右の手でしたことは左の手にも知られません。誰にも知られなくて大丈夫です。人前で自慢したりラッパを吹かなくて大丈夫です。神様が喜んでくださっていて、喜びがその人には永遠に尽きることなく溢れ出しています。


2,主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

3,その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。


人は嘲るかもしれません。宗教なんてやってかわいそう貧乏でかわいそうというかもしれません。

でもその人は尽きることのない祝福と喜びがあります。その実を結んでいます。その葉は枯れることがありません。永遠の幸福を得ています


今日のメッセージは、なくなる幸せがなくならない幸せか皆さんどっちを選びますか?と言う問いです。


素晴らしいところに連れてこられ、尽きることのない命の川の水を僕らはもらっています。

だのに、僕らは自分から、消えてしまうこの世のささやかな幸せで自分を満たそうとします。神様を礼拝するよりも、何十倍も時間をこの世のこと、消えていくことに使おうとします。その人はこの世のことで満足しようとしている人です。


幸いな人、なくなることのない幸いは尽きることのない命の水に満たされ、聖霊に満たされて、神様のみことばを求め、喜び、満足する人です。それはなくなることのない幸せです。


すでに、最高の場所に植えられた木です。それを拒否することができるのはあなただけです。

神様はすでに最高のところにあなたを植えてくださり、命の水の御霊が与えられ、聖霊は神様のことばをを喜ぶようにしてくださり、あなたを満たし、何をしても栄え、実を結ぶようにすでにセッティングしてくださっています。


こんなに素晴らしい、なくならない幸福が与えられているのにそれを拒否し、命の祝福を受けないように、繁栄しないように実らないようにしているのはあなたにとっては何でしょう。


自分を手放し、自分で自分を満たそうとするこの世の小さな目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢を手放して、

普通に御霊に明け渡し、吸収すれば、成長し、その葉は枯れることなく実ります。しかもそれは永遠です。


一年の最初にこの箇所が与えられたのは神様の恵みです。


ーー考えてみましょうーー


①あなたに住んでおられる聖霊が主のみことばを喜び、あなたを満たし祝福しようとしていることをイメージしましょう。


②それを無視して他のもので満足しようとしていることはあるでしょうか。


③御霊に自分のすべての時間を明け渡す祈りをしましょう。

詩篇3篇

 詩篇3篇


愛する家族に裏切られ苦しめられることほど悲しい事はありません。今日の詩篇の題には「ダビデがその子アブサロムから逃れたときに。」とあります。ダビデは愛する息子に裏切られ命を狙われることになってしまいました。…だのに、彼は平安と自由を失っていません。その秘訣は、神様がどのようにしてくださるのか「真理」を口にしていることです。彼が思い出し口にしているのは、敵がああだ、こうだ、と言う不安要素でなく、もっと悪いことが起こるぞ、と言うイメージでもなく、「神様は」このような方、あのような方、と言う確かな神様情報です。イエス様は言われます。「わたしのことばにとどまるなら、(…中略…)あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8.31-32)



(1-4)

主よなんと私の敵が多くなり私に向かい立つ者が多くいることでしょう。

多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。セラ

しかし主よあなたこそ私の周りを囲む盾私の栄光私の頭を上げる方

私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。セラ



悪い状況は神様に報告するようにと聖書は言います。祈る時には思い煩わないで、神様の確かさを思い出し感謝して報告し祈ることです。「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」です。(ピリピ4.6)敵は自分を囲むけど、それ以上に神様が自分を囲み、守り、見放すことはないし、神様に求める時に必ず答えてくださることが真理です。神様が敵を滅ぼし、僕らに栄光を与えてくださることが聖書的な真理です。真理は僕らを自由にし、平安にします。真実な神様情報は僕らを安心させ、恐れを締め出し、安眠させてくれます。



(5-8)

私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。

私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。

主よ立ち上がってください。私の神よお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち悪しき者の歯を砕いてくださいます。

救いは主にあります。あなたの民にあなたの祝福がありますように。セラ



神様がどのようなお方かいつも心に蓄え、考え、思い巡らすことは、僕らがどんな悪い状況の中でも喜びと感謝と平安を与えてくれます。敵は今日も僕らを恐れで囲みます。でも、愛と真実は今日も恐れを締め出します。今日も神様が僕らを取り囲み、内側にも外側にも満ちておられます。今日も主の教えを喜び、昼も夜もその教えを口ずみ、喜び、安心し、感謝する1日でありますように。「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4.7)ハレルヤ!