2022年12月30日金曜日

ルカ2.22-38

 光が入って来たり、カーテンが空いたり、窓が空いたりすることを喜ぶ人もいますが、逆に「やめて!」という人もいます。光が入ると色々見えてしまって恥ずかしいし、できればそのままで隠れていたいからですイエス様がこの世に生まれたのは、闇の中に光が来たようですイエス様は真実を暴きます。イエス様のことばは罪は罪、不正は不正だとハッキリ認めさせます。だから、イエス様が地上に来られると反対したり、嫌ったり避けたりする人とそうでない人に分かれます。


赤ちゃんイエス様を連れて両親が神殿でささげものをしに来た時、そこにいたシメオンという老人は聖霊に満たされて言いました。


(34-35節)

シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」


イエス様は大人になって人々から反対を受け、殺されます。光を嫌うように罪人はイエス様を嫌います。イエス様によって「多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」それでも、イエス様がこの地上に来られたのはそのように闇の中を好む罪人を救うためです


(28-32)

シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからですあなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」


イエス様は「万民の前に備えられた救い」ですイスラエル人だけでなく僕ら日本人にも備えられた救いですイエス様は「異邦人を照らす啓示の光」です啓示とは今まで良くわからなかったことがハッキリわかる、ということです。しかも、それは「光」ですイエス様は闇の中にいる罪人をそのまま愛し、罪を赦してくださる光です。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1.21)このことがわかる人はイエス様のところに来ます。逆に罪の赦しがわからないと、怖くて光の近くにはいけません。

イエス様の赦しを信じる人は光を受け、力を受けます。でも、罪の赦しがわからない人は怖くて光の近くにはいかないし、激しく反対したり逃げたりします。だから、シメオンは言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。」


イエス様という光がくると、多くの人たちの心の中の醜さ、汚さが照らされます。「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(35)光に照らされて自分の汚さがわかることを恐れるか、それとも照らされた罪が全部赦されるという恵みに感謝するかの二ですイエス様は全ての人を赦し受け入れようとされる神様からの光です。自分の醜さがわかる人は幸いですイエス様はそんな罪人を見捨てないからです。「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と聖書は言います。(マタイ 4:16


全ての人を照らす光がきました。恐れず、逃げず、イエス様の所に行きましょう。イエス様はさばくために来たのではなく、救うために来てくださいました。イエス様こそ救い主です感謝しましょう。ハレルヤ!

ルカ2.39-52

聖書はイエスキリストは神様だとハッキリ言います。


(ローマ9:5

このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です


この神であるキリストは全てを捨てて人間として地上に来てくださいました。「神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」と聖書は言います。(ピリピ2.6-7)

見えない神様が人となって来てくださいました。それでも「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」です。(ヘブル1:3

神である方が赤ちゃんとして生まれ、何もできない赤ちゃんから大人になるまで完全に人と同じことを経験しつつ成長されました。イエス様の成長は僕ら人間の模範ですイエス様の子ども時代の記録は多くありませんが今日の箇所に少しその様子が書かれています。


(41-46)

さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、

イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。


全知全能である神であるイエス様は、子どもとして成長しました。そして、聖書についても教師たちから話を聞いたり質問したりして育ちました。神のことばであり、神である方ご自身が宮(神殿)で教師たちと対話し、聖書を中心として交わりをしていました。全てをご存知の神は、人としての模範を示されています。僕ら人間は聖書を中心にして交わりの中で学び育つ必要があります


イエス様の両親は宮(神殿)があるエルサレムから自宅のあるナザレまで帰る途中でイエス様がいないことに気がつき、3日も探し回ってやっとエルサレムの神殿でイエス様を見つけました。親として叱ります。ところイエス様の答えは意外ですごめんなさい、ではなく、父の家である神殿に自分がいるのは当然である、というものです両親にとっては意味がわからないものでした。


(48-50)

両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。


イエス様はヨセフを父として育ちました。でも、イエス様は神の子です

神様がおられる神殿にいることをイエス様は「わたしが自分の父の家にいるのは当然である」と言います。(49)イエス様は自分が神の子であり、神様の家である神殿にいることが当然だと言います。ヨセフに育てられましたが神様の子ですそのように自覚しているイエス様ですが、イエス様は自由にへり下り、ヨセフとマリアに従い、仕え、成長します。


(51-52)

それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。

イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。


イエス様は神であり神の子です父なる神様の家である神殿にいるのがふさわしく、当然です。イエス様は人間の模範です。唯一罪がない完璧な人間です

反対に僕らは罪だらけで不完全な人です


ところがそんな僕らがこのイエス様を信じ受け入れた時に、この完全なイエス様の姿に似てくると聖書は言います。イエス様のことを「長子」(ちょうし、長男のことや僕らのお手本のこと)といい、信じた僕らをその兄弟と言い、僕らはこのイエス様の姿にだんだん似て来ると言います。


(ローマ8:29

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです


イエス様は神様の家でいつも交わっているのが本来の居場所ですそして、僕らもそのように変えられて来ます。今は神殿はありませんが聖書は教会の交わりを神殿とか神の宮と呼びます。そこはみことばを中心とした交わりです。また、親を愛し尊敬し仕えるように変えられて来ます。イエス様こそ本来あるべき人のお手本ですそして僕らもそれに似て変えられます。今はキズだらけ、欠点だらけでも、僕らの未来には栄光が待っています。僕らも神様の子どもとなりました。お父さんは神様ですハレルヤ!


2コリント 3:18

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです

詩篇89.1-4

 よく教会で「神様に向かって」歌いましょうとか、聞いてくださるのは「神様だけ」とか言います。…ですが聖書をよく読むと、歌うことは「人に向かって」知らせることでもあります。


1

私は主の恵みをとこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。


聖書の時代、歌うことは人に伝えるための効果的な方法でした。また、歌は神様の約束を覚えるためにも用いられます。詩篇は歌詞です神様の恵みは永遠に歌い継がれていくべきものです神様の恵みにウソはありません。これを歌うことは人々に、しかも、次の世代の人々に知らせて行くことです歌は神様の恵みを具体的に宣言することです


2

私は言います。「御恵みはとこしえに打ち立てられあなたはその真実を天に堅く立てておられます。」


神様はダビデと契約を結びました。神様とダビデの契約はその時だけのものではなく、永遠に変わらない契約です詩篇はそれを永遠に忘れないための歌詞です


(3-4)

わたしはわたしの選んだ者と契約を結びわたしのしもべダビデに誓う。わたしはあなたの裔をとこしえまでも堅く立てあなたの王座を代々限りなく打ち立てる。」


神様はダビデの裔(しかも単数形で一人の人のこと)を永遠に王様にする、と契約を結びました。ところがダビデは死んだし、ダビデの子どもたちも王様にはなりましたが死んでいきました。ダビデの子孫の一人で、しかも永遠の王様って誰のことだろう?というのがユダヤ人たちの関心事でした。まさに、永遠に死ぬことのない支配者、ダビデの子孫とはイエス様のことです

イエス様が産まれる時に、天の御使いはマリアに言っています。


(ルカ1.31-33)

見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。

その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」


神様の契約は変わることなく真実です僕らの言葉はすぐにコロコロ変わります。でも、神様の恵みは変わることがありません。神様の真実も変わりません。僕らが感謝し、賛美し、歌い、人に胸を張って伝えることができるのはこの神様の恵みと真実だけです。人の言葉も行いもすぐに忘れられていきます。時代とともに変わります。でも、神様の恵みと真実は変わりません。イエス様はダビデの子孫として永遠に支配されます。いや、もうイエス様の支配はスタートしています。やがて誰の目にも明らかになると聖書に預言されています。


僕らも歌いましょう。そして知らせましょう。神様の恵みは永遠です。神様のことばは真実です本当にダビデの子孫のイエス様が王です。永遠です。ハレルヤ!


1-2

私は主の恵みをとこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私は言います。「御恵みはとこしえに打ち立てられあなたはその真実を天に堅く立てておられます。」


詩篇89.19-37

 僕ら人間は「あの人は立派だから成功した」「あの人はああだから失敗した」と原因を人に求めがちです今から約3,000年前のダビデ成功した王様ですが、それは彼が立派だったからではなく、全てが神様からの選びと恵みと力だと聖書は言います。


(20-24)

わたしはわたしのしもべダビデを見出しわたしの聖なる油で油を注いだ。

わたしの手は彼とともにあって揺るがずわたしの腕も彼を強くする。(…中略…)わたしは彼の前で彼の敵を打ち砕き彼を憎む者を打ち破る。わたしの真実とわたしの恵みは彼とともにありわたしの名によって彼の角は高く上げられる。


この力と勝利はダビデの子孫にも与えられ続けます。しかもその恵みは「永遠」です


28-29

わたしの恵みを彼のために永遠に保つ。わたしの契約は彼にとって確かなものである。わたしは彼の子孫をいつまでも彼の王座を天の日数のように続かせる。


この恵みと力はダビデや子孫が立派だったからではありません。その理由はただ一つ、神様のことばが真実だからですたとえダビデの子孫たちが神様を捨て、裏切ることがあったとしても神様が彼らを祝福するその約束は変わりません。神様からの教育的な懲らしめはありますが、恵みがもぎ取られることはないし、神様の約束が変更されることもない、と聖書は言います。恵みの理由は神様の真実さゆえです


(30-35)

もしその子孫がわたしのおしえを捨てわたしの定めのうちを歩まないなら

またもし彼らがわたしのおきてを破りわたしの命令を守らないなら

わたしは杖をもって彼らの背きをむちをもって彼らの咎を罰する。

しかしわたしは彼から恵みをもぎ取らずわたしの真実を偽らない。

わたしはわたしの契約を汚さない。唇から出たことをわたしは変えない。

わたしはかつてわが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わないと。


ダビデもダビデの子孫も死にました。ですが、聖書はその子孫の王国は永遠だと言います。


(29)

わたしは彼の子孫をいつまでも彼の王座を天の日数のように続かせる。

36-37)

彼の子孫はとこしえまでも続く。その王座は太陽のようにわたしの前にあり月のようにとこしえに堅く立つ。


新約聖書によると、このダビデの永遠の祝福と王国とは、イエス様の王国だと説明しています。イエス様は死から復活され、今も生きて支配しておられることが、永遠に王としてご支配し祝福されていることだと言います。


(使徒13:34

神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。』というように言われていました。


イエス様の王国は永遠ですそしてイエス様を信じる人への祝福も永遠ですそれは神様の約束が真実だからです。人間側の行いによらず、ただ神様の恵みだし選びです。全てが神様から出ています。感謝しましょう!

詩篇89.39-52

 神様はダビデを祝福し、ダビデの子孫であるイエス様を祝福し、またイエス様を信じる僕らを祝福しておられます。それは絶対に実現する恵みであり真実です。「わたし(神様)の恵みを彼のために永遠に保つ。わたしの契約は彼にとって確かなものである。」と言ってくださいます。(28)


ところが、ダビデの子孫たちもイエス様も、まるで神様から見捨てられたかのように全てを失ったことがありました。敵が勝ち誇り、喜び、恥だけに覆われたことがあります。それでもよく読むと、それもまた神様のご支配の中での出来事です


(38-42)

しかしあなた(神様)は拒んでお捨てになりました。あなたは激しく怒っておられます。あなたに油注がれた者に向かって。あなたはあなたのしもべとの契約を廃棄し彼の王冠を地に捨てて汚しておられます。(…中略…),道行く者はみな彼から奪い取り彼は隣人のそしりの的となっています。あなた(神様)は彼の仇の右手を高く上げ彼の敵をみな喜ばせておられます。


イエス様はまさに人々から罵らせ、全ての尊厳を奪われて殺されてました。そして、敵はあざけって言いました。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」(マルコ15:32イエス様は嘲られました。それでも神様の恵みはイエス様から離れたのではありません。イエス様は復活して全ての栄光と権威を持っておられます。


そして今もイスラエルは嘲られ、クリスチャンたちも嘲られます。イエス様はもう一度地上に来られて全てを支配なさると聖書にありますが、嘲る人たちは「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」とバカにします。(2ペテロ3.4)彼らは油注がれた者(キリスト)を悪く言います。


50-51

主よみこころに留めてください。あなたのしもべたちの受ける恥辱を。私が多くの国々の民をすべてこの胸にこらえていることを。

主よあなたの敵どもはそしりました。あなたに油注がれた者の足跡をそしったのです


聖書はそれでも神様の言葉は変わることなく実現する、と言います。一定期間まるで神様に見放されたように感じることがあるかもしれません。それでも神様の恵みは変わることなる実現します。全てが神様の許可の中です。だから「いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠されあなたの憤りが火のように燃えるのは。」と神様に求めることができます。(46)僕らも辛く暗い時期を通らされることもあります。それでも神様の御手の中ですだからと言って見捨てられたのではありません。神様の約束は絶対に変わらない、と聖書は言います。


33-34

しかしわたしは彼から恵みをもぎ取らずわたしの真実を偽らない。

わたしはわたしの契約を汚さない。唇から出たことをわたしは変えない。


イエス様は全ての権威と栄光を持っておられる方なのに、全てを剥奪されて殺されました。しかし、イエス様は復活して今も全ての権威と栄光を持っておられます。「わたし(神様)の恵みを彼のために永遠に保つ。わたしの契約は彼にとって確かなものである。」と言ってくださいます。(28)僕らも辛く暗い道は通らされることがあります。それでも大丈夫です。見捨てられたのではありません。敵が喜び、敵が勝ち誇ることがあっても神様のご計画の一部です神様の恵みは試練を通して実現することが多いようです試練は僕らの信仰を成長させます。試練を通らないとわからないことはたくさんあるようです


(ヤコブ1:2-4)

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。


神様に見捨てられることはありません。

今日も僕らに与えられる全ての苦しみや悲しみが用いられ、ますます神様との関係を親しくさせていただけますように。


詩篇90篇

 先輩たちは口々に「人生はあっという間」と言います。子ども時代はすぐに終わり、大人になり老人になって人生は終わります。いくら成功したり繁栄したりしても花がしおれるように人生は終わります。先輩たちも言いますが何より聖書がそう言っています。


(3-6)

あなたは人をちりに帰らせます。「人の子らよ帰れ」と言われます。

まことにあなたの目には千年も昨日のように過ぎ去り夜回りのひと時ほどです

あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。

朝花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています。


人が衰えて病気になり死んでいくことは神様の意図ではありませんでした。罪の結果であり、神様の怒りとさばきゆえです本当は死も悲しみも病も叫びもなく全てが良い世界として神様は造られました。でも、全ての人に罪が入り、僕らは互いに傷つけあい、自分も傷つき、消耗して苦しんで死んで行きます。


(7-10)

私たちはあなたの御怒りによって消え失せあなたの憤りにおじ惑います。

あなたは私たちの咎を御前に私たちの秘め事を御顔の光の中に置かれます。

私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に消え去り私たちは自分の齢を一息のように終わらせます。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。


聖書が僕らに教えているのは「だから人生なんて虚しいんだ」ではなく、「本来あるべき喜びと祝福の世界に戻って欲しい」という神様の願いです僕らの人生が苦しみと虚しさに満ちているのは「罪」のせいです罪は僕らを苦しめます。罪があると他人を責め、自分を責め、弱って行きます。でも、聖書が教えているのは「あなたの罪は赦された」というイエス様の身代わりの十字架による福音ですこのイエス様の愛と恵みを信じる人は赦されます。罪責感からは解放され、今度は自分もまわりの人たちを赦します。そこには喜びがあり歌があります。虚しかった人生が満足と平安に変えられます。


(14-17)

朝ごとにあなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。私たちのすべての日に喜び歌い楽しむことができるように。

どうか喜ばせてください。私たちが苦しめられた日々とわざわいにあった年月に応じて。

(…中略…)私たちの神主の慈愛が私たちの上にありますように。私たちのために私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください。


今年もただ、イエス様の十字架の愛によって赦されています。あなたは無罪です。そして、あなたの隣人もイエス様によって無罪とされます。僕らは互いに責めあったりさばきあったりして消耗する必要はもうありません。イエス様によって無罪です人生は虚しく消え去るものではなく、喜びと感謝に溢れ、歌いつつ神様と人を愛していく営みです。虚しい人生でなく、労苦と災いの人生でなく、神様が願っておられるのは感謝と歌と喜びの人生です僕らは赦されています。無罪です。そして互いに赦しましょう!ハレルヤ!

民数記1章

 教会の数十人でもまとまるのが大変なのに、神様はイスラエル人たち成人男性だけで60万人、妻や子どもたちを入れると多分200万や300万人以上の人たちをまとめ、導いてくださいました。一体どうやったんだろう?って思います。


聖書によると神様は「混乱の神ではなく、平和の神」と書かれています。(1コリント14.33)その前後を読むと、神様から聖霊を受けた人は秩序を平和を重んじて互いに従うことができる、という話です。神様は何百万人の人たちを「えい!」と一気に並ばせたりするのではなく、弱く小さな人間にすぎない人をリーダーに任命して丁寧に秩序や組織を作り、一人も落ちる人がいないようにしてくださいます。


まず、神様にリーダーとして任命されたのはモーセとアロンですモーセは何度も断った弱い人ですそれでも神様は彼らを神様の代わりに語る預言者として任命されました。彼らの力によらず神様の力によることが明らかになっています。(出エジプト4章)そして神様はこの2人に成人男性を全て、一人も漏らさず数えるように命令します。


(1章2-3節)

「イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。

あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない。


モーセとアロン2人では「そんなのムリ!」って場面ですが、神様はさらに助手となるリーダーを名指しで与えてくださいます。モーセとアロンは彼らと協力しながら、一人も漏らさずにイスラエル人たちを本人確認をして登録することができました。


(4-5)

また部族ごとに一人ずつ、一族のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。(… 以下略…)


(17-18)

さて、モーセとアロンは、これら指名された者たちを伴い、第二の月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごと、一族ごとに、二十歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認した。主がモーセに命じられたように、モーセはシナイの荒野で彼らを登録した。


今も僕らクリスチャンは天のいのちの書にちゃんと登録されています。(黙示録3.5、21.17等)天の登録は確かですが、その天の登録の現れとして神様は地上に教会を作り、洗礼を受けて、教会のメンバーとして数えられます。教会は地上にある限りは不完全ですがそれでもきちんと神様の民となった人たちの信仰をみんなで確認して教会のメンバーとして登録します。


当時のイスラエルは「二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて」登録しました。実際イスラエルは神様の命令によって敵と戦わねばなりませんでした。今、僕ら教会は誰かと戦うように言われていません。逆にイエス様は敵を愛し、敵を祝福し、悪に対して善で返すように、右を打たれたら左を出すように教えられています。(マタイ5.39-44など多数)でも、悪魔や罪とは戦うようにと言われます。教会は年齢性別問わず、罪と戦い罪に誘う悪魔と戦っています。もちろんイエス様は完全に勝利させてくださる方です。でも、その戦いに僕らも参加しています。戦い方は人の言葉ではなく神様の言葉を見分けて信じて従うことと、祈りです。(エペソ6章)


神様は組織や秩序を作り、用いてくださる神様ですそれは敵に勝利し、一人も落ちることがないためですイエス様を信じて繋がることは個人的なことではありません。イエス様と僕がつながることは、教会と繋がることですイエス様は教会と僕ら個人の関係をキリストのからだと各器官と表現したり(1コリント12.27)、ぶどうの木と枝と表現したり(ヨハネ15.5)、聖なる宮とその建材のように表現したりします。(エペソ2.21、4.16など)いずれにしても一人で活動するクリスチャンはいません。イエス様に繋がることは神様の家族の仲間と繋がることですそこには秩序があり愛があります。モーセや12人の族長たちを用いて組織を作られた神様は今日も同じように組織や秩序を与えて弱い僕らを助けてくださいます。


リーダーが与えられていることや組織や秩序が与えられていることを感謝しましょう。縛りでも面倒なことでもなく、すぐに落ちてします弱い僕らへの神様プレゼントです。ハレルヤ!

民数記1.52-2.34

 イスラエル人たちは何もない荒野を40年間かけて移動しました。食べ物も水もない荒野の旅ですが、でもその宿営の中心には神様がいつもおられました。神様ご自身が言われます。


(申命 31:6 

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。


神様はイスラエル人たち男性だけで約60万人の中心に確かに住み、その住まいは「会見の天幕」と言われるものでした。神様がおられる天幕には昼は雲の柱が、夜は火の柱があって、確かに神様がそこにおられることが誰の目にも明らかでした。神様はイスラエル人たちの間に住みたいと願い「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。(中略)彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した…」と言われます。(出エジプト29.45-46)


ところが、人が神様に近付いたり触れたりすると殺されてしまいます。神様は罪と交わることができず、かつ全ての人には罪があるので、そのままでは交わることができません。この「会見の天幕」は人が神様の怒りに触れて殺されないための安全柵のような、仕切りのような役目がありました。人が神様と交わるためには罪がきよめられ、神様の怒りがなだめられる必要がありました。そのための厳重に区別されているのが中心にある会見の天幕です


人々は神様がおられる天幕を見つめるような形で周りに宿営します。その中心は神様がおられる天幕であることを感謝しつつ、でも神様の怒りに触れることがないように罪のなだめの儀式に仕えるレビ人たちがその天幕に仕えていました。


(1章52-53節)

イスラエルの子らは、軍団ごとに、それぞれ自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の周りに宿営しなければならない。わたしの怒りがイスラエルの会衆の上に臨むことがあってはならない。


全ての力と恵みは神様から与えられます。同時に聖なる方はほんの少しの罪も嫌う方です神様の天幕が彼らの真ん中にあったのは「怒りがイスラエルの会衆の上に臨むことがあってはならない。」ためです。(1.53)この恵みと力、そして聖さに満ちた神様を中心として、「距離を置いて」その東西南北に部族ごとに宿営する場所を決められ、移動するときには東側の部族、南側の部族、真ん中のレビ族、西側の部族、最後に北側の部族、という順番が決められていました。


(2章2-9節)

「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとのユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。彼の軍団は、登録された者が七万四千六百人である。その隣に宿営するのはイッサカル部族であり、(…中略…)その次はゼブルン部族で、(…中略…)その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。


以下、同じように南側に3部族151450人(10-16節)、真ん中にレビ族と会見の天幕(17節)、西側に3部族108100人(18-24節)、北側に3部族157600人(25-31節)の場所が決められ、移動する順番が決められています。彼らの移動はいつも神様が中心ですそして宿営するときにはいつも会見の天幕が見える形でぐるっと囲むように宿営していました。そこにはいつも雲の柱、火の柱があり、さらに罪のために殺された動物が焼かれる煙が上がり続けていました。


彼らの宿営の中心は神様です。しかも、罪を赦して人間と交わり、人の間に住みたいと願ってくださる神様です会見の天幕にはいつもなだめのために殺された動物の煙が上がっていました。


今は会見の天幕はありません。イエス様が十字架で処刑された時に幕は裂け、罪のためのささげものは不要になり、僕らは聖められて大胆に神様に近づくことができるようになりました。(ヘブル10.18-20)僕らが毎日見つめるのはイエス様の十字架の恵みですイスラエルの宿営の真ん中は会見の天幕でしたが、今は僕らのこの肉体が神様の住まいとなりました。僕らの肉体は神様の住まいだし、(1コリント6.19)2人でも3人でも教会が交わる時にそこにイエス様は臨在され、(マタイ18.20)その交わりは人間の交わりではなく御霊の交わりと呼ばれます。(ピリピ2.1)僕らは神様を中心として一緒に感謝して一緒に祈ります。今日も僕らの生活の中心は神様ですいつも神様を見あげながら宿営しましょう。今日も神様は僕らを赦し、受け入れ、一緒に住みたい、語りたい、と願ってくださっています!ハレルヤ!


民数記3.1-13

 旧約聖書の中に「大祭司」「祭司」「レビ人」が出てきます。彼らは神様に選ばれて任命され専門的に仕える人たちです何のためかというと、「罪のために、ささげ物といけにえとをささげるため」です。(ヘブル5.1)神様は人を愛し人と交わることを願う方ですが、でも同時に罪と交わることはない聖なる方です聖なる神様と罪ある人々が交わるために、祭司もレビ人たちも人々の罪を赦していただくためのささげ物をします。この時の大祭司はアロンです。そして、祭司はアロンの子どもたちです


(2-3)

アロンの息子たちの名は、長子ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。

これらはアロンの息子たちの名で、彼らは油注がれて祭司職に任じられた祭司であった。


10

あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」


聖なる神様に奉仕する祭司も弱くて罪のある人間ですだから神様に近づくためには「その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。」(ヘブル5.3)神様は「資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とおっしゃいます。(10)実際、この資格を軽んじたアロンの息子二人は神様に殺されています。


4

ナダブとアビフ(アロンの息子とち)は、シナイの荒野で主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ。


この事件はレビ記10章に書かれていますが、彼らは神様を軽んじて自分勝手な儀式をしたか、あるいはその続きを読むと飲酒したまま奉仕した可能性もあります。いずれにせよ彼らは神様の怒りに触れて死にました。


祭司たちもレビ人たちも人々の罪が赦され、神様に受け入れられるための奉仕が専門です祭司に付き従う奉仕者として神様はレビ人たちを選び任命されました。


(6-9)

「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエルの子らに関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。あなたは、レビ人をアロンとその子らに付けなさい。彼らはイスラエルの子らの中から、正式にアロンに付けられた者たちである。


祭司もレビ部族もフルタイムで神様にお仕えします。神様はエジプトで全家庭の長男を殺されました。その時に代わりに子羊を殺して救われるようにと言われ、その通りにした人々は救われました。(出エジプト11-13章)殺されなかった長男の全ては神様のものとされました。子羊の血によって取り戻された命ですそれは神様のものだと神様は宣言しています。そして、その長男の代わりにレビ部族が神様のものとなる、と言います。


(12-13)

「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」


新約聖書によると、イエス様が十字架の上で、まるで子羊が身代わりに殺されるように血を流してくださいました。その死によって僕らは救われ、僕らの全ては神様のものとされました。また、イエス様の十字架の血によってこの祭司とレビ人の制度は不要となり廃止されました。(ヘブル10.9-10)今、イエス様は完璧な大祭司として天の右の座で僕らの罪を完全にゆるしてくださいます。(ヘブル7.25-28)そして、取り戻された僕らは神様にフルタイムでお仕えする祭司、レビ人とされています。(1ペテロ2.5、2.9、黙示録1.6等)

パートタイムのクリスチャンはいません。僕ら全員の人生は神様のものとされました。僕らは完璧に聖なるものとされています。イエス様の十字架の血によるきよめは完璧ですだから恐れなく神様に近づき、そして、人々のゆるしのために祈りとりなします。


クリスチャンは全員祭司でありレビ人です神様に直接仕える人ですもちろん持ち場や守備範囲や賜物は違いますが、それでも全員が祭司であると聖書は言います。それは人々が赦されるため、人々が神様の怒りに触れて滅びることがないための奉仕です今日も主は僕らのことを「彼らはわたしのものである。わたしは主である。」と言ってくださっています。


今日も主に仕えましょう。まだ赦しを知らない人たちが滅びないように、殺されないように、とりなしましょう。先に赦され神様のものとされた僕らは全員祭司です今日も祈りましょう。

民数記3.14-39

 会見の天幕とは神様が人間の間に住み、神様が人間と交わる聖なる場所ですしかも会見の天幕は移動式です。男子だけで60万人以上、総勢 200-300万人の人たちがカナンの地に向かって移動し、その中心にはいつも神様の会見の天幕がありました。会見の天幕を設営し、出発するときには解体して収納し、また次の場所に設営します。どこに行っても神様とお会いする会見の天幕を作るのがイスラエルにとって最優先事項でした。それがきちんとなされるためには秩序と役割分担が明確でなければなりませんでした。

神様はレビ族の中に氏族ごとにグループを分けて役目を明確に与えられました。


①天幕の幕とか、おおい、垂れ幕などの管理をするグループ→ゲルション族。


25-26) 

会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、 庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の入口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。


②契約の箱や燭台などの天幕の中に置く用具を管理するグループ→ケハテ族。


31 

彼ら(ケハテ族)の任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。


③天幕の板や柱や台などを管理するグループ→メラリ族


36 

メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具およびそれに用いるすべてのもの、 庭の回りの柱とその台座、その釘とそのひもについてである。


ある人たちは釘を管理することに専念していました。この釘の人がいないとで台座を固定することができず、天幕が成り立ちません。また、ある人たちは燭台に専念していました。燭台がないと中は真っ暗で何もできません。また、ある人たちはおおいに専念しています。どの役目も神様とお会いする場所を作るための大事なものです彼らは「私は釘を管理している」とは思わず「神様とお会いする聖なる場所を準備している」と思っていました。それぞれの役目は違いますが目的は一つ、神様と人が交わる場所を作ることですどれが欠けても天幕は成り立ちません。


同じように、僕らも役目が与えられています。クリスチャンはみんな同じようなコピー人間ではありません。個性があり、神様から預かった賜物が全然違います。そのように役目も賜物も違うからこそみんなで協力して神様の住まいである教会を作り上げていけます。聖書は教会を人間のからだと各器官のようだと教えています。それぞれに違った役目や持ち場が与えられています。


1コリント12:17

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです


しかも教会の中に弱くて不要な人はいません。どの人にも大切な大事な役目を神様から預かっています。


1コリント12:21

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです


レビ族の中でも役目がそれぞれ違ったように、僕らもそれぞれ役目が違います。みんなが同じような役目をするのは間違っていると聖書は言います


1コリント12:29-30

みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。


レビ人たちはみんな役目が違いました。でも目的は一つ、神様と人が交わる場所を作ることでした。同じように教会もみんな持ち場が違い、役目が違います。でも、大事なことは、全てが神様と交わり神様を愛し、神様から愛される場所を作るためですどんな賜物も役目も神への愛、人への愛がないなら意味がありません。


1コリント13:2

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。


今日も与えられた小さな役目を心を込めてしましょう。全てはその役目のためでなく、神様を愛するためです愛を込めて与えられた役目を果たしましょう!

民数記5.1-10

 タバコが大嫌いな人と住むならタバコは吸えません。ペットが無理な人と住むならペットは無理です。同じように、人間の罪や汚れ、病気も死も嫌う神様と住むなら聖なる場所としなければなりません神様はイスラエルと一緒に住むために病気や汚れのある人を追い出すようにモーセに言います。


(1-4)

主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」イスラエルの子らはそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。主がモーセに告げられたとおりにイスラエルの子らは行った。


聖なる神様は汚れたものと交わることをしません。もし神様と一緒に住むのなら、罪や汚れのある人は追い出されるか、そうでなければきよめられるかのどちらかですイエス様は聖なる神様です。ところがなんと、汚れた人たちを招き、受け入れ、きよめてくださいました。


(ルカ5.13)

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。


神様が汚れた人と交わらないのは今も同じです。でも、イエス様はその病を背負って、ご自分が追い出される側になってくださいました。イエス様は身代わりの死を引き受け、僕らをきよめてくださいました。だから、僕ら罪のある人間は、どんな病があっても神様と近づくことができます。イエス様は信じる者たちを聖なる者、と呼んでくださいます。


僕らには罪があります。それは放置せずちゃんと神様に告白する必要があります。人に対する罪は神様に対する罪であり神様への裏切りですだからちゃんと神様に告白しましょう。そしてちゃんと弁償しましょう。


6-7

「イスラエルの子らに告げよ。男にせよ、女にせよ、他人に何か一つでも罪となることを行って主の信頼を裏切り、後になって、その人自身がその責めを覚えたときは、自分が行った罪を告白しなければならない。その人は償いとして総額を弁償し、それにその五分の一を加えて、償いの責めを果たすべき相手に支払わなければならない。


他人に対して罪を犯した場合も神様に対する罪ですなぜならその隣人は神様の宝物だからです。被害を与えたなら1/5を加えて弁償するように聖書は教えています。イエス様によってどんな罪も赦されます。イエス様のきよめは完璧です。だから恐れないで告白しましょう。必ず赦されます。必要なら十分に弁償しましょう。相手に対する罪は神様への罪です。イエス様の赦しは完璧です弁償を受け取ってくれる相手がいなければ神様に捧げるようにと聖書は言います。全ての罪は神様への罪だからです


(8)

もしその相手の人に、償いを受け取る権利のある親類がいなければ、その咎のために弁償されたものは主のものであり、祭司のものとなる。そのほか、その人のために宥めを行うための、宥めの雄羊もそうなる。


今日も神様は聖なる神様です罪や汚れと交わることのない聖なる神様ですその神様が僕らをきよめてくださいました。その神様が僕らは完全に赦して下さいました。僕らは聖なるものとされています。そしてこれからもきよく変えられ続けます。全てが神様の恵みです